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【千葉】くらしに笑顔を!袖ヶ浦カンツリークラブ& 星野リゾート「1955東京ベイ」

時は1958年。

日本は戦後の復興から目覚ましい発展を遂げ、東京タワーが完成し、長嶋茂雄や王貞治がプロ野球に入団するなど、国中が熱気に包まれていた。

東京湾沿いの京葉工業地帯も発展を続けていたが、当時の千葉市長・宮内三郎は「立派なホテルひとつ、ゴルフ場ひとつない」と不満だった。


宮内は千葉市の発展にと、当時、旭建設株式会社の社長だった増田正二に「辺田町の市有地にゴルフ場を開発できないか」と提案を持ちかけた。

その頃の旭建設は、「鷹之台カンツリー倶楽部」というゴルフ場の建設実績があり、その経験と技術力を生かして、他のゴルフ場やリゾート施設の建設にも取り組んでいた。

増田は宮内の思いを受け止め、袖ヶ浦カンツリークラブの開発計画が大きく動き出していった。


しかし、一流コースには情熱だけでなく協力も必要だと考えた増田は、千葉県出身の昭和電工社長・安西正夫に協力を求めた。

増田の実行力と安西の信用力により、袖ヶ浦カンツリークラブの開場が進められた。


1959年6月に始まった用地買収は同年末までに完了。

10月に測量が始まり、間もなく造成工事が行われ、5か月でコース、7か月でハウスが完成した。

雄大な自然と特色あるホールを目指した袖ヶ浦コースは驚異的なスピードで建設され、1960年11月1日に秩父宮妃殿下を迎えて開場式を行った。


袖ヶ浦コースがオープンして間もない1964年のこと、増田のもとに幾人かのシニア会員から、「距離が長くアップダウンも多いので、プレーがきつすぎる」という意見が寄せられた。

これに応えるというより、趣の異なるコースが2つあることは良いということで、理事会に於いて「新袖コース」建設が決定した。

翌1965年11月には新袖コースが開場した。


袖ヶ浦コースは設計家・和泉一介氏によるものだが、新袖コースはクラブのコース委員長・石井泰助が中心となって設計した手作りコースである。

会員からはむしろ新袖コースの方が難易度は高いとの評判もあるほどだ。


袖ヶ浦カンツリークラブは開場以来多くのトーナメントを開催してきた。

1966年開催した日本オープンをはじめ、1973年、国内で初めて開催された全米女子プロゴルフ協会公式競技『LPGAジャパンクラシック』(現TOTOジャパンクラシック)では、アメリカの賞金ランキング20位以内の女子プロが大挙して来日し、多くのギャラリーが詰めかけた。

さらに、袖ヶ浦コースでは1974年からブリヂストンオープンが開催され、新袖コースでは2010年からニチレイレディスが開催されており、男女プロトーナメントが毎年開かれている。



袖ヶ浦カンツリークラブより車で約50分
星野リゾート「1955東京ベイ」

1950年代のアメリカはというと、若者たちは、ロックンロールを踊ったり、ファッションやヘアスタイルなど、自分たちの独自のスタイルを確立した。

経済や文化が大きく発展し、中でも1955年は世界初のディズニーランドが誕生した。


それから28年後の1983年、東京ディズニーランドがオープンし、国内外から多くの観光客を引き寄せ、日本のレジャー産業に新たな風を吹き込んだ。

日本独自のサービス精神やおもてなし文化がディズニーランドの運営にも反映され、その高いホスピタリティが世界中で称賛された。


そんな東京ディズニーランドからわずか約10分の位置にある星野リゾート「1955東京ベイ」は、「OLDIES GOODIES」、「古き良き」をコンセプトに、ディズニーランドが初めて誕生した当時のアメリカの世界観をモチーフに展開している。

オールドアメリカンな雰囲気漂う館内に一歩足を踏み入れれば、初めてディズニーランドが誕生した1955年頃のアメリカへタイムスリップしたかのような感覚に陥る。

まるでテーマパークの1つのエリアにいるかのように、テーマパークを出た後も余韻と非日常的な世界観に浸りながら滞在を楽しむことができるだろう。


また、朝食ビュッフェは朝6時から営業しているので、朝早い出発のゴルファーもしっかりご飯を食べてパワーチャージすることができる。


【千葉】一度は行きたいゴルフ旅!
袖ヶ浦カンツリークラブ
× 1955東京ベイ by 星野リゾート


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