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【横浜】財界から名門へ!戸塚カントリークラブ& 星野リゾート「星のや沖縄」

時は1958年。

東京から大阪間に特急列車「こだま」がデビューし、同区間を客車列車より40分も早い6時間50分で結ぶことに成功した。

それから6年後の1964年10月11日には、待望の東海道新幹線が開通し、さらに東西の移動時間は短縮されることになるのだが、それはまだ先の話。




「東京から大阪までの新幹線ができたら、東西財界の交流も多くなるなるだろう。しかし、霞ヶ関カントリークラブではゴルフは遠すぎる。戸塚辺りに財界中心の高級ゴルフ場を造ろう。」

言い出しっぺは、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)頭取の渡辺忠雄を中心とした旧制第七高校(現・鹿児島大)の同窓生たちだった。

話を聞きつけた東洋経済新報副社長・山田秀雄、東洋電機社長・三輪兵吉、京成電鉄社長・橋口正幸、一期下の電通社長・吉田秀雄も加わった。


渡辺らは新たなゴルフ場の建設に向けて、三和銀行横浜支店内に「神奈川開発観光株式会社」を設立した。

目的は、一般募集の会員制クラブではなく、東西財界の交流の場としてのゴルフクラブの創設だ。

設立当初、社長に東洋電機の三輪兵吉が就任したが、健康上の理由で電通社長の吉田英雄と交代した。


社長となった吉田秀雄の動きは、精力的だった。

コース用地は神奈川県横浜市の相模と武蔵の界隈で、九十九谷戸と呼ばれる幽谷だった。

ところが土を少し掘ると、芝を植えるには不向きな土壌だと分かった。

現場の人間は、鎌倉ボタと呼び、ダイナマイト発破をかけても、ブスっと不機嫌な音をくすぶらせるだけ。

工事費も工期も、常識の2倍はかかりそう。

現地を視察したコース設計の名匠・井上誠一は、「こりゃダメだ」と言った。


しかし吉田は、「悪いコースでもいいから造る」と引かず、さらに井上が、用地の面積、地形から27ホールを助言したのに対しても、あくまでも36ホールをと強硬した。

そんな吉田に追い討ちをかけるように、コース用地をめぐっても、隣接の横浜カントリークラブ、そして相模鉄道との争奪戦となった。

36ホール全ての設計を井上誠一に依頼するはずだったが、買収のまとまりの早かった川上コース(現・東コース)の設計を建築家の間野貞吉(株式会社大林組)に依頼し、名瀬コース(現・西コース)は用地の買収がまとまった段階で井上誠一に設計を依頼することにした。


もともと川上コースがある地区は、鎌倉街道が谷間を縫うように走るような入り組んだ地形だったが、比較的尾根も低く、もとの地形を残したコース造りができ、手造りの温もりが感じられるコースとなった。

土地取得の事情で度々の設計変更を余儀なくされたが、1961年12月20日、川上コース(現・東コース)・18ホール、6510ヤード・パー72が開場した。


一方、名瀬コース(現・西コース)は、30台以上の大型ブルドーザーを導入しての大工事になった。

動かした土量は、川上コースが100万リューべ(1リューベ=1㎥)なのに対し、名瀬コースは約3倍の270万リューべ。

東南の雄大な緩傾斜面につくられ、自生の松や桜など2万本の樹木に囲まれ、気品あるアンジュレーションに仕上がった。

川上コースの開場から約1年後、1962年10月17日、名瀬コース(現・東コース)、7041ヤード・パー72が開場した。


設計の井上誠一は、「個々に何番がどうという批評もあると思いますけれども、私自身としては、コース全体の調和といいますか、そういうものはまあまあ保たれていると自信をもっています」と語っている。


名瀬コースには、吉田秀雄社長は、国際的にも通用するチャンピオンシップコースを構想していたようだが、成果はどうだったか。


1968年4月にはエキシビションでゲーリー・プレーヤーが来場。

1972年10月、ジャック・二クラスがチャリティゴルフをラウンドしている。

1970年からは日本プロマッチプレー選手権を8年連続開催して、チャンピオン級コースへの階段を順調に上る。

そして遂に、1981年、国内最大のメジャー日本オープン選手権を開催するまでに至った。


~名瀬コースの開場から43年後~

2005年10月2日午後3時、戸塚カントリークラブ西コース18番フェアウエイは、ギャラリーエリアから溢れ出した1万人以上の大観衆で湧き返っていた。

この日、日本女子オープン競技が集めた観客数は4万8677人。

その1番の理由は、その年の春高校生で女子プロ競技に優勝した宮里藍の人気である。

しかしその陰で見落されてはいけないのは、舞台となった戸塚カントリー倶楽部の抜群の立地条件である。

東京からは横浜新道利用で玉川インターから川上インターまで25分、横浜市街から20分。

東京、横浜という巨大都市をもつ都市型名門ゴルフクラブ「戸塚カントリークラブ」の現在と近未来を象徴するような、圧倒される光景だった。



<補足>

東コースは、2007年、設計家・大久保昌によって、2グリーンからペンクロスの1グリーンへ大改造され、バックティを新設、6749ヤードに伸ばされた。

結果、アベレージ向けのプレーしやすいコースから、上級者のシニア、レディスも楽しめるコース、西コースとは違ったテーストを持ったコースにグレードアップされた。


西コースは、同じく大久保昌の手によってきびしく井上誠一の原設計が復元された。

因みに大久保は、龍ヶ崎カントリークラブ(茨城県)開設時に、井上誠一の下で直にその仕事を見てきた直弟子である。

この改修によって西コースの戦略性と修景と造型美は、より際立ったものとなった。

ヤーデージは7261ヤード、グリーンはペンクロスオーガスタとペンクロスの2グリーンである。


また、2019年より「資生堂レディスオープン」が戸塚カントリークラブ西コースで開催されている。



戸塚カントリークラブより約60分
現代にあわせて進化した塔の日本旅館
星野リゾート「星のや東京」

東京・大手町にまるで結界を張るように江戸小紋で包まれた日本旅館「星のや東京」はある。

現代に合わせて進化した「塔の日本旅館」は、地下2階、地上17階の塔の空間に、畳敷きの玄関、伝統的な和室や各階のお茶の間ラウンジ、最上階の温泉で構成されてる。

館内は、ほぼ畳でつながり、客室では畳や和紙、竹素材のクローゼットなど自然の素材を多く使用している。

歳時記を表現した縁台の室礼や、端々に日本の季節を感じられるのは、日本旅館ならではのこと。


最上階 17 階には、地下 1500m から湧き出る天然温泉を引いた露天風呂と内風呂がある。

太古の昔、海が広がっていたこの地から湧く「大手町温泉」は、地中深くに閉じ込められた海水や海藻のミネラル類を多く含む塩分の強い温泉だ。

洞窟のような内風呂から続く露天風呂に出ると、切り取られた東京の空を独り占め。

流れる雲、宵の空色、飽かず眺める湯浴みのひとときに安らぎが訪れる。


現代にあわせて進化した塔の日本旅館
星野リゾート「星のや東京」

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