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2017年は流れ星をたくさん見た


2022年を締め括ろうとする記事が、2017年の話から始まるのもどうなんだ? でも、あの年は偶然にしてはやたら多くの流れ星を見かけた。時々は願いをかけたりもした。あの頃、私には会いたくて会いたくて仕方がない人がいて、でも会いたいからといって素直に会いに行けるような自分でもなくて、いつも流れ星を見つけるたびにあの人に相応しい人間になれますようにと真剣に願うばかりだった。

偶然っておもしろい。私は偶然と出会うのが好きだ。「ステキなタイミング」という坂本九の歌がある。「この世で一番かんじんなのはステキなタイミング」。「ステキなタイミング」とばったり出会うのは、なぜかいつも、それを探しもせず求めてもいないときのことが多い。

流れ星も探していると見つからない。今日は見つけられたらいいなと思っているとき、視界に映った白い筋に、見えたぞ!と思って反応すると、虫だったりする。


先月も、この一年間さんざん私を悩ませたある問題について、「これはもう、誰にも助けてもらえないことなんだ。自分で解決するしかないことなんだ」とぐるぐる考えながら猫のトイレを片付けたあと、何気なく普段はほとんど見ることのないテレビをつけてみたら、古い映画が放映されていた。

画面に映像が現れたとき、映画は台詞も動きもないしんとした場面だったのだけれど、私はなんだかはっとして、あっこれは何か来たなと思った。

「何かお手伝いしましょうか」

「いいえ。これは僕が自分の力で解決しなくてはならないことなんです」

「解決しなくてはならないことなんて、何もありませんわ。ただわかればいいんです」


そういう男女の会話が続いた。ただわかればいいって、何をわかればいいんだろう? と疑問に思ったけど、誰かに心の中を読まれたみたいで、少し嬉しかった。



最近のことを挙げると、ある出来事がきっかけで、職場の人に気を遣わせてしまっているような気がしていたこの数日。こんなことで場の空気を淀ませるなんて自分は大人としてだめだと悩んでいた夜、ずっと本棚の肥やしになっていたビートたけしの「愛でもくらえ」がなぜか無性に気になって読んでみた。


「今は平気で下品なことをする奴が多いけど、たぶん気遣いができないから品がないんだ。その気遣いというのは、他人に対しての気遣いっていうよりも、実はもっと自分自身に対しての気遣いなんだと思う。それをして恥ずかしくないか。自分で自分自身を見つめるということ。それができなければだめだ。」


下品なこと、恥ずかしいこと、してたなあ。自分で自分を見つめもせずに他人に配慮を強いるなんて、情けないったらないなあ。と、改めて反省した夜だった。



「今度どこかで四葉のクローバーを見つけたいなあ」と思いながら棚の掃除をしていたら、子供の頃に作った四葉のクローバーの押し花がぴらりと出てくるとか、そういうちょっとした幸運もあれば、会社が倒産したあと一年以上無職で、もうしょうがない、ちっとも向いていなさそうなこの仕事の面接を受けてみようと決意した直後に、まったく思いもよらない人から連絡があって、以前興味を持ったことのある仕事に誘われて、そこで働くことになったりもする。


私はアルバイトや仕事を自分で決めたことがほとんどない。それもそれでどうなんだとは思うけど、いつもぎりぎりのところで誰かが仕事の話を持ってきてくれて、なんだかうまい具合に話が収まる。でもその幸運の代わりにこれを背負えとでも言うように、受け取った幸運に見合うような一風変わった不幸もやってくる。まったく運が良いのか悪いのかわからない人生です。


この2022年は、何かひとつ偶然を数えてみようと思った。それで思いついたのが、1年で何回アインシュタインの写真を見かけるか。まだ数時間あるから確定ではないけど、今年は27回、思いがけないところでアインシュタインと遭遇した。映画や本、テレビやインターネットで。それで幸運が訪れるというわけじゃないにしても、意図せず選択した行動が探しているものに繋がったときは嬉しい。

考えてみれば映画や小説の展開なんてみんな偶然の連続だし、現実の人生も本当はそうなのかもしれない。私が思うに、その中でも特別にステキなタイミングをモノにするコツは、脇目も振らずに今を生きることのような気がする。

幸運な偶然は誰にでも訪れるものだけど、結局それは自分で自分を救っているんだと思う。でもやっぱり、世界の不思議でもありますね。


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