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やっと休日、人生の午後



なんだか一週間むだに疲れてしまったような気がするけど、今はヨガマットの上に寝転んで太陽の光を浴びながらAir Supplyを聴いている。今日は何もしない日にするんだ。やっと休日。やりたくないことは念入りに無視する。

窓に貼ったかけら柄のシールが反射して、手のひらに虹色の光を落としているのをぼんやりと見守る。天気予報は曇りでも時々こうして雲の隙間から射し込んだ太陽の光がわたしの手元まで届く。暖房とはちがう包み込むようなあたたかさを感じながら色々なことを思い出していくと、昨日までのことをまるで前世の記憶みたいに遠く感じる。

仕事をしている時や友達と会っている時の自分と、この部屋でひとりで過ごしている自分とを比べてみると、それはとても同じ人間とは思えないほど考え方も価値観もちがっていて、どっちが本物なんだろう、休日だけこんなに心穏やかにいられるなんて都合が良すぎるよねって気持ちになってくるともう駄目、今の自分のほうが偽物に見えてくる。がちがちになって生きている時のほうが本当の姿みたいに思えてくる。

でも大丈夫。最近やっと決心したんだ。自分が感じた気持ちはちゃんと自分で受け止めるって。自分の本当の気持ちから逃げないで、ちゃんと感じることを引き受けるって決めたんだ。
今はまだすべては受け止めきれないけど、本当の意味でそれができるようになった時、心に人生の午後が訪れるのだろうと思います。

時々更新する小説のようなもの、シー•アド•ナインスのプロローグで書いたような解放感を、10代の終わり頃からずっと待ち望んでいた。
たとえば今みたいに太陽の光の中で美しいものに囲まれて、時間にたっぷり余裕があって、心が穏やかでいられる時、死んだら毎日こんな感じなのかなあっていつも思うのだけど、わたしはそういう瞬間がいつまでも続く天国での暮らしみたいなものをずっと待って、早くその時がくるようにと変な努力をしていた。というか、今もしている。そこはやめるにやめきれず続けている。

でもそういう暮らしがずっと続くとするならそれは本当に死んだあとのことなんだろうなって最近思いはじめた。死は救いだと色々な人が言うけどたぶんそれは本当にそうなんだ。果てが見えない道を延々と歩き続けるなんてできないよね。
わたしが天国のような暮らし望んでいたのは、早々にこの舞台から降りて、人生からも引退して努力することを諦めたかったからで、癒しを求めていたというよりただ逃げたかっただけなんだ。

わかってはいたけどその事実を深いところに落とし込んだ時、あー、自分はずっと完結した人生を生きようとしていたんだなとしみじみ思ったりした。

ユングさんが言っている。

「人生の後半を象徴するのは上昇、進展、増大、繁栄ではなく、死である。終わりが目標なのだから。充実した人生を送ろうとしないのは、終わりを受け入れようとしないのと同じことである。どちらも生きようとしないのだ。生きようとしないことは、死のうとしないことである」



小さい頃から終わりを目標にしがちだったけど、物語はまだ前半も前半で、人生の午後へ向かうための課題が山積み。自分の未熟さばかりが目について投げ出したくなる。でもどんなに人生の午後を生きようとしてもわたしは25歳なんだ。若いといえば若いけれどもういい大人でもあって、人として成長するためにやらなければならないことはまだたくさんあるんだ。だから休日くらいやりたくないことはしないんだ。(おーい)

今日はこれから、本屋に行く。わたしはコーヒーを買って帰るでしょう。ゆっくり本を読んで映画を見たら、明日からはまたべつの自分が始まるでしょう。

仕事と遊びと、ひとりで過ごす休日と、緩急をつけながら今この瞬間を豊かなものにしていこうと、今のわたしは思っています。

死ぬために生きることが大切なんだね。

前世のような昨日があって、来世のような明日があって、そして常に今がベスト。そう思えるように、感じられることはぜんぶ感じていきたい。


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