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Elevator Beat


夢の世界からむりやり引き離されて目が覚めた朝は時計に手のひらを置いたまま動けなくなる。胸のなかに石ころがつまっているようなこのどうしようもない虚しさはさっきまで誰かと一緒にいたからか。憂鬱か床に広がっていく。目を閉じて死んだふりをする。海に還りたい。長い眠りに戻りたい。
十月。きみは優しいだけだった。私も優しいだけだった。一緒にいると時間が止まってるみたいだからいけないんだって、もう前に進みたいんだって、そんなきみの見えすいた嘘に私はたしかにそうだと笑って頷いたけど、今思えば優しさを分かちあうこと以上に私達はなにを必要とすればよかったんだろう。
ある人に「あなたは時々氷みたいに冷たい」と言ったことがある。その人は悲しそうに目を細めて正直にこう返してくれた。「私もあなたを氷のように感じることがある。温めても温めても冷たい」
なぜ私は彼女を冷たいと思ってしまったんだろう? そしてなぜきみとなら優しくしあえたのだろう。
私が彼女のことを氷のように冷たいと思ったのはきっと彼女がちっとも私を必要としていなかったからなんだ。きみとちがって必要以上に繋がりや優しさを求めることのない彼女を氷みたいだと思ってしまったんだ。だから私が彼女を必要とすればするほどその横顔が冷たく見えたんだ。でもそれはちがった。彼女が私を求めなかったり私に優しくしてくれないからといって彼女が冷たい人間だってことにはならない。でも彼女が私を冷たいと感じたのならそれは本当にそうなんだろう。私は冷たい人間だ。
私ときみはそれが本当の思いやりかどうかなんてろくすっぽ考えもせず優しいだけの嘘を吐きあい騙しあっていることにも目を瞑り、にっこりしながらたぶん心の奥底では軽蔑さえしあっていた。優しくしあえたのは傷つけあわなくていいくらいお互いの存在が小さかったから。先に私を見捨ててくれたきみの正しさに脱帽。
これからはいい暮らしをしてね。きみはもう自分を犠牲にしてまで私を必要とするほど寂しい人間じゃなくなった。そのことを私は心から祝福してる。幸せにね。ありがとう。さようなら。
ナンシー・ウィルソンの「Elevator Beat」を聴く。誰のことも思い出せなくてびっくりする。思い浮かぶ人がない。いつでも誰とでも偽物同士だったから。傷つけあわないだけの。
また逃げ出せば冷たいと伝えあった彼女の顔も思い浮かばなくなるのだろう。詩になるような綺麗事だけを残した記憶の一部に成り果ててしまうのだろう。そうする理由に義務感しかなかったとしてもやっぱり一度くらい真剣に戦わなくちゃいけないよね。今のきみなら、きっとそうするんだろうし。

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