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『暁の寺』 三島由紀夫 著

店主おすすめの一冊と、個人的に気に入っているツボをご紹介いたします。
今回は、『豊饒の海』第3巻『暁の寺』です。
第1巻、第2巻についてははこちら。

『暁の寺』は、タイのバンコクを舞台に始まります。
20代で初めて読んだ時、三島が描くバンコクの情景に強く惹かれるあまり、その後2回タイを旅行しました。
湿気を纏った空気、チャオプラヤ(メナム)川のカフェオレ色と木々の緑、蜃気楼のようにあちこちにゆらめく寺院の金色、甘みの濃い果物、控えめで穏やかなタイの人々、漂う気怠い雰囲気……最高だったなあ(遠い目)。

さて、仏教、ヒンズー教、輪廻転生、阿頼耶識、唯識論など、難解な内容にかなりのページが割かれている『暁の寺』。
正直わたしにはよくわからなかったので、難しいことはいつものように抜きにして、自分なりのこの一冊のツボをご紹介したいと思います。

本作は2部構成で、第1部は昭和16年のタイ、第2部は昭和27年の御殿場から始まります。
前巻『奔馬』の飯沼勲の死から8年後(第2部は19年後)、「生まれ変わり」を見つめる本多繁邦は47歳(58歳)の裕福な弁護士。
今回の「生まれ変わり」は、7歳(18歳)のタイのお姫様=月光姫ジン・ジャン
その他クセのある人物が次々と登場し、これまで理性の塊のようだった本多の印象が徐々に変わっていきますが、第1巻から続く象徴的な物や場所や人物が頻出して絡み合う歴史、南国独特の気候の中で異なる時間と空間を同時に捉える表現等々、やはり魅力的な作品です。

この一冊でのツボを挙げる前に、どうしても触れておきたいのが第1巻『春の雪』以来の蓼科の再登場。
御年95歳の老婆となった蓼科ですが、第1巻でも十分老婆的だったので、本作での登場時には「まだ生きていたのか!」と驚きました。

女は顔を斜めにあげた。顔を見て、本多はおそれた。黒い髪がかつらであることは、不自然な生え際の浮み具合からすぐにわかり、両眼の窪みも皺も深く埋もれるほどに塗り籠められた白粉おしろいから、宮廷風な、上唇を山型に下唇をぼかして塗った口紅の臙脂えんじが鮮やかに咲き出ている。その言語を絶した老いの底に、蓼科たでしなの顔があった。
(中略)
 気がつくと、蓼科の恭謙を装った顔が崩れて、こちらを窺っている。絞りをかけた羽二重のような皺が、山型の口紅のまわりを囲んでいたのが、その両はじの皺が多少ひきつれて、微笑と思われるようなものを刻んでいる。突然、まばらな残雪のなかの古井戸のような二つの目に、瞳が流れ、すばやく一閃いっせんこびが走った。

三島由紀夫『暁の寺』より

「言語を絶した老い」と言いながら、かなりの言葉を尽くしてその老いを描写する三島由紀夫。
相変わらず容赦がありません。

本多からもらった生卵を蓼科が飲み込むシーンも印象的で、若い頃にはそれなりに美しかったらしいことも判明。

割る場所を探しているのを、本多は放置ほうっておいた。何か忌わしいことを手伝うような気がして、手助けが憚られたからである。蓼科は存外器用に、自分の腰かけた石のへりで卵を割った。中身を落とすまいとして、慎重に口の前へ持って来て、徐々に仰向いて、夕空へひろげた口から、しらじらと光る総入れ歯の歯列のあいだへ流し込んだ。その口をとおるときの黄身の光沢つやのある丸みが一瞬見え、蓼科の咽喉のどの鳴りが、いやに健やかにひびいた。
「ああ、久々に滋養のあるものをいただきました。生き返るようでございますよ。まるでむかしの色香がよみがえるような気がいたします。これで娘のころは、何々小町と呼ばれたこともございますからね。とても信じていただけまいと存じますけれど」

三島由紀夫『暁の寺』より

外見をまるで妖怪のように、そして内面も決して好意的には描いてもらえない蓼科ですが、なぜかわたしは蓼科が好き。

蓼科も十分ツボなのですが、肝心の本作でのわたしの個人的なツボは、あるシーンで何度も繰り返し挿入される本多の心の声です。
それは、前巻『奔馬』で息子(勲)を亡くした飯沼父が、億万長者になった本多のもとを訪れるシーン。
本多はほとんど喋らず、延々と語っている飯沼を前に、心の中で「金だな」という言葉を計4回唱えます。

まずは飯沼の訪問を書生から知らされた時です。

金だな、と本多がすぐ思うのは、久闊きゅうかつじょして来る人間の用事は、そのほかにはないからである。弁護士崩れが来る。検事崩れのルンペンが来る。法廷記者崩れが来る。……誰もが本多の僥倖を聴き伝え、そんな僥倖で得た金なら、自分にも取分があるように思い込んでいる。本多は謙虚な人間にだけは金を出した。

三島由紀夫『暁の寺』より

そして応接間で酒を交わし、近頃の世相について熱を込めて語り出した飯沼の言葉の後に、次の一行が続きます。

金だな、と本多は思いながら上の空できいていた。

三島由紀夫『暁の寺』より

上の空どころか、飯沼が語っている最中に月光姫の寝姿にまで想像を巡らせる本多。
そして、飯沼が各地で起こっているデモについて言及し始めてもなお、本多は心の中で思うのです。

金だな、と本多は思っていた。

三島由紀夫『暁の寺』より

さらに左翼の動向と日本の将来を憂う飯沼の言葉が続く中、本多はまだ考えています。

金だな、と本多はそれだけ思っていた。しかし杯を重ねても、話は本題に入らなかった。

三島由紀夫『暁の寺』より

すると突然飯沼は服を脱いで自らの胸をさらし、自殺を企てた時の傷を本多に泣きながら見せるのです。
そこに至ってようやく本多は思い直します。

 むかしながらの飯沼の頑なな胸は、しかし今も白い胸毛に覆われて傲っていた。金ではないな、とはじめて本多は気づいたが、そう思っていたことを恥じる気持ちは毛頭なかった。

三島由紀夫『暁の寺』より

自分を訪ねてきた知人を相手に、ずっと金目当ての訪問だと思い続けている本多の冷えた心情が、何度もスッと挟み込まれる「金だな」という端的な言葉で表わされ、ついに5回目で「金ではないな」に変わります。
約4頁の間に繰り返されるこの皮肉な表現が、本作でのわたしのお気に入りです。


『暁の寺』は他の巻とは異なる点がいくつかあり、その中でも「生まれ変わり」担当の月光姫が明らかに主人公ではなくなっている点は大きな違いです。
『春の雪』『奔馬』では、本多の視点が多いとはいえ、清顕や勲はきちんと心情が語られており、物語の主人公でした。
ところが『暁の寺』では月光姫の視点は見当たらず、何を考えているのかも不明。
月光姫はただ肉体的に魅力を放ち、謎めいたまま本多から執拗に「見られる」存在に留まり、本作では完全に本多が主人公です。

その本多は、年を重ねて持ち前の理性を増すどころか、ある「へき」が明らかになり、妖しい肉欲の世界へ入り込んでいきます。
強烈な個性を放つ登場人物達のアクの強さや性の嗜好が描かれており、あれほどイライラさせられた『春の雪』のナルシスト清顕でさえ崇高に思えるほど。
いろんなものが歪んでいるように見えて、けれども歪んでいないものなどこの世にあるだろうか、という気持ちにもなってしまう『暁の寺』。

人間の欲というのは際限がなく、どれだけ知性と財を備えて高尚な生き物のつもりでいても、結局人はちっぽけで愚かな存在なのだなあ、と感じる一冊。
もう熱帯と言ってよいほど暑い日本の夏、南国タイの風景に思いを馳せて、この季節に読んでみるのはいかがでしょうか。



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