Cadd9 #12 「身に覚えのない愛情に」
「ごめんください」
玄関から声がした。時計を見る。六時半だった。
その時、樹は台所でナスノさんと梅を洗い、ヘタを取り除いているところだった。梅はその日の午前中に、いつの間にか縁側にざるに入れて置かれていた。誰が持ってきたのかナスノさんは見当がついているようで、梅干しにして近所にお裾分けするのだと、嬉しそうに話していた。
手を拭いているうちにふたたび「ごめんください」と声がして、樹は返事をしながら玄関へ向かった。予想はしていたが、そこには多川夫妻が立っていた。
「樹君、久しぶり。会いたかったわ」
恋人に囁くようなうっとりとした甘い声色で、百合美は言った。うぐいす色のワンピースの下から、鶏の足のように細い手足が伸びている。
「いい香りがするね」
百合美の隣で、宏一はくんくんと鼻をきかせながら言った。
「梅です」
樹は簡潔にこたえると、ふたりを招き入れて廊下を進んだ。
百合美は梅干しの仕込みが気になるのか台所をちらちらと覗いていたが、中に入ることはためらって、渋々といった様子で通り過ぎた。
多川夫妻は月に二度、ナスノ家を訪れる。それは決まって日曜日の夕方のことで、樹はその時間が近づくにつれて、平静を保とうと努めなければならなかった。
樹が十二歳になって間もなく母親の早苗が死に、その数日後に樹は沙耶とともに多川家へ引き取られることになった。彼らは月森の家の姻族にあたる夫婦であり、裕福で人柄もよく、長い間子どもを望んでいたらしかった。
幼い頃、親族の集いで樹は一度だけふたりに会ったことがあった。彼らは控えめで存在感がなく印象はとことん薄かったが、早苗の葬儀で久しぶりに顔を合わせた際に、彼らはふたり揃って滂沱の涙を流しながら樹と沙耶を抱きしめた。
「寂しいでしょうね」
体を離した途端に、百合美は悲鳴のような甲高い声でそう叫んで泣き崩れた。突然大声を出すような人には見えなかったので樹は意外に思い、沙耶は驚いて泣き出してしまった。百合美はふたたび樹と沙耶の頭を交互に自分の胸に押しつけると、ごめんなさい、と言った。
「驚かせてごめんなさい。樹君、沙耶ちゃん。私たち、あなたたちのお父さんとお話をしたのよ。あなたたちのお父さんが、もうすぐ遠くへお仕事に行かなければいけないことは、ふたりとも知っているわね」
樹は泣きじゃくる沙耶にちり紙を手渡しながら、慎重に頷いた。
「私たちはね、あなたたちのご両親とは、昔からお友達だったのよ。そして私は、あなたたちのお父さんとは、遠縁の親戚なの。だから、今はまだ私たちのことをよく知らなくて戸惑うかも知れないけれど、私とあなたたちはまったく縁もゆかりもない他人というわけじゃないのよ。あなたたちが生まれる前から、私たちはあなたたちのお父さんとお母さんのことを、よく知っていたんだから」
彼女は鼻を真っ赤にして、時々息を詰まらせながらそう言った。彼女がこれから話そうとしていることが何であるのか、樹はわかっていた。そしてどのように返事をするべきか悩んだ。彼女は沙耶の頬に流れた涙を指で拭いながら話し続けた。
「あなたたちのお父さんは、今はお仕事に一生懸命だから、これから先、あなたたちとはあまり一緒にはいられないみたいなの。でもあなたたちのことを愛しているから、幸せでいられるようにってたくさん悩んで、私たちのところへ来てくれたのよ。そして私たちを信用して、あなたたちと家族になることを望んでくれたの。樹君、沙耶ちゃん。私たち、これから一緒のお家で暮らしましょう。ご両親がいなくて寂しいわね。つらいわね。わかるわ。私たちと一緒に乗り越えていきましょう。少しずつでかまわないのよ」
そう言うと彼女はまたぼろぼろと涙を流しはじめた。
彼女が話したことが必ずしも真実ではないことを樹は知っていた。自分の父親がそんな愛に基づいてひとつひとつの物事を選択するような人間ではないことはわかっていたし、たった今までほとんど関わりのなかった夫婦から憐れみを受けていることにも違和感を抱いた。だからと言って、ここで迷うことも断ることもできなかった。
「わかりました」
樹はそう言って、百合美の後ろに立っている宏一を見上げた。彼は鼻をすすりながら何も言わずに微笑んでいた。
あくる日には荷物をまとめ、樹と沙耶は実家から車で一時間ほどの場所にある多川家へ引っ越した。
多川家で生活を共にする中で、百合美は本当の母親のように愛情を持って接してくれた。彼女は心優しい女性だった。しかし、彼女の薄幸な運命を辿っているような印象が、樹はどうしても苦手だった。彼女は指でつつくとかしゃんと音をたてて崩れ落ちてしまいそうなほど痩せていて、その体つきはふとした瞬間に樹をぞっとさせた。彼女は今にも壊れそうな体を生まれた時からどうにかして守り続け、何とか今日まで引きずって生きてきたというふうに見えるのだ。
夫の宏一は、その柔和な笑みから、いつも底知れない大らかさを感じさせた。彼が身に着ける服はいつもコットンやニットなど柔らかい素材のものばかりだった。案外とがっしりとした体格をしていたが、指が細く女爪で、とてもゆっくりと言葉を話し、沙耶と手をつないだり頭を撫でたり、樹の肩に手をかけたり、ふたりに触れる時は一切余計な力を込めなかった。そのせいか樹にとっては、ひとつの家に母親の役割をする人間がふたりいるような感じがした。
長い年月、彼らは心の底から子供を望んでいた。とくに百合美の母親になりたいという願望はとても強いものだったのだと、樹は宏一から聞かせられた。たしかに早苗の葬儀で出会った時には、すでに彼女の深いまなざしの奥には母なるもののあたたかみがあった。身に覚えのない愛情に、樹はかすかな不気味さと恐怖心さえ抱いたほどだった。早苗の死は、ふたりが子供を授かる見込みがないことを受け入れ、養子を迎えることを検討しはじめた矢先の出来事だったと言う。
ふたりを座敷に通し、急須で緑茶を淹れた。百合美は座布団の上で足を横にくずして座り、宏一は正座をし、樹は湯呑みを置くとふたりの正面に胡坐をかいて座った。多川夫妻は必要最低限の動作でゆっくりと湯呑みに口をつけた。彼らには、気配というものがまるでない。
「公私ともに順調かな」
宏一がたずねる。彼は一ヶ月おきにその言葉をくりかえす。樹もまた、いつもと同じように、あらかじめ用意しておいた言葉を淡々と返した。
「成績は問題ないし、友達とも仲良くやってます」
「変わりはないんだね」
「はい。おかげさまで」
宏一は納得したように頷く。
多川夫妻と話をする時、樹は基本的に会話の返答はあくまで端的に、そして簡潔明瞭になるように意識していた。そのほうが早く会話が終わるからだ。宏一はしばらく沈黙したあと、ふたたび口を開いた。
「そういえばナスノさんから聞いたよ。曲を作ってるんだって?」
「はい。変な歌らしいですけど。友達が言うには」
「あのギターで弾くのかな」
宏一は壁に立てかけてあるギターを見て言った。樹は頷いた。
宏一と話している間も、百合美は穴が空きそうなほどじっと樹を見つめていた。時折目が合っても、百合美はいっさい表情を変えることなく愛おしそうな微笑を浮かべて樹の目を見つめ続ける。台所でナスノさんが梅を仕込む音が絶え間なく聞こえてきて、それだけが正常なことのように思えた。
「早苗さんが、音楽がお上手だったものね」
百合美はおずおずと口を開いた。
「母はピアノでした。ギターはこっちへ来て、自分で覚えたんです」
「何か聞かせてくれないかしら」
三秒間返事に迷って、樹は首を横に振り、そのうちに、と言った。百合美は目を伏せて、あからさまに傷ついた表情を浮かべた。
「樹君は、音楽がやりたかったのかな」
宏一がたずねる。
「小さい頃に母がいろんな曲を聞かせてくれたから、興味はありました。でも、ギターに興味が湧いたのは学校で少し習ったのがきっかけです。自分の楽器は高くてなかなか買えなかったから、はじめは学校の音楽室のギターを借りて練習してました」
「言ってくれれば私が……」
と、百合美は胸に手を当てて言った。樹はその言葉をさえぎった。
「自分で買いたかったんです。あのギターはナスノさんが駅の忘れ物の売り出し市で見つけてくれて、安くなってたからバイト代でなんとか買えたんです」
「駅にギターを忘れる人なんているんだね」
宏一は笑った。笑うと目尻が溶けたように垂れ、白目が見えなくなった。百合美もかすかに口角をあげたが、うまく笑えなかったようで口もとを隠すように湯呑に口をつけた。
「沙耶は元気ですか」
「ええ。とってもね」
百合美は慌てて湯呑みを置くと、鞄から封筒を取り出して樹に渡した。多川夫妻はここを訪れるたびに、沙耶の写真を持ってきてくれる。
樹は写真を取り出して一枚ずつ隅から隅までじっくりと目を通していった。ショッピングカートを押す百合美の横で、トイレットペーパーを片手に歩いている沙耶。勉強机に向かって険しい顔で教科書を睨んでいる沙耶。豪奢な雛人形の前で、ほんのりとした色づきの口紅をさして笑っている沙耶。どれも良く撮れていたが、とくに気に入った写真が一枚あった。場所は公園で、沙耶は地面から半分だけ出たタイヤに跨り、ぽかんとした表情でこっちを見ていた。周りには砂場と白い柵があり、その向こうには大きな銀杏の木が立っていた。
「あなたにすごく会いたがってるの。今度こっちへ来るときは、沙耶ちゃんも連れてきてはいけない? それがだめなら、再来月は樹君の誕生日でしょ。夏休みの間だけでも、家族で一緒にうちで過ごすのはどうかしら」
樹は写真の中の沙耶を見つめて押し黙った。百合美の話を聞きながら、できることならそうしたいと思った。でも、沙耶に会うことはできない。樹は首を横に振った。
「私たちはいつでもあなたを受け入れる用意をしているのよ。沙耶ちゃんもあなたが帰ってくるのをずっと待ってる。どうして一緒に暮らせないの?」
身を乗り出して百合美は言った。今までに幾度となくくり返された話だった。この話になると彼女は途端に饒舌になり、声も大きくなる。
「どうしてそんなに家族がほしいんですか?」
たずねると、彼女は不快そうに顔をしかめた。
「ほしいのではなく、必要なのよ」
「それにしたって、沙耶が俺を必要とするのはわかる。でも百合美さんと宏一さんがそうまでして俺を求める理由はない。沙耶のためだけじゃないでしょう」
「そうよ。あの子のためだけじゃない。あなたのためよ。あなたに家族が必要なのよ」
「ナスノさんは家族だ」
「それはそうだけれど、ナスノさんは子どもとふたりで暮らすには高齢だわ。ナスノさんに何かあったら、あなたはどうするつもりなの」
「ナスノさんとは支えあって暮らしてる。ナスノさんの身に何かあったら、その時も俺が支えられる。俺がいつかひとりになることを心配しているなら」
「あなたはまだひとりでは生きていけないわよ」
百合美に遮られ、樹は唇を噛んで黙り込んだ。そこから先の言葉が出てこなかった。
彼らといると、樹はいつも自分の無力さを感じずにはいられなかった。自分の主張することがすべて浅はかで愚かしく、無謀なことに思えてくるのだ。彼らは俺を受け入れようとし、幸せを考えてくれている。それはよくわかっている。しかし樹は時折、その優しさに飲み込まれそうで怖くなる。彼らの目には、自分はまだ自我が芽生えたばかりの幼な子のように見えているに違いなかった。そして樹は、そんな自分の無力さを、自信を持って否定できるほどの力を持たなかった。
「樹君。兄妹ならやはり、一緒に育つべきだよ」
落ち着いた声で宏一は言った。
「彼女も言ったとおり、きみには家族が必要だ。きみは普通の子どもよりも随分とつらい思いをしたんだ。誰かがそばにいなくちゃならないと思うよ。妹がいて、両親がいて、ひとりひとりがお互いを見守りあって暮らしていける。そういう家庭のなかで、きみには育ってほしいんだよ」
育つという言葉がひっかかった。利かん気の子供を優しく諭すような話し方も気に障った。台所で蛇口から激しく水が流れ出る音がする。樹はその音がやむのを待って、口を開いた。
「どっちにしろ俺は来年学校を卒業したら、高校に行きながら自分で稼いで、できる限り自立するつもりです。百合美さんと宏一さんが沙耶の家族でいてくれることには、本当に感謝してる。いつか必ず恩を返します。でも今は、俺があなたたちの世話になることはないと思います」
宏一は何かを言いかけてやめ、百合美は眉間にしわを寄せて俯いた。どれくらいの時間が経っただろう。すっかり日が暮れていた。
廊下に面している襖が開き、ナスノさんが顔を出した。梅を入れたかめを動かしてほしいと、ナスノさんは言った。
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