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あの明晰さが続くなら


無職になって約三週間。なんだかまるで人間の生活から引退したような気分でいる。これからは静かな余生を送りたい。そんな言葉さえ浮かんでくる。まだまだこれから頑張らなくちゃいけないのに……。

最近の午前中の過ごし方。朝、顔を洗って化粧をしたら、まず植物に水をやる。ブラッサイア、ナギ、ガジュマル、サボテン、寄せ植えの花。最近は室内でレタスも育て始めた。
それから猫のトイレを掃除したり、部屋をざっと片付けたりして、コーヒーを淹れる。猫舌なのでコーヒーが冷めるのを待つあいだにヨガをして、いろはすを数口飲んだら、カーテンと窓を開けてコーヒーを片手に本を読む。小説を書いて、午後はお勉強。

さきのことはわからないけれど、陽の光や風のにおい、木々がざわめく音、植物の息吹を感じながら、丁寧に時間をかけて料理をしたり、ゆっくりと読書をしたり、猫と遊んだり、小説を書いたり。今はそういうことがたまらなく幸せ。それ以外のことは最悪。なんてね。

でもそんな日々のなかで気がついた。もしかしたらわたしは自分のことをなんにもわかってなかったのかもしれないって。なにが頭の声で、なにが心の声なのか、さっぱり区別がついていない。

日常の些細な出来事やこれからの仕事について考えることもそうだけれど、ひとつの動作や選択に対して、いつもふたつの声が聞こえている。そしてすぐにわたしを交えて三人で会議が始まる。まともな結論は出ない。結局いつもとりあえず現状維持ということになる。わたしは今、立ち止まっているんだろうか。昔、同性の恋人と別れたとき、「一緒にいるあいだは時間が止まっていたみたいだった。私はもう前に進みたい」と言われたことがある。わたしには時間を止める能力がある。なんてね。(冗談ばかり)


映画も観ている。好きな時間に好きなだけ。子どものころに好きだったアクション映画や、ずっと気になっていたけど長くてなかなか観る時間がとれなかった作品なんかを。


映画を観終わったあとに心に宿る、この世界に対する明晰さのようなあの感覚が、わたしはとても好きだ。なんだか自分の人生観まで変わったような気になる。そして実際に少なからず映画は生き方を変えてくれる。明晰さはそう長くは続かないけれど、ひとつの映画ごとにちゃんと蓄積されていくものがある。

もしもあの明晰さがずっと続くなら、心の声と頭の声をちゃんと聞き分けることができるんだろうな。

でもこういうことは、誰でもずっと続けていくものなんだ。人はいつももう片方の自分にひっぱられてる。どっちが良いとか悪いとか、そういうことじゃなくて、要はバランスなんだ。


職を失ったとき、本当は心のどこかでほっとしていた。少し休憩したいと思っていたから。それが叶っている今、わたしは「やれやれ、人生がやっと完結したぞ」なんて思ってしまっている。自分の尻を叩かなくては。人生は続くのだから。

でもこうして立ち止まる機会があって、自分が自然を愛していることを思い出した。都会的なものに憧れていた時期もあったけれど、そうだった、わたしは自然のあたたかみを感じられるものが好きだったんだ。植物を育てるのが好きだった。料理も好きだった。

その幸せに浸ることは、きっと悪いことじゃない。自分の世界とみんなで共有する社会、どう折り合いをつけていくかが大切なんだ。だからやっぱり、バランスだ。


今日はもうじゅうぶんゆっくり過ごしたから、勉強しよう。ちょっとやってみたいことがあるから。その「やってみたい」が心の声なのか、本当は「やらなくちゃ」っていう頭の声なのか、それはわからないから、夜は時間があったら映画を観よう。明晰さを求めて。

でもやっぱり必死に働いている人がいる中で自分だけ立ち止まっているのはなんだか申し訳ない気もするな。心が回復したらちゃんと立ち上がるので、皆さんどうかお許しあれ……。


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