見出し画像

【埼玉】日本ゴルフ界のレジェンドたちと「霞ヶ関カンツリー倶楽部」㊥


東京ゴルフ倶楽部と程ヶ谷ほどがやカントリー倶楽部

1913年(大正2年)、すでに神戸・六甲、雲仙、横浜・根岸、鳴尾などに外国人専用のゴルフ場があった。

そこで「日本人のための、日本人によるゴルフ場」を作ろうということで、後に日銀総裁、大蔵大臣になる井上準之助(当時は横浜正金銀行頭取)を中心に、東京ゴルフ倶楽部が発足した。

翌年6月、東京ゴルフ倶楽部は駒沢村に6ホールで仮開場し、すぐ2,300ヤードの9ホールが完成した。

しかし8年後の1922年(大正11年)には、9ホールでは不満な、浅野良三(浅野財閥)らのグループが横浜に程ヶ谷ほどがやカントリー倶楽部として分離、独立した。


程ヶ谷カントリー倶楽部の初代理事長になったのは、日本石油(株)の専務取締役などを務めた田中次郎だった。

しかし、田中は当時50歳でゴルフを始めたばっかりの初心者だった。

程ヶ谷カントリー俱楽部に入会するも、初心者は意地の悪い姑のところに嫁に行ったかのように、コース片隅で肩身を狭くして上級者の顔色を見ながらプレーしている状況だった。

そこで田中は、会員みんなが平等に倶楽部ライフを過ごせるよう、また初心者でも肩身が狭い思いをしなくて済むように、初心者の団体「紅葉会もみじかい」を発足した。

同士7,8名で始めた紅葉会は、プライベートトーナメントなどを催しゴルフをエンジョイすることに努めた結果、同感の人々を多く得て、田中の人柄もあってか、会員は日ごとに増加し130名にも達するようになった。

紅葉会からシングルプレーヤーが続々誕生するようになると、紅葉会の名は遂には関東・関西のゴルファーの羨望の的となるまでになった。

そして紅葉会のメンバーには、後に霞ヶ関かすみがせきカンツリー俱楽部の存続危機を救うことになる鹿島精一(後に鹿島組社長)が在籍しているのだが、この時は誰もまだ霞ヶ関カンツリー俱楽部の存在を知らない。



井上まことと赤星兄弟

1928年(昭和3年)、藤田欽哉てつやは、程ヶ谷ほどがやカントリー俱楽部で懇親があった井上まこと、石井光次郎(後に衆議院議員)、清水揚之助(後に清水建設・副社長)の3名を呼び出し、発智庄平ほっちしょうへいからゴルフ場建設の申し出があった旨を伝えた。


井上信は,1885年(明治18年)生まれ、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業して、三井物産ニューヨーク支店在勤中25歳でゴルフを覚えた。

ニューヨーク近郊の複数の米英人経営のクラブに入会して日本人として最も古くクラブライフを経験し、帰国後は1918年(大正7年)東京ゴルフ倶楽部で行われた日本アマチュアゴルフ選手権で最初の日本人優勝者となった。

当時既に程ヶ谷カントリー倶楽部のキャプテン、そして日本ゴルフ界の指導者であったが、霞ヶ関カンツリー倶楽部の設立趣旨に大いに賛同し、顧問に就任した。


時同じくして、実の兄弟で日本アマチュアゴルフ選手権の優勝争いをする赤星兄弟(赤星四郎と赤星六郎)がいた。

赤星兄弟は、鹿児島出身の実業家で海軍御用達の大砲の特許で巨万の財をなした赤星弥之助やのすけの四男と六男である。

二人とも麻布中学校を卒業後、渡米しアメリカの大学に入学、在学中にゴルフに打ち込みコース設計理論も学んでいる。

1926年(大正15年)の日本アマチュアゴルフ選手権は四郎が優勝し(六郎は2位)、翌年1927年(昭和2年)に開催された第1回日本オープン選手権では六郎が優勝した(四郎は4位)。

帰国後は兄弟で東京ゴルフ俱楽部と程ヶ谷カントリーに入会し、ゴルファーの育成・指導に尽力していた。


(藤田は、すでに同志にして懇意にしていた程ヶ谷カントリー倶楽部・紅葉会幹部の田中次郎、山本栄男、鹿島精一の三長老の賛意と援助を受ける了解も得ていた。

そして、庄平の申し出た資金で、程ヶ谷カントリー倶楽部の加沼豊支配人を介して、芝2万坪の買い入れの予約をした。)



1929年(昭和4年)2月、霞ヶ関カンツリー俱楽部の建設予定地で地鎮祭が行われ、遂には鹿島組の技師による測量が始まった。

それからコースのレイアウト合議会が開催され、アウト・インのレイアウト方針が井上信、赤星四郎、藤田欽哉3名のアイデアを中心に定められ、それに石井光次郎、清水揚之助の2名を加えた、計5名による各ホールの設計・施行の責任分担が決められた。

 井上 信  1、2、18番ホール
 赤星四郎  4、9、10、11番ホール
 石井光次郎 3、14、15番ホール
 清水揚之助 5、7、12、13番ホール
 藤田欽哉  6、8、16、17番ホール

霞ヶ関カンツリー倶楽部HPより引用


合議制だから意見が合わずもめることもしばしばあった。

東コースのルーティングは、アウト1番がクラブハウスの前から右へ出て、2、3番と左廻り(逆時計廻り)に廻って9番でクラブハウス前に戻ってくることになっている。

この場合、設計セオリーでは、インコース10番ホールは、クラブハウス左前から出て、右廻り(時計廻り)に廻って18番でクラブハウス前に戻るのが、定石である。

設計時に、セオリー通りにカムイングインの時計廻りを主張したのが、赤星四郎だった。

対して藤田欽哉は、赤星説では1、2、3番(現在の18、17、16番)付近の用地が狭少すぎる、さらに18番ホールが現在の10番パー3とは逆に、クラブハウスに向って池越えすることになり、景観としても戦略性でも、コース内唯一の池の利用価値が大いに減殺されるとして反対した。

結局石井、赤星が現地で研究した結果、10番をパー3にして、11、12、13番を入れ替えプル方向(逆時計廻り)の現行のレイアウトに落ち着いた。


工事は発智庄平の手配による近隣村人総出の人海戦術で、急ピッチで進められた。

庄平の屋敷が事実上の建設本部で、工事総括責任者であった藤田欽哉は、庄平の屋敷に泊まることもしばしばだったという。


しかし、10月の開場式が迫ってきた初秋のころ、藤田は庄平から村に思わぬことが起こって困っていると告げられた。

それは、在郷軍人と青年団の有志が結集し,純朴なる村の風習が破壊されるという趣旨で、ゴルフ場建設反対と小学校児童のキャディー出勤禁止の運動が起こっているという内容だった。

これを聞いた藤田は好機到来とばかり、霞ヶ関小学校にキャディー対象年齢の児童と教員全員、在郷軍人および青年団全員を集め、一夕数時間の長広舌をふるい、疑惑質疑に応答し、納得してもらい、そして協力を求めた。

その後の地元の人たちと倶楽部の固い信頼関係はここから始まったのだった。


1929年(昭和4年)10月6日、起工からわずか8カ月という短期間で、霞ヶ関カンツリーは開場日を迎えることができた。

創設者たち(左から清水揚之助、發智庄平、発智太郎、井上信、牛島正巳、藤田欽哉)
”霞ヶ関カンツリー倶楽部HPより引用“


つづく


死ぬまでに一度は行きたい名門コース
マガジンのフォローはこちらから


※タイトルの見出し画像は「霞ヶ関カンツリー倶楽部」ホームページより引用しています。

この記事が参加している募集

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!