表情
こころの中の感情が顔に現れたもの。
自分の顔を肉眼で直接捉えることはできない。
すなわち、その時々その一瞬間、自分の顔にどんな感情が現れてしまっているのかを、直接知ることはできない。
私は誰の前でどんな表情をしているのだろう。
伝わって欲しい感情がそのまま表情として出ていればいいなと思う。伝わって欲しくない感情は出ていて欲しくないなと思う。
相手にどう伝わるかはわからないのが難しいところだ。
自分という観点から、他者に変えてみる。
その日その時々、私の目の前にいる人は、どんな表情をしているだろう。
どんな感情で相対しているのだろう。
私は正しく読み取れているだろうか。読み取れてきただろうか。そもそも感じれていただろうか。
みていただろうか。
実は言葉は多くを語れない。
言葉というものは、言葉になる以前のものの多くを、形骸化してしまう。そんな一面もある。
言の葉とは誰が名付けたのだろう。
その人はきっと人間が木に見えていたんだろうと思う。
臨床心理学においても木を人の象徴とみる。今も昔も、どこか通ずるものがあると思わせる何かしらの共通項が、木と人との間にはあるのだろう。
葉だけに注力しすぎず、木全体を見れる目を持ちたいものだ。
そう。大切なことは目に付きにくい。
目を引くものからの捕らわれから脱するからこそみえる。
ものごとは意味のラベルで覆い隠されていることに気付くことができればなおさら。
追記
「りんご」は果物、赤い、食べれる、甘い、丸い。
当たり前かもしれない。しかしこれが意味のラベルで覆い隠されているということである。
赤ちゃんにとってはそれは「 」であり、得体の知れないものである。赤いかどうかも分からない、食べれるかも分からない、甘いかどうかも分からない、丸いという概念も知らない。
もし、赤色は怖い、と意味付けしていたら、その赤ちゃんにとって初めて遭遇する「 」は、危険なもの、かもしれない。
大人でも「りんご」にアレルギーがあれば、そのラベルがあるため危険なものと映るだろう。
私たちは日常に溢れる数々の「 」を意味のラベルで覆っている。だから安心して生きていけるのだが、たまには「りんご」ではなくて、「 」としてみて、ありのままの「 」に五感を触れさせたいものだ。
ちなみに、ラベル付けしてしまうが、りんごは意外と斑点が多い。集合体恐怖症の人はもしかしたら反応するかもしれない。
そして赤一色でもない。
私たちもそう。
よくみて。
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