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最後までよろしく

今年の八月頃、韓国映画「ビューティー・インサイド」を観た。毎日目が覚めるたびに性別も年齢も人種も全く違う身体に変わってしまう主人公のウジンと、彼が愛した女性イスのラブストーリー。ウジン役は123人の役者が演じたらしいけど、どんな姿であってもウジンの目の奥に浮かぶ表情はどことなく似ていた気がする。もう幸せはとっくの昔に諦めたというような寂しげな瞳が印象に残る作品だった。

この映画を観ている間、銀色夏生さんの「今を生きやすく つれづれノート言葉集」に書いてあったこの言葉がずっと私の頭にあった。

「私が長く伝えようとしてきたことのひとつは、人がその人の職業や肩書や地位や持っているものや服を全部脱いで、ただの体一つ、いや、体も脱いで、心だけになった時、何によって自分を自分だと思うか、ということ。その心だけになった自分で、いつも人とはつきあいたいと思う」

心だけになった自分で人とつきあう。
そんなこと怖くてとてもできないと私は思ってしまうけど、身体が変わり続けるという秘密を打ち明けたあとのウジンは、いつもいつも心だけでイスと向き合って生きるしかなかったんだよね。美しい姿であっても、情けないような姿であっても。

そしてウジンにとってこれが自分だと言えるたしかなものは心しかないというのに、その心さえ時が来れば移り変わり、人は簡単に自分を見失ってしまったりする。毎日違う人間に姿を変える肉体の中で、ウジンは壊れそうな心をどれだけ必死に支えてきたんだろう。

そういうことを考えていた頃、ある友達がMr.Childrenの「sign」が好きだと私に教えてくれた。どんな曲だったかなと思って改めて聴いてみたら、その曲にはこういう歌詞があった。

「似てるけどどこか違う だけど同じ匂い 身体でも心でもなく愛している」


これはとてもよくわかる気がする。わかるっていう言い方は浅い感じがするけど、その気持ちは知ってる。

身体も心も愛しているけどそれ以上に、その人の存在の全てを包括している目には見えない何かが愛しいと思うこと。

人間の本当に深いところから生まれる愛情や悲しみはむしろ言葉にならないものであってほしいと私は思うんだけど、この目に見えない何かというのは、人が魂と呼ぶものなんじゃないだろうか? 魂が実際にあるのかどうかはともかく、もし言葉にするならきっとそうなんじゃないかなあ。

だからこの映画で言えば、イスが苦悩の果てに愛し抜く決心をした対象は、ウジンの身体や心を含んだ、ウジンの魂なんだと思う。そしてまだ中身は同じウジンだと知らない時から、どんな姿で会いに行っても変わらない態度で接するイスの身体や心を含んだ魂を、ウジンも愛したいと思ったんだよね。

私たちが深いつながりを感じる相手に出会った時、自分はこの人のために生まれたんだと思えるのは、それぞれの人生の上に流れてきた時間や生き方に救われるからなんだ。イスとウジンのように。
現実でも誰かの生きてきた時間や人生に救われることはたくさんある。本や映画で心の傷が癒されるのも同じことだよね。

私は時々眠る前に考える。もしも次の瞬間に五感のすべてを完全に失ってしまったら、私は自分をひとつの存在として認識できるんだろうかって。
目も見えない、何も聞こえない、味も匂いも感じない、何の感触もしない。そんな空間で、自分がいるということをどうやってたしかめればいいんだろう。そこにはなにがあるんだろう。

ある意味では私たちもウジンと同じくらい身体も心も変わり続けている中で、目で見ることもできなければここにあると確かめることもできない魂を、これが自分だと信じることができるならあまり大きくは迷わない。

だから私は自分の魂に最後までよろしくと言いたい。今この星にいる人達の魂にも、最後までよろしくと言いたい。みんな友達だから。

もしも明日私が知らない人の姿になっていてもそれが私だと気づいてもらいたい相手はたくさんいて、私もすぐに見つけたいと思う人達がいる。

本当に魂があるなら最後なんて来ないのかもしれないけど、どんな姿になっても、どんな心であっても、変わらずに呼びかわし、そして向かい合うために、互いの永遠の光に何度も約束したい。最後までよろしく。

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