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「余り」の人生

15前に亡くなった祖母は大正9年生まれで、第二次世界大戦中の昭和18年に結婚して満州へ渡りました。
当時を思い出してよく話をしてくれたものです。

「昭和18年に結婚して満州へ行って、19年に出産、20年に終戦でおじいちゃんが戦死して、21年に帰国。
 おばあちゃんの人生は、この4年間で全部済んじゃった。
 だからね、残りの人生は『余り』だと思ってるよ」

それを聞いた当時まだ若かったわたしは、ちょっとショックを受けました。
87歳で亡くなった祖母が『余り』と言った期間は結局60年以上にもなり、孫であるわたしが存在している時期は祖母にとっては完全に『余り』の中に入るのです。
自分たち家族の存在や、平和な日常である「今現在」が『主』ではなくて、『余り=余分』と言われた気がして、なんだかちょっと余計なもののように扱われたと感じてしまいました。

でも、ずっと後になって祖母が言った『余り』の意味が、わたしが思ったこととはまったく違うことがわかりました。

人は、死を意識するような絶望を経験すると、どこかで肝が据わるのではないかという気がします。

「あの時のことを思えば、なんだって乗り越えられる」とか、
「あの時死んでいたとすれば、今があるだけで儲けもんだ」とか、全てを失う覚悟を一度すると、無いものや叶わないものを悲しむよりも、今あるもの、恵まれているものに感謝する気持ちを、しっかり意識することができるのかもしれません。
祖母たちの世代が、それほどの犠牲と引き換えに残してくれた平和は今、また変わりつつあります。

祖母にとっての長い長い『余り』の人生は、きっと幸せだったのでしょう。
苦労をして、つらい経験を乗り越えて、そしてその後の人生の何もかもを、『ご褒美』だと思いながら過ごしていたであろう祖母。

「ありがとう」と言い残して、3月9日の「サンキューの日」に逝った祖母のように、誰もが感謝して過ごせる世界でありますように。

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