彼女は夢の本編



夢の中のあの人はいつも怒っている。

それは私があの人の夢を見ることに負い目を感じているからなのか、あの人を好きでいることに罪悪感を抱いているからなのか、それとも本当に怒っているからなのか、よくわからないけれど、とにかく夢の中のあの人はいつも怒っていて、私は目が覚めるたびに誰もいないさびれた浜辺に打ち上げられたような気分になる。不思議な時空の空白に放り出される。

夢の中で私はあの人とゆるやかな長い坂道を登っていた。目が眩むようなオレンジ色の夕日がアスファルトを照らしていて、あの人の背中が暗く翳って見えた。その夢はその時そこに自分がいるというより、古い記憶のビデオテープを再生して見ているような、そんな懐かしい感覚がした。

どこかからの帰り道なのだろういうのはわかるのだけれど、その時私はなぜか両手に牛乳パックを二本持っていた。一本は口も開いていない新品で、もう一本は中身がほとんど残っていない賞味期限切れの牛乳だった。


あの人はいつものようにしゃんと背筋を伸ばして私の目の前を歩いていく。私はそれについていこうとするのに、牛乳パックを持ったままではうまく歩くことができなかった。一歩進もうとするたびに、牛乳に重心をとられて転びそうになってしまう。その間にもあの人はどんどん坂道を登っていく。私は追いつけないまま何度も転びそうになる。はやく隣に並ばなくちゃいけないのに、もうすぐ日も暮れてしまうのに、あの人の影が遠ざかる。


置いていかれると思った私は、あの人に見つからないようにこっそりと古いほうの牛乳を道端の側溝に捨てた。

あの人が前を向いているうちにと思った。ばれないばれない、大丈夫と思った。私がやりそうなことだ。夢の中でもあの人に隠れてこそこそと悪さをしている。


古いほうの牛乳を捨てた途端に私は身軽になって、新品のまっさらな牛乳だけを抱えて嬉々としてあの人の隣に並ぶ。でもあの人は浮かない顔で私を見た。

察するに私がやったことは全部ばれていて、あの人は私が古い牛乳を捨てたことに腹を立てているみたいだった。その夢には音がなかった。でも言葉が伝わってきた。そんなに簡単に捨てられるなんて信じられないとあの人は言っていた。

私は言い訳を並べようとするのだけれど、あの人は悲しそうな、私に心底がっかりしたような顔でこう言った。


「私はこっちを通っていくから、あなたはそのままの道を通って帰って」

返す言葉も思いつかないうちにあの人は別の道にそれて、一度もふり返らずにすたすたと歩いていってしまう。

でもその場所の土地勘があるのは私のほうみたいで、私はどっちの道を歩いていっても結局は同じ場所に出るということを知っていた。それをあの人に伝えるために叫ぼうとして、すぐにためらい、振り向きそうにない背中を見て最後は諦めた。


それはぱらぱらと小石が散らばるようなむなしい夢だった。そういう夢を見た時はいつもいつも砂の城が崩れていくような手の打ちようがない無力感だけがあとに残った。さっきまで大切なものをたしかにこの手につかんでいたはずなのに、目を覚まして手のひらを開くと空っぽだった。そしてなにをつかんでいたのかも忘れてしまう。それでもやっぱり懐かしかった。


私が捨てたあの残り少ない賞味期限切れの牛乳はなにを意味していたんだろう。なんとなくわかってはいるけどもう捨ててしまったから確かめようがない。

いいかげんな夢ばかり見る中で、あの人はこれが夢の物語の本編だとでも言うように意味深にあらわれる。

そしてあの人の夢を見るたびに思う。ちがう場所で出会っていたらどうなっていただろうって。

もしも今とはちがう道を選んでいたとしても、私はあなたとある地点で必ず出会っていたような気がします。それは偶然にすれ違うだけかもしれないし、憎しみあうだけかもしれないけれど、なにかの形で一度は同じ場所に居合わせていたような気がするし、それだけで充分だとも思う。

あの人の隣に並ぶために私が打ち捨てたものは、私よりあの人のほうが理解しているみたいだった。あの人が怒っていたのは、私がそのことを惜しんでほしかったからなのかもしれない。

私自身はなんにも惜しくない。まだまだ捨てられるものはたくさんある。それなのにあの人にそれを惜しんでもらおうだなんて、夢の世界は時々無慈悲なまでにを本音を映し出しますね。

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