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箱に揺られ

あらすじ

 早川淵駅のもう使われていない1番ホームに夜0:44になると現れる電車に乗ると死ねるらしい。その噂を思い出した私は、死に場所を求めその電車に乗り込んだ。乗った瞬間死ぬということはなく、暇を持て余した私は、この電車の話を私に教えてくれた、高校時代の同級生との思い出を回想する。私の人生に長く暗い影を落とした、廃校探検の記憶を。

本編

 乗れば死ねる電車があるらしいという噂は前から聞いていた。終電も終わり、無人になった早川淵駅の今はもう使われていない1番ホームに、夜0:44になると、煤けたクリーム色の車体に赤紫のラインカラーが入った2両編成の電車が来る。それに乗るとそのままあの世に連れていかれるらしい。
 噂が本当かどうかはどうでもよかった。ただ楽に死ねる方法があるのならありがたいというだけだ。
 きっかけは1枚の手紙だった。封筒には差出し人も宛先も書かれておらず、ただポストの中にポツンと置かれていた。おまけに中身も白紙が一枚折りたたまれて入れられているだけだった。ただ封筒を開けた瞬間の臭い、あのむせかえるような湿気とカビと酸っぱさが混じったような臭いを嗅いだ瞬間、全てを思い出した。彼女はまだ私を恨んでいるのだ。そして私もまた、彼女のことを忘れられないでいるのだ。
 ホームに電車がやってくる。煤けたクリーム色の車体に赤紫のラインカラー。やけに間延びした金属音を立てながらゆっくりと停車した。回送扱いなのか、中に明かりは灯ってない。ドアの横のボタンを押す。グラァという音と共に荒々しくドアが開く。その瞬間、またあの臭いがした。あのどうしても忘れられない夏の日の臭いが。覚悟を決め、一歩を踏み出す。電車は男を飲み込むと、また荒々しい音を立てて扉を閉じた。そうして、終わらない夜へとゆっくり走り出した。

 4人掛けのボックスシートに腰を降ろし、スマホを点ける。表示が圏外になっているのを見て苦笑いする。この辺は田舎とはいえ電波は普通に通っている。どうやら本当にこの世のものではないらしい。車内には依然として明かりはない。スマホだけが唯一の明かりだ。特に必要ないときは充電を温存しておこうと、スマホを消しぼーっと外を眺める。暗闇の中に気怠そうな男が1人写っているのが見えた。
 電車が走り出して20分経った。本来ならとっくに次の駅に止まってるはずだ。外の景色は暗闇の中にぼんやりと畑が広がっているのが見えるくらいで、たまに通り過ぎていく家々も明かりはない。この路線は鉱山へと続いていて、その鉱山が使われなくなった影響で廃線となった。それもだいぶ昔の話で今はこっち方面の集落に人はほとんどいないはず。見える景色もどんどん寂しくなっていくだろう。
 外の景色を眺めるのにも飽きてきて、スマホを取り出す。あれからずっと圏外だ。それでも暇つぶしにならないかと思って、無意味にホーム画面を左右に移動していると、ふとあの時の写真が入っていないだろうかと思い立ち、写真フォルダーアプリを立ち上げる。一番昔の写真でも2年前、それより前の写真はローカルに保存されていないようだ。
 せっかく最後の旅なのだから、昔の写真とかクラウドからダウンロードしておけばよかったなと後悔する。こう計画性のないところが、自分のとても嫌いな一面だ。やることもないので脳内であのときのことを思い出す。もう10年前の話だ。記憶が変わっているかもしれないが。

 あの頃私には好きな女の子がいた。同じ高校1年生で同じ高校の生徒だった。出会ったきっかけは当時通い始めた塾だった。高校は決して進学校と言えるほど頭の良い学校ではなかったが、1年の1学期からもう勉強についていけなくなり、成績の悪さに驚いた両親に強引に夏期講習を入れられてしまった。自分の地元の駅から、通っている高校とは反対側に3駅いったところの塾だったので、ほとんどその駅からバスが出ている高校の生徒ばっかりだが、1人だけ同じ制服の人がいた。黒髪の長髪で、長身、切れ長の目が特徴のいわゆる美人顔だった。1学年200人以上いる高校だったので、他クラスの人間は数えるくらいしか顔を覚えておらず、その人のことは見たこともなかった。
 話しかけづらい雰囲気はあったが、同じ学校の生徒がいたという嬉しさから、勇気を持って話しかけに行った。最初は警戒するような視線を送られたが、私が同じ高校の生徒と気づくと、ふんわりと笑って、話に乗ってくれた。彼女も多分同じ高校の生徒がいなくて不安だったのだろう。彼女はよくしゃべる人で、共通の友人との話などで一通り盛り上がった。
 翌日から私と彼女は一緒に塾に通うようになった。というのもその塾の高校1年生と2年生のクラスは部活に配慮してか、夏期講習にも関わらず18:00に始まる。お互いに高校で部活動に勤しんだあと、ちょっと早めに抜けて校門前で落ち合う。私も彼女も運動部であったが、室内部活で空調が効くなかで活動を行える私に対し、彼女は外部活で、部活終わりもいつも暑そうでかなり汗をかいていた。塾に居たときは綺麗に広がっていた髪が、短く束ねられている。そして近づくと、ふんわり爽やかなレモンの香りをいつも漂った。汗があんなに爽やかな香りのはずがないから、多分汗拭きシートかなんかの香りだろう。クラスや部活の人間が使う甘ったるい汗拭きシートの匂いに辟易してたので、その香りはとても魅力的に感じた。
 学校前のバス停からバスに乗って最寄りの駅まで40分かかる。その間私は彼女といろんな話をした。最初はお互いの共通の友人の話だったが、そのうちお互いの話になっていった。驚いたのは彼女はよくオカルトチックな話をするということだ。最初は、一緒に帰り始めてから2,3日経った頃、あるバス停に停まったときのこと。
「ここはねちょっと怖い話があって」
 と急にいつもよりちょっと低い声で喋り始めてドキッとした記憶がある。
 話は、夜にこのバス停を通ると赤い服を着た小学生くらいの女の子が鳴いていて、話しかけようとその女の子をよく見ると、瞳に白目が無く、黒目だけだったというありふれたものだが、いたずらをしている子供のようににやにやしながら、大きな抑揚をつけて話す彼女に、思わずこちらも大げさに怖がる仕草で応えてしまった。
 私もそういった話を聞くのは嫌いではなかったので、この後も何度か彼女と心霊話をすることになった。
 最寄りの駅に着き、バスを降りた後、電車を20分待って、塾までは電車でさらに50分かかる。20分の間に駅の待合室を利用して、私も彼女も早めの夕食を済ませていた。流石に夏場なので、どちらの親も夜用の弁当を持たせることはなく、適当に渡された500円で駅前のスーパーのお弁当を買って食べていた。彼女は部活終わりで、おなかがよほど空いているのか、総菜パンとお弁当という組み合わせが多かった。
 たいていご飯は黙って食べることのほうが多かった。待ち時間内に買って食べるだけでギリギリだし、そもそも彼女はご飯を食べながら喋ることを良しとしないタイプだった。
 塾に行く時間の電車はまだ空いていて、並んで座ることができる。最初の頃は電車の中でも喋っていたが、そのうちなんとなく電車の中では2人とも寝るようになってしまった。そういえば、早川淵駅の幽霊列車の話は電車の中で彼女から聞いたんだった。こういった電車に乗るとどこかへ連れてかれる系の心霊話って、具体的な実在する駅名は出てくることはあんまりないので、早川淵駅に停まってるときに一番ホームを指さしながら、
「ほら、あそこ使われてないんだけど、夜になると」
 と急に話し始められて、思わず背筋が凍ったことを覚えている。まだ夕方にも関わらず、駅舎の影に入り込む形で薄暗く、ベンチなどところどころサビが目立ち、階段にはお粗末な柵がたてられていた。その様子が、そういう現象が起こってもおかしくないと説得力をもたせてた。

 結局あの話本当だったんだな。ざらつく窓ガラスを触りながらそう思う。その感触はとても夢のものとは思えない。真っ暗な電車に揺られてどこかへ連れて行かれるという、現実とは思えない光景が今たしかに目の前に広がっている。もう秋だというのに、室温は少しずつ上がって、汗が滲み始めてる。鼻の中にだんだん腐った肉のような嫌な臭いがへばりついてくる。死後の世界に近づいてるのかなと半ば他人事のように考えていた。
 今までずっと一定の速度で暗闇を突き進んでいた電車が始めてキィーという音を立て始め、身体が後方に引っ張られる。どこかに止まろうとしてるのか?窓の外を見ても何もわからない。後ろに引っ張る力は強くなりガタガタと不快なくらい揺れ、止まる。よく目を凝らすと、反対側のホームがかろうじて見える。駅舎どころか柵以外何一つものがない無人駅のようだ。
 またあの荒々しい音を立ててドアが開く。降りるならここで最後だぞという情けか、それともここが終着駅か。それとも……誰かが、乗ってくるのか。車内のなかに生暖かい空気が入り込んで、身震いする。熱帯夜に吹き込んでくる不快な風とは違う。誰かの吐く息のような風。しばらく身を硬くして警戒していたが特に誰かが姿を現すことなく扉がまた閉じる。そうして、またゆっくりゆっくりと走り出す。
 起こしていた身体を背もたれに預けて、無意識にスマホをいじり始めたときだった。突然ガラガラと大きな音が鳴った。電車後方からだ。慌ててスマホのライトで照らす。車掌室のドア開き、その先に何らかの機械があるのが見える。しかし見える範囲には誰もいない。畳み掛けるようにトン、トン、トン、足音が響く。車内には誰もいない。だが確かに音が聞こえる。ライトを消し、身を伏せる。チャキン、チャキン、チャキン、チャキンと今度は甲高い金属音が響き渡る。室内はさっきまでとは打って変わり、寒気すら感じるほど涼しくなっているが汗が止まらない。顎がガクガク震えだし、抑えようとしても音がこぼれる。トン、トン、トン、と足音が響きまたチャキン、チャキンという音が何回か響き渡る。そしてまた足音。ちょっとずつ音がこちらに近づいている。なんだこのチャキンという音は、大きなハサミでもカチャカチャさせながら首でも切り落としにきたのか。前方の車両に行くべきか悩むも、所詮この列車は2両編成。前の車両に移っても追いつかれるだろうし隠れるところも無い。第一腰が引けて動き出すことすらままならない。
 改めて車両後方に目を凝らす。ライトを消したせいで暗闇が広がってるのみだが、音はすぐ近く、一個か二個後ろの席から聞こえてくるように感じる。トン、トン、トンという音に合わせて、身体が揺れているように感じる。一気に緊張したせいか、吐き気を催し、目がぐるりと回る。うまく座れてるのかもわからない。チャキン、すぐ前方から無機質な金属音が聞こえる。両耳を手でふさぐ。しかし、依然としてチャキン、チャキンと一定のリズムで音が鳴る。そして、また足音が聞こえる。自分の横へとゆっくり見えない何かが近づいてくる。浅い呼吸音が聞こえた気がして、思わず叫びたい衝動に駆られる。何かの気配を真横から鮮明に感じる。浅い呼吸を繰り返し、「やめてくれ」と喉元まで出かかった声を必死に押し殺しながら、じっと目をつぶる。
 チャキンと鋭い金属音が頭上から響いてくる。うぅ、と情けない声をこぼれ、涙がぽろぽろ零れ落ちてくる。少し離れたところでチャキン、チャキン、チャキン、チャキンと続けて音が鳴ったあと、そのまま何者かが通り過ぎて行くのを感じる。
 しばらくの後、ガラガラと今度は前方の車両との連結部のドアが開く音がする。そのまま足音が遠ざかっていくのを放心したまま聞いていた。
 ようやく身体の震えが収まる。明確に発生した心霊現象に身が凍っていた。この電車に乗っていること自体心霊現象なのだが、そちらは強引に人の手によるものだという説明ができる。例えば車庫に行く電車に乗ってしまったというような。しかし今のは明らかに人の手によるものではない。あの一定のリズムを刻む音は自然に鳴る音でもない。明らかに見えない何かが居た。
 ゆっくり深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。まだ死んではいないときりきり痛む肺が教えてくれているようだ。だいぶ落ち着き、正面に向き直ると、一瞬暗闇に沈んでいる座席に誰かの姿が映った気がした。ありえないことが起きて頭が混乱しているのかもしれない。目をつむり軽く頭のマッサージをした後、再び目を開けると空の座席しかない。恐怖心で座席の模様と見間違えたんだろう、そう思うことにした。
 どっと疲れが全身に現れる。死ぬつもりでこの心霊電車に乗ったというのに、この程度の心霊現象でこんなに怯えるのかと、自分覚悟の弱さを笑った。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるように、さっきまであんなに怖がっていたのに、しばらく何も起こらないと恐怖より退屈の方が勝る。時刻は2:30。夜目もだいぶ効くようになり、車内の様子くらいはそこそこ見渡せるようになった。
 さっきまでの涼しさはどこに行ったのか、またうだるような暑さと肉の腐ったような臭いが車内を支配している。水でも持ってくりゃ良かったなと後悔する。ショルダーバックにはスマホとあの封筒しか入れてない。飲み物は途中で買えばいいと思ってすっかり忘れていた。このままじゃ脱水で死んでしまう。それともこの電車の人の殺し方は脱水とか飢餓とかそういうものなのだろうか。だとしたら、なんというかまあ随分と悠長な殺し方だ。潰さなければいけない暇な時間を考えると嫌気がさす。再び彼女との思い出にでも浸ろうかと窓の外をぼんやりと眺めはじめた。

 塾に通い始めてしばらくは、私と彼女は同じクラスだった。4個あるうちの上から3番目のクラス。高校1年の1学期に習う相当のことをさっとおさらいするのが主で、一回習っていること前提か、それなりに進行も早く、あっという間に振り落とされてしまい、授業中もぼーっとしていることが増えていった。反対に彼女は2週目から上のクラスに行ってしまった。次の日のバスの車内でどうしてかを尋ねると、答えづらそうに、ぽつりぽつりと話してくれた。どうも彼女はそもそも地元の国立大学を目指しているらしく、夏期講習も本来なら最上位のクラス相当の予定だったらしい。しかし、進度の差を気にした彼女が3番目のクラスを希望したことで、最初の週は同じクラスにいたらしい。結局そのクラスの授業は彼女に合わず、一個上のクラスに変えたというわけだ。夏期講習が終わったら最上位クラスに移るらしい。
 それを聞いた時、彼女に対して胸の中に暗い炎が立ち上るような感情を抱いた。同じように勉強に苦労している同士と思っていたのに、私がついていけないと感じる授業を、彼女は物足りないと感じていたわけだ。また、この話をしていたときの彼女が言葉の端々に気を付け、私を傷つけないようにしていたその配慮も腹立たしかった。
 そのことを知って以降私と彼女の会話の間にズレみたいなものが生じるようになった。彼女の言葉がなんだか無駄に小難しいように感じるようになった。会話がぎこちなくなり、お互い喋らないことも増えていった。
 決定的だったのが、彼女が「もしかしたら知らないかもしれないけど」と話を切り出し始めたとき、「知ってるか知らないかを勝手に判断するなよ。どうせ知らないだろって思っているんだろ」とキレてしまったことだ。彼女の切れ目がちな目が大きく開かれ、逃げるように顔を背けると、小さく「ごめん」とつぶやいたのが耳に入ってきた。怒ってしまった後悔と、やり場のない苛立ちを抱えながら塾に向かう1時間半はいつもよりとても長く感じた。
 それ以降私たちは喋ることはなく、一緒に通うこともなくなった。と言っても、結局使う電車は同じなので、彼女と違う車両に乗り込むということを繰り返した。彼女の方は、塾のクラスで中が良い友達ができたらしく、休憩時間は時折隣の教室から楽しそうに会話する声が漏れ聞こえることもあった。
 塾のタイムカードで出欠確認がとられており、サボってしまえばすぐ親にばれるので、モチベもなく、授業についていけなくても、黙って座っていかなければいけない苦行が始まった。部活動でも他人より早く帰らねばいけないせいか、集中力を欠くようになり、夏の大会でも結果が出せず、日に日に身体に棘を纏う様に気持ちがささくれ立つのを感じていた。塾のクラスメートもそんな雰囲気を察してか、はたまた存在に気づきもしないのか、誰にも話かけられることなく夏期講習も終盤を迎えていた。

 その日のことは今でも昨日のことのように思い出せる。午後一で先輩に怒鳴られやる気をなくし、そのまま部活を早退すると、やることもなく誰もいない教室に入った。夏真っ盛りの冷房が効いてない教室はサウナのようにもわっとした暑さで支配され、堪らず窓際で風を浴びる。外部活の様子を流し見していると、彼女の姿が目に入った。日に焼けづらいか、日焼け止めをちゃんと塗っているのだろう。外部活にも関わらず手足は白く透き通るとまではいかないが、小麦色の手前、程よく血色よく健康的で、四肢をダイナミックに動かし、精一杯に動いている。教室で無気力に佇む自分とは対照的だ。近くで喋っているときに意識したことはあまりないが、遠目で見ても綺麗で魅力的な人だと思う。
 しばらく眺めた後、流石に暑さにしんどくなってきて窓際を離れる。もう一度最初の頃のように、ただ普通に話せたらと考えてしまうが、自分きっかけで嫌悪な雰囲気にしてしまった以上、あまりにもバツが悪い。それに彼女はもう私と話したいとすら思っていないはずだ。
 顔全体に滲む汗を手で拭って教室を出る。一回部活に戻ろうかとも考えたが気分は乗らなかった。どこへ時間を潰そうか迷い、冷房が効いていそうな図書室を目指した。西館1階の隅になる図書館まで歩いただけでも汗が身体に纏わりつく。服で身体を扇ぎながら、図書館の扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気が全身を駆け抜け一気に体を冷やした。冷えすぎていてこれはこれで逆に風邪を引きそうなくらいだった。
 夏休み中ということもあり、図書館に人はほとんどいない。もっとも、今まで利用したことはないので、平日もこれくらいなのかもしれない。とりあえず何の本が置いてあるか知らないのでローラー作戦で書棚を片っ端から見て回る。
 カウンター近く、郷土の本のコーナーを見ると、この地域の怪談がまとめられている本を見つけた。脳裏に彼女が話してくれた怪談話を何個か思い浮かべながら、ページをぱらぱらめくる。意外と話数があるらしく、タイトルだけで判断するのも一苦労だ。閲覧用の席に移り、ゆっくりと1つ1つの話のタイトルを眺める。面白そうなものは本文を読んでみたりしたが、大体の話が昭和以前、江戸時代のものもあって、全く心当たりのない建物や人物の名前しか出てこなかった。怪談ものとしては優れていたが、彼女の話のように身近にあるという恐怖感はない。
 少々の物足りなさを感じながら読み進めていたら、冊子終盤、現代の怪談というページが出てきた。最初からここを読めばよかったのかと後悔しつつページをめくり始める。やけにこの章は読まれてるらしく、紙が少し歪んでとてもめくりやすい。1個目の話は駅前ビルの怪となっていて、駅名は伏せられているが、知っていればあのビルだとなような描写が書き込まれていた。あのビル、存在は知っているけど飲食店とか入ってないし中に入ったことないなと思いつつページをめくる。が、ちょっと読み進めたところでスマホのアラームが鳴った。慌てて音を切り、ちょっと舌打ちをする。塾に行かなければいけない時間だ。本当はもう1本遅くとも間に合うのだが、そっちに乗ると狭いバスの中で彼女と顔を合わせることとなる。それが嫌で1本、早いバスに乗るようになっていた。鉢合わせてもいいからもう少し読み進めてみるかどうか迷うが、どうせ10分ちょっとしか読めない。諦めて早いバスに乗ることを決めた。
 本を畳み棚に戻そうとしたところで、1つ当たり前のことに気づく。ここは図書館なのだからこの本は借りられるのではないか。裏返して背表紙を見る。そこには確かに貸出用のバーコードが貼付されている。試しにカウンターに持って行ったところ、学生証の確認と紙への記入だけで思った以上に簡単に借りることができた。ほくほくしながら借りた本を抱えバス乗り場へ急ぐ。
 冷房が程よく効いていて、ガラガラなバスに乗り、続きから読み始めた。

「駅前ビルの怪」

 ビルなど高層の建物の中には縁起を考えて、4階や9階がないものがあります。これは4が死を9が苦を連想させるためですね。ですがこのビルは4階はある代わりに5階がありません。6階だてのビルですので、下から数えて1,2,3,4,6,7となっているのです。一体なぜこんな変なことになっているのでしょうか。ビルのメンテナンス業務に関わるBさん(63歳)に話を伺ったところ興味深い話が聞けました。
 昔、あのビルは普通のビルと同じように1,2,3,4,5,6という風に階が振り分けられていました。しかし、5階に入るテナントだけ頻繁に入れ替わるのです。実はビルが建って間もない頃、5階のフロアに入っていた旅行代理店で激務に耐えかねた会社員がフロアのトイレで首を吊って亡くなったということがあったそうなのです。撤退したテナントに直接聞いたわけではないらしいのですが、どうやら夜な夜な心霊現象に悩まされていたらしく、Bさんはこの件がなにか関係があるのではと予想していました。
 あまりにもテナントが入れ替わり、ついに借り手が見つからなくなったので、オーナーはダメもとで5階の部分を6階とし、6階の部分を7階と書き換えました。このビルに行ってみると分かるのですが、このビルの階段の階と階の間の踊り場の壁には2⇅1のような階表記があるのですが、昇っていくと3⇅2、4⇅3と表記が進んでいき、5⇅4はなぜか書かれておらず、次がいきなり7⇅6となっています。また、エレベーターにも反応こそしませんが5階のボタンが残っています。これはオーナーが5階がないということを明示しないことで、怨霊が存在しない5階に留まってくれることを願ってそうしたのだとBさんは語ります。
 このビルは5階を無くすことで心霊現象を回避したのですね。でも気になりませんか?もし押せないはずの5階のボタンが押せてしまったら、もしないはずの5⇅4と書かれた4階と5階の間の踊り場を見てしまったら。これは、そんな行けないはずのフロアに行ってしまったDさんの(30歳)話です。

 一回読んだページに紐を挟み本を閉じる。こっから一怪談あるのかよと意表をつかれた。思えばこの現代の怪談のページだけ明確に伝聞という形をとってるし、文体もこれまでとは異なる。多分現代の怪談とそれ以外で著者が異なるのだろう。どちらかというとこちらの方が好みだが、本を読む習慣があまりないせいか、どうしてもこう一回思考が途切れるような展開が挟まれると疲れを覚えて休憩したくなる。バスの窓から外の景色を眺める、なんだか一雨きそうな天気だ。おまけに、この本を読んでから肩がほんのり重い気がする。
 再び本を開き、さっきまで読んだ場所を探す。文字がぼやけて見え、ピントを合わせるまでにちょっと時間がかかる。面倒くさくなって、この先読むのは今度でいいかと思いリュックの中にしまった。幸い貸出は1週間だし、延長すれば2週間借りられる。その頃には読み終わっているだろう。窓ガラスにぽつぽつ雨が当たり始める。今日は傘持ってきていない。どうか屋内にいる間の内に通り去ってほしいと願いながら瞼を閉じた。

 駅に着くと雨が本降りになっていた。走ってスーパーへ駆け込み、弁当を買って、また走って駅舎に駆け込む頃には髪も服もびしょ濡れだった。
 ホームの屋根がある部分の一番端のベンチに腰掛けリュックを降ろす。次の電車まではまだ結構時間があるためホームには誰もいない。雨音に包まれながら弁当を1人で黙々と食べる。食べ終わる頃には後10分程で電車が来る時間になっていた。ゴミ箱に弁当を捨てスマホをいじり始める。部活同期からのメッセージがあるという通知を見て、なんとはなしに嫌な気持ちになる。同情だとしてもお叱りだとしても返信する気は湧かない。画面を暗くするとそのままポッケに仕舞って、特に何をするわけでもなくただ電車を待った。
 やがて電車が来て乗り込むときに、視界の端で彼女も同じ車両に乗り込むのが見えた。ホームに屋根があるところを選んだせいか同じ車両になってしまった。乗ってからわざわざ違う車両に移動するのも意識しすぎな気がしてそのまま座る。彼女もドア1個挟んだ逆側に座るのが見えた。一瞬目が合いそうになり思わず逸らす。特にやることもなく、また眠りについた。
 目が覚めると、自分の家の最寄りだった。雨も止んだらしく、むしろ強い西日が差し込んでいた。15分弱で着くというタイミングで目覚めた手前もう一度寝るわけにもいかず、本を取り出して続きを読み始める。仮眠のおかげか、視界もくっきりしており文字を追うことに疲れを感じない。

 Dさんは夜勤の警備員でその日も1階から巡回していました。巡回は1フロア終わると、エレベーターで1つ上の階に行きます。4階の巡回を終えたDさんはエレベータに乗り、次の階を押しました。本来なら次の階は6階なのですが、Dさんはこの日疲れていたこともあり、間違えて5階のボタンを押してしまいました。押してしまっても反応はしないはずなので、いつもならエレベーターが動かずなんともないはずなのですが、その日はなんの不具合か5階のボタンが反応し、エレベーターがスーッと上へあがり始めました。ドアが開くと、このフロアってこんなに閑散としていたっけとDさんは不思議に思いました。しかし押し間違えに気づいていないDさんはそのまま巡回を開始します。
 ですが、エレベーターホールを抜け、テナントがまるで入っていない廊下を眺めたときDさんはようやく自分のミスに気が付きます。ここは6階じゃない。エレベーターホールに戻り確認すると、ないはずの5階の表示がされています。慌ててエレベーターを呼ぶボタンを押すも、反応しません。エレベーターの外なので不具合を知らせる非常通報ボタンもありません。Dさんはフロア反対側の階段から上へ行くことにしました。しかしそんなに大きなビルでないと言ってもフロア反対側まではそこそこ距離があり、また途中にはトイレもあります。Dさんもさすがに5階トイレで首を吊った人間がいるという心霊話は覚えていて、初めの頃は旧5階トイレである6階トイレを見回るときにはびくびくしたものです。しかしここは本当はないはずの5階。何があってもおかしくない。Dさんは震える足を何とか前に運び、長い廊下へと踏み出しました。
 一歩一歩と近づくたびにどんどん嫌な気配が迫ってくるのを感じます。首と肩に痛みを感じ始め、身体からは冷や汗が噴き出してきます。トイレまであと数歩というとこで、不意にギイと扉が開く音がしました。その音を聞いたDさんは堪らず階段のドアまで駆けだしました。つんのめりながらもなんとかドアにたどり着いたDさんは頼む開いてくれと精一杯の念を込めながらドアノブを回しました。予想した以上にするっとドアが開いてDさんは無事階段に出ることができました。
 安心したのでしょう、Dさんはその丁寧な性格から、振り返ってドアをちゃんと閉めようとしました。振り返って見てしまったのです。首にロープを巻きその首は異様に長く、口からは長く伸びた舌が鎖骨あたりまで垂れ下がり、眼窩は空洞で落ち窪んだ、首吊り死体が迫ってきているのを。Dさんは残り2フロアの巡回を放り投げてビルの外へ逃げ出しました。翌日辞表が警備会社に郵送で送られてきました。上司が電話で理由を尋ねても上記の話を繰り返し、不安に思った上司がDさん宅を訪ねると、そこにDさんはおらず、失踪届が出された後、結局見つかることはなく死亡扱いになったそうです。

 読み終わったところで、目的の駅に着いた。急いで本を片手に持ったまま降りようとしたところで後ろに引っ張られる。振り向くと彼女が私のリュックを引っ張っていた。急な展開に声が出せなくなっていると、彼女が慌ててリュックを離して口を開いた。
「今日、塾なくなったよ、スマホに連絡来てるはず」
 驚いてスマホを見ると、確かに休講のお知らせが来ていた。スプリンクラーが誤作動を起こし大変なことになっているらしい。電車のドアが閉まる。休講なら休講でここで降りないと家からどんどん遠ざかってしまう。しかしそうと気を取られないよう、彼女にお礼を言い、再び席に戻る。彼女も私の隣に座ってくる。一緒に通わなくなったのはそんな前でもないが、妙に久しく感じた。同時に嬉しくも感じた。しかし言葉は続かない。私としても急な展開で何を言ったらいいのか分からないし、彼女も気まずい思いがあるのだろう。やっぱり適当な理由を考え、席を移った方がいいかと腰を浮かしかけた。
「その本読んでいるの?」
 彼女が私が持っていた本を指さす。
「うん。図書館で見つけて」
「私もそれ読んだよ。面白いよね。どこまで読んだ?」
「駅前ビルの怪まで」
 細く長い人差し指を唇に当て首を捻っている。
「えーと、どんな話だっけ」
「5階がないビルの話」
「あー、あれね。じゃあ現代編はまだ最初の方なんだね」
「今日借りたばっかだから」
 仲たがいしてしばらく避けていたのが嘘のように自然に会話ができたと思ったら、急に途切れる。彼女は俯いて何や逡巡している。そのまま眺めていると、横目でこちらを見てきて目が合い、思わずドキッとしてしまう。
「あのさ、塾なくなっちゃったから今日暇だよね」
「暇だけど」
 何の話だろうか、唾を飲み込む。
「実はその本に載っているスポットで行きたいところがあるんだけど、1人じゃ怖くて。一緒に行ってくれない?」
 彼女の方が身長は高いはずだが、ちょっとかがんでいるせいか、下の方から彼女と目が合う。これが上目遣いってやつなのだろうか。私の返答を待つ間彼女の両こぶしが膝の上でぎゅっと握られている。
「ここから近く?」
 ちょっと緊張で声が震えた。
「うん。次の駅が私の最寄りでそこからちょっと歩けば着くところ」
「じゃあいいよ」
「本当!?」
 握っていた手をぱっと開き胸の前でパチンと打つ。思った以上に音が響いて彼女自身が驚いた後、嬉しそうにニコっと笑う。なんでこれまで彼女を避けてしまったんだろうかと後悔を覚える。
 駅に到着し、改札を出て真っ直ぐにビルへ向かうと彼女に呼び止められる。
「そっちじゃないよ」
「あのビルじゃないの?」
「ビル?」
「え?ほら、さっき話してた駅前ビル」
「あー、あれってあのビル?」
「ほら、ここらへんとかそうっぽくない?」
 本を開いて指差す。
「本当だ」
 彼女はビルに向かって指を縦に振り始める。
「……5,6。ちょうど6階建てだし、そうなのか。ちょっと行ってみようか」
 ビルに入ると、真横に警備室があり、止められるかと思ったが、素通りできた。テナントにはお店もあり、一般客が入ることもあるのだろう。正面入って右手にエレベーターがある。お互いに顔を見合わせ、ゴクリとつばを飲み込み、恐る恐るボタンを押す。しばらくすると到着音とともに、ネズミ色のドアが開いていく。中はグレーのマットと正面に鏡があるよくあるタイプのエレベーターだ。
「うーわ。本当に7までボタンがある」
 周りを気にして声を潜めている。
「試してみようよ」
 私はそう言って、返答を聞く前に5のボタンを押す。反応はない。6のボタンを押すと問題なく点灯し、エレベーターが動き始める。
「ちょっと。いきなり押さないでよ。もし反応したらどうするつもりだったの」
 声を潜めながらだが、かなり強めに怒っている。
「もし反応しても他の階で降りればいいじゃん」
「そういうときは大体不思議な力で他のどの階にも行けないものなの。ちょっとなんでまだ押そうとしてるの」
 5のボタンを連打し始めた私の手を強引に引き剥がすと、そのままコラっと言って、腕をペシンと叩く。
「本当に反応しないね」
 ちょっとニヤケながら返す。とても苛立たせる顔をしていただろう。
「反応しないねじゃないでしょ」
 怒ってるのか笑ってるのか半々のような口調で窘められる。心霊スポット巡りは思った以上に楽しそうだ。
 エレベーターは問題なく6階に到着する。
「どうせだったら階段の方も見てみない?」
「いいけど、次ふざけたら解散だから」
 そう言って、明らかに私を盾にするようについてくる。
「なんでちょっと後ろを歩くの」
「だってここが元々の5階でしょ」
 言われて初めて気づく。そうだ。6階は旧5階だ。前方のトイレを示すマークが目に入る。ということはあのトイレで……。冷たい汗が背筋を這うように流れ落ちる。自然と足早になって、顔を伏せながら通り過ぎる。少し離されてしまった彼女が、慌てて小走りで追いつき腕を引っ張る。抗議の声が聞こえてくるが、気にせず引っ張られる腕ごと急いで前へ進め、階段までたどり着いた。階段は雑居ビルらしくよく分からない段ボールがところどころ積まれていて、埃っぽい。後ろからついてきた彼女の息が切れていて、浅い呼吸を繰り返した後、空気の悪さに気づいたのか軽くむせていた。一通りむせた後で、明らかに私のことを睨んできた。思った以上に近くに顔がある。
「ごめん。もう降りようか」
 ととりあえず謝り、段ボールを避けつつ降りる。
 降りた先の踊り場には6⇅4と書かれた表記がある。
「これってなかったはずじゃないの?」
「筆者が本を書いたあとにつけられたか、筆者が嘘を混ぜたんじゃない?」
「だとしても怖い」
 掴んだ腕をさらに強い力で握ってくる。今更ながらに少し照れくさい状況になってることに気づいた。
「ごめん、腕ちょっと痛いから離して」
 彼女はパッと話すと申し訳なさそうにごめんと言った。照れとかはまるで無いようで、少しホッとした。ここで顔を真っ赤にされようもんならどう返していいか分からなかった。
 何事もなく1階まで降りてそのまま外に出る。
「じゃあ、本命に行こうか」
 あの程度でビビり散らかしてた彼女が果たして耐えられるのか心配だったか、もうちょっといろんな表情を見たいという欲求が勝った。
 彼女の行きたいところは、旧曙平小学校というところで、明記されてはいないが、現代の怪談の最後にかなりページ数を割いて掲載されている七不思議のある学校のモデルになっているところらしい。
 旧曙平小学校まではち歩いて20分くらいかかった。歩いている間にお互いの近況について話したりしたが、距離を置くきっかけになった件については不自然なほど話題にならなかった。彼女の方から切り出してくれたら、あのときのことすぐに謝れるのにと思いながら、上の空で彼女の塾での友人の話などを聞いていた気がする。歩いているうちに日はどんどん落ちていった。
「うわ、見えてきたよ。雰囲気すっごい」
 空が茜色を通り越して紫に染まりゆく中、住宅街が切れて、畑が広がる先にポツンと経つ廃校は、体育館だけ壁が白の屋根が紅漆の色で、校舎が淡いピンク色というやけに明るい配色なのが一層不気味さを際立てる。そうでなくても明かりが一切点いていない学校というだけで近寄りがたい雰囲気を感じる。たくさん並ぶ窓から急に何かがこちらを見てきそうな想像に駆られた。彼女も恐怖を感じているようで歩みが遅くなる。
 近づくと校舎の全貌がはっきりしてきた。校舎は道とだいたい並行に3棟並んでいて、一番奥だけ3階立てで、木造の古い建物に見える。他は2階建てで、一番手前の棟の端に体育館がある。手前の棟のさらに手前が小さめの校庭で、大きい校庭は奥の棟さらに奥に広がっている。正面玄関はこちら側ではないのか小さな門が1つあるだけ。門は当然閉まっているが、校舎を取り囲む柵が対小学生用というか、かなり低いのでどこからも入れそうだ。
「どうする?」
 ここまで来て、私はかなり怖気ついてしまった。本音を言うならもう帰りたかった。
「ここまで来たら行けるとこまで行ってみようよ」
「侵入がばれたら怒られるかもしれないよ」
 その言葉を聞いて彼女はケラケラ笑い出す。
「こんなところ入っても誰も気づかないって」
「じゃあいいよ、入ろう。ビビッて泣き出したら置いて帰るから」
 ちょっと馬鹿にされたようでムッとしながらそう返す。
「さすがに置いていくのはやめて欲しいかな」
 私が柵を超えてくのに続いて、彼女もひょいっと超える。スマホのライトをつけ校舎に寄っていく。遠目だと分からないが、壁には小さいヒビが所々見え、管理されていない建物ということがよくわかる。
 手前の校舎から手当たり次第、窓や扉で空いているところがないか確かめていったが全てちゃんと鍵が掛けられているようだった。窓から見える教室内は机も椅子もなく、ただがらんどうとした空間があるだけで、見ていると吸い込まれそうな錯覚を覚える。体育館との渡り廊下も開いておらず、2番目の校舎に移る。ここも同じくどこも開いてない。
「こうやって周り歩いているだけでも怖いけど、できれば中に入って七不思議の1つでも見てみたいよね」
「七不思議って何があるの?」
「流石にちゃんと覚えてないかも。七不思議なのに10個あったことは覚えてる」
「なんで10個も」
「著者がこの学校の七不思議についてOB何人かに取材したら、みんな七個答えてくれるんだけど、人によって違うものがあったんだって。で、大体同じ話を1つってカウントしたとしても10個残っちゃったらしい。ちょっと本貸してもらえる?」
「いいけど」
 リュックから本を取り出す。教科書に押しつぶされてちょっと歪んでしまっていた。
「えーと、1つ目は大体の人が共通して校内放送で人のうめき声みたいなのが聞こえるって言ってる。人によってはメッセージを伝えてくるパターンもあるらしい。2つ目が理科室でよくある人体模型がどうのこうのって話。3つ目がトイレの花子さんだね。女子トイレをノックして呼ぶんじゃなくて、中に入っているときに外からノックされるみたい」
 校舎の半面の調査を終わった。2つ目と3つ目の校舎の間に移り、もう半面を調べ始める。彼女が本の解説を始めてから自分1人で開いているところはないか調べている。ガラスを触っているだけだが、手がだいぶ汚れてきた。
「4つ目が、多目的ホール?っていうところで、卒業生寄与の絵があるらしいけどそこから笑い声がするみたい。5つ目が階段を下っているときに、急に悲鳴が聞こえて、そのまま下っていると急に突き落とされるらしい。6つ目が廊下を歩いていると白い影が追ってくるって話。人によって黒い影だったり人体模型だったりしてる。7つ目が音楽室でピアノを演奏している霊がいるっていう話。8つ目は体育館のステージ裏にいつもは開かないあの世につながる扉があるっていう話。9つ目は教室でかくれんぼをすると1人知らない子と入れ替わってしまうらしい。10個目が……」
 そこで彼女の声が途切れる。
「10個目は?」
 粗方2つ目の校舎も調べ終わり、何事かと思って彼女の方を振り返ると、きょろきょろ何かを探している。
「10個目はなんだよ」
 なんだか怖くなってきて、ちょっと強い口調で尋ねてしまう。ボソッと彼女が何か言った気がするが、聞き取れない。え?と聞き返す。
「中庭」
 心臓が跳ね、急いであたりを見回す。ビオトープらしきものがあるくらいで特に変なところはない。
「中庭のなんだよ」
 情けなく語尾が震えた
「百葉箱を開くと生首があるらしいんだけど、肝心の百葉箱が見当たらないんだよね」
「百葉箱ならあったよ。ほら、1つ目と2つ目の校舎の間に」
 言いながらそっちの方を指差す。彼女はゴクリと唾を飲むと、行く?と目で聞いてきた。小さくうなずくと、2人で黙りこくりながらさっき見かけた百葉箱のとこまで歩く。スマホライトで照らされたそれは、蔦に覆われ、ところどころペンキも剥げ、汚れがひどかった。開けようにも触りたくはない。
「開ける?」
「汚くてあんまり触りたくない」
「ほんとに?ビビってるだけじゃないの?」
 表情はあんまり見えないが、小悪魔のような笑みを浮かべているに違いない。なんで今度は私が煽られる側になっているのか。
「それでいいよ。ほら、一番奥の校舎を見に行こう」
 安い挑発には乗らないタイプなので踵を返し足早に立ち去ろうとする。背後で黒板を引っ掻くような嫌な音がして思わず振り返ると、彼女が百葉箱を開けていた。ライトに照らされた中身は蜘蛛の巣が張っているだけで生首があるようには見えない。しばらくライトの角度を変えたりして、中をよく観察した後、汚いものを触るように指先だけ使って扉を閉めて、ポケットからハンカチを取り出し拭う。
「すっごい汚かった。手洗い場とかないかな」
「開けなければよかったのに。あっても水が出るかわかんないよ」
「それはそうだね」
 彼女は小さくため息をつき、こちらへ向かってくる。一瞬黒い影が彼女の背後を横切った。彼女の背後を凝視して動かない私に
「ちょっと、そう言うのやめてよ」
 と言い、振り返らずに駆け足で私の横を通り過ぎていく。背中に冷たいものが走り鳥肌が立っているが、スマホのライトを持つ手が動いて、植物かなんかの影が動いただけだろうと強引に解釈して、彼女の後を追いかける。
 一番奥の校舎は木造だった。他の2つの校舎よりかなり古く見える。最初に見えた部屋はぱっと見で理科室だと分かった。
「机は残っているけど人体模型はないね」
「今、外出中かもよ」
「だったら面白いね」
 校舎内に入れず、外側から中を見渡すだけの作業に段々と飽きが生じている気がしてきた。次の部屋は随分と大きいが、物が残っておらず、何用の部屋か分からない。渡り廊下を横切って、その次の部屋は小さめだがここもがらんどうで何の部屋か分からない。先に窓に手をかけた彼女がため息をつく。
「うーん。この校舎も全部だめそう」
「まあ廃校であっても簡単に人が入れるようにはしてないだろうしね。それにしても廃墟と言えば不良のたまり場とかになっていてもおかしくないんだけど、ガラスも割られてないし、落書きもない」
「たまり場にするには大きいし、心霊スポットとしても有名じゃないんだろうね。あの本しか取り上げられてないんじゃない?」
「そうなのかな」
 いつの間にか彼女を追い越し、一番端の部屋の入り口に手をかけたところだった。
「あ、開いた」
 抵抗もなくするっと開いたので逆に驚く暇もなかった。彼女が掛け寄ってくる。
 ライトを中に照らすとどうやらそこは給食室っぽかった。入るかどうかなんて野暮なことを聞く前に、彼女は私の脇の下を通り抜けてするする進んでいく。
「足元気を付けなよ」
 いくら荒らされていないとはいえ、細心の注意を払って後についていく。据えた匂いが漂い、湿気と熱気が籠っている。給食室から校内に入る扉を開け、恐る恐る出てみる。廊下は一本道でライトで照らしても反対側の壁が良く見えず、無限に続くような錯覚を覚える。
 周囲を照らしながら進む。小さな部屋は管理人室、その次の大きな部屋は職員室だったらしい。さらに進むと右手に渡り廊下への扉、左手に階段がある。階段の方を向いた彼女が、壁のある一面を照らす。
「何かあるの?」
「旧校舎の分だけだけど、案内図がある。七不思議関係だと、外で見た理科室と2階に音楽室あるね。普通教室とかはないらしい。他の校舎への渡り廊下が開いてないから見れるのはこの辺かな」
「とすると巡れる七不思議は2つか」
「あと、階段とトイレと廊下もだよ。もしかしたら向こうの校舎の話かもしれないけど。とりあえず歩いているうちに遭遇したりできるかもしれないし、理科室から行ってみようよ」
 そう言って、理科室の方に向かう、ちらちら私の方の様子を振り返り、心細くなったのか、腕を掴んできた。
「急に怖くなったの?」
 さっきのお返しとばかりに軽いからかいを入れてみた。
「流石に外回ってるころと比べたらかなり怖いよ。それに、一緒に歩いていたのにいつの間にか1人だけになっていたらシャレにならないじゃん」
 真っすぐにそう返されると弱い。おとなしく掴まれることにした。
 理科室に辿り着くも鍵がかかっている。
「職員室になら鍵があるかもしれない」
 そう言ってまた戻る。怖がっている割にはずんずんと進むことをためらわず、ついていく私の方が怖がっているかもしれないと思い始めた。気取られないように精一杯の虚勢を張って怖くない風に装った。
 職員室も結局開いてはいなかった。
「この調子じゃ音楽室も多分開いてない感じかな。一応付き合ってもらってもいい?」
 落胆した面持ちで、そう問いかけてくる。百葉箱を躊躇なく開けたり、率先して校舎内に入ったりしたのも、もしかしたら一緒についてきた私をがっかりさせたくなかったからかもしれない。私からしたら、もうおなかいっぱいなのだが、気取られないようにしてるせいで、面白くなさそうと思われているのかもしれない。
「全然いいよ」
 ちょっと笑って返したつもりだが、うまく笑えたか分からない。
 2階に行くと1階よりだいぶ状態が悪かった。歩くたびに床が軋む音がする。このころには彼女は私の手を握って引っ張っていた。2階に着くと音楽室よりに辿り着く手前の部屋にまず目が行った。なんと扉が開いているのだ。気づいた瞬間私も彼女も立ち止まる。
「ここ何の部屋だったか覚えてる?」
 1階の部屋には教室名が書いてあるボードが扉の上にあったが、この部屋にはない。彼女は首を捻りに捻った後、
「音楽室のどっちかの隣は準備室だったと思うけど、どっちかまでは……」
 中の様子を伺おうにもここだとぎりぎり角度的にスマホのライトが中に届かない。私が先に一歩を踏み出す。彼女もそれに呼応して歩き出す。お互いの手汗のせいで、握る手が滑り始める。1回離して拭こうかと考えたが、彼女がさらに強く握ってきたせいで離すタイミングを失った。
 慎重に一歩ずつ踏み出していき、中の様子が段々と明らかになった。その部屋は他の部屋と同じくがらんどうであったが、中心によくある机が一個ポツンとおいてあるだけだった。私はなぜかその机を見て、身体の芯から身震いした。多分首吊りを連想したからだと思う。恐る恐る中に入る。部屋の中はさらに痛みが激しくカビ臭さが鼻についた。扉が開いていたにもかかわらず、中と外の空気がまるで違うもののように感じた。真ん中の机まで辿り着き、お互い手を離す。私が裾で手を拭いている間、彼女は机を観察している。一通り見終わったところで声を掛ける。
「なにかあった?」
「ううん。なにも。ただ、この机の置き方、私が小学校のときにこっくりさんやったときと似ているんだよね」
「こっくりさんをしたの?」
「うん。小学校の卒業式の日、私のクラスの教室だけ、翌年に使わなくなるからって、有志何人か残って机を運び出していたんだけど、最後の1つの机を残して、こっくりさんをやろうってことになったんだ。名前はこっくりさんじゃなかったけど、方法はほとんどこっくりさんと一緒。」
「それは、どうなったの?」
「途中で先生が来て強制中断させられちゃった」
「それってやばいんじゃないの?」
「でも、こっくりさんが来る前というかなかなかうまくいっていないうちに終わっちゃったから。多分大丈夫だったんだと思う。私には少なくとも何も起きてないし」
「他の人には?」
「それが、私の学校、中学で2つの校区に分かれちゃうから、その日残った子、全員違う学校行っちゃってそれ以来会えていないんだよね。地元で偶然会ったりもしていない」
「それ、神隠しとかに逢ってない?」
「流石にそれはないと思う。ただ偶然会ってないだけだよ。流石にそんなこと起きていたら噂になっていると思うし」
「そうだね」
 特に見るものなく、教室を後にし、扉を閉めようとした。片手はいつの間にか彼女に掴まれている
「あれ?そういうことか」
「どうしたの?」
「ここ元々扉無くなってるっぽい。だから最初から開いていたんだと思って」
「本当だ。なんで扉ないんだろう」
「考えて分かることじゃないんじゃないかな」
「ん-。なんだかモヤモヤする」
「まあでもこの教室は七不思議でもなんでもないんだし、音楽室行こうよ」
「音楽室行っても結果は分かっているんだけどね」
 割と醒めている彼女の発言に驚く。
「なんで」
「だって本当にピアノを演奏している霊がいるとしたらもう音で分かるでしょ」
「霊だから、ピアノ弾いても音鳴らないのかもよ」
「だとしたら興ざめだよ。鳴らないピアノを一生懸命弾く霊ってそれもうコメディーだよ」
 緊張感もすっかり無くなっている。まあ何回かぞっとしたし、肝試しにはちょうど良かったかくらいの気持ちで音楽室の扉に手をかける。若干の抵抗はあったものの、予想に反して扉は開いた。
「開いた」
「本当にピアノあるね」
 確かにピアノはあった。しかもちゃんとしたグランドピアノ。他の教室の物品がほとんど無くなっているなか、音楽室のピアノだけ残っているのは異様だった。
「え、楽譜が置きっぱなしにしてある。これ卒業式で歌われるやつ」
 彼女はさっさとピアノのところまで行ってしまった。この部屋も状態は悪く、床の軋む音がかなり大きい。おまけにさっきの部屋よりさらにかび臭いし空気もモワっとしている。彼女は特に気にする素振りを見せずピアノを弾こうとする。しかし、何音か弾いた後首をかしげて
「流石に調律が狂っているね、これじゃ幽霊も弾きに来てないよ」
 と笑った。
「試しに楽譜のを弾いてみてよ」
 と言うと
「多分あんまり綺麗な音じゃないよ」
 と言いながら演奏を始める。弾き始めるとよく知っている曲だったが、確かに音がおかしい。本来の曲にはない不協和音がこだまし、雰囲気と相まってここまで一番恐怖を覚えた。

 彼女はサビのワンフレーズだけ演奏するとすぐにやめてしまった。多分彼女も怖かったのだろう。
 音楽室を出た後、彼女はトイレに寄りたいらしく階段を降りて横にある1階のトイレを拝借することになった。流れなくても知らないよとは言ったが、彼女は割と背に腹は代えられないレベルであったらしい。トイレに入るとき、彼女は本当に怖がったのだが、流石に中までついていくわけには行かず、外で待っていることにした。職員室の扉は相変わらず閉まっていた。木造建築の建物はどこか建付けが悪くなっているらしく、黙っていると隙間風がかなりうるさく聞こえる。なんだか、外で1人残っている方が怖い。
 彼女はトイレから出てくると、水は流れないし、臭いし泣きそうになったと教えてくれた。もと来た給食室のところから出ると真っすぐに駅まで向かった。
 駅まで戻ってきたところで彼女が忘れ物に気づいた。多分廃校で無くしたものらしく、大事なものなので取りに戻ると言った。私はこんな時間に女性1人で道を歩かせるのは危ないと思ってついていくことを打診したが、彼女は親の車を呼んで送ってもらうから大丈夫だと言った。だから私も安心して家路に着いた。その翌日だった。彼女が廃校内で遺体で発見されたのは。

 車窓は相変わらず何も映さない。時刻は3:00を回った。あのとき、一緒に付いていっていれば彼女は死ぬことはなかっただろう。その意味で私は彼女に恨まれていると言えるだろう。だから彼女は私をこの電車に導いたのだろう。

 いや、違う。何か記憶違いを起こしている。直観的にそう思った。なぜそう思ったかは分からない。この話は、あの日以降、何度も警察の取り調べを受けてその中で何回も喋ったはず。彼女の両親にも説明した。いくら10年前とは言え、そう簡単に記憶が曖昧になったりはしない。
 ふと手元にあるショルダーバックの中身を思い出す。差出人不明の封筒と白紙の手紙。私はそこで記憶違いに気づいた理由が分かった。この封筒を開けたときに感じた臭いは間違いなく、あの日嗅いだ臭いだ。しかし今の記憶の中で、むせかえるような湿気とカビと酸っぱさが混じったような臭いを嗅いだ覚えがない。音楽室の臭いは近かった気がしたが、微妙に異なる。
 またあの臭いを嗅げば何か思い出すかもしれない。そう考えて封筒を開けるが、もうなんの臭いもしない。しかし、中の手紙を見て思わず手紙を落としてしまった。なんだこれは、白紙じゃない。白紙だと思っていたそれには血のようなもので書かれた謎の模様と、その上を縦横無尽に、まるで虫をすりつぶしながら引いたかのような、赤黒い線が走っている。なんでこれが白紙に見えたんだ。自分で自分の記憶が信じられなくなる。そのとき電車にあの臭いが充満していくのを感じる。思わず吐きそうになって手で口を抑えるが、抑えきれず胃の中身が口から溢れてしまう。臭いはもっときつくなっていく。元々脱水症状気味だった上に吐いたせいか、手足がしびれ、頭痛がひどくなってきた。そして思い出した。
 あの日、彼女は私と別れた後亡くなったのではなく、私と一緒にいるときに亡くなったのだ。

「試しに楽譜のを弾いてみてよ」
 と言うと
「多分あんまり綺麗な音じゃないよ」
 と言いながら演奏を始める。ちょうどサビのワンフレーズが終わった後、急にバキバキという音が鳴った。
「なになになに」
 彼女は慌てて、少し離れているところで聴いていた私のいる方に駆けてこようとする。それをきっかけにしたかのように、ピアノが床に吸い込まれるように落ちていく。すぐそばに居た彼女も巻き込まれていく。鈍い衝撃音が何回か鳴り響き目の前には床に大きな穴が生まれていた。
 恐る恐る穴に近づき下を見ると、剥き出しの梁の下に、彼女の顔と上半身の一部が見えた。他はピアノとガレキに覆われて見えない。助けなければ。
 高いところから降りる恐怖心はなかった。梁を掴みぶら下がり、痛みを覚悟しながら梁から手を離して降りると、足から鈍い衝撃が広がっていくのを感じたが動くことはできた。急いで彼女の元に駆け寄る。胴体をピアノの鍵盤に押しつぶされ、どこからか血が段々と広がっている、彼女は大量の脂汗を流し、小刻みに震えている、かと思ったら血と吐しゃ物が混じったものを吐き出す。部屋の臭いと吐しゃ物の臭いが混じった嫌な臭いが広がり、思わずもらい吐きしそうになる。目の焦点は合っておらず、か細く乱れた呼吸音がするだけで、声を出すことさえない。後ろを向き、救急車を呼ぼうとスマホを取り出したとき、わずかに彼女の声がした。ちゃんと聞き取ることはできなかったが、置いていかないでと言われたような気がする。
 振り向くと、彼女と目が合った。しかし、もう何の動きも示していなかった。彼女の最期の感情が込められた視線を受け、耐えきれず吐き出してしまう。人が死んだ。私の目の前で。
 この後はもうがむしゃらに動いたつもりだったが、振り返って考えると、かなり冷静だったのかもしれない。このとき考えていたのは、私のせいで彼女が亡くなったという事実を何としても消したいという思いだった。彼女は私と別れた後で1人で亡くなったというストーリーが頭の中で出来上がっていた。
 職員室の壁に1本残っていたマスターキーを取り、職員室の扉を開け、外から職員室の鍵をマスターキーで閉め、密室を作り出した。逃げるように廃校を後にし、何もなかったかのように家に帰った。親に塾が休みだったのに帰りが遅いことを聞かれると、友達と遊びに行っていたと答えた。嘘は言ってない。親もそれ以上は聞いてこなかった。

 翌日はなにも変わらなかった。翌々日に塾の前で警察に話しかけられた。彼女のことについて聞かれ、正直にあの日廃校に行ったことを答えた。廃校に行ったことから隠そうかと悩んだが、駅ですれ違った人、ビルの警備員などあの日私たちが一緒に居たことを見た人は少なからずいるはず。余計な嘘をついて目撃情報との矛盾から疑われるのは嫌だった。
 彼女と一緒に廃校に居たことを伝えた瞬間、警察は目の色を変え、私は事情聴取を受けることになった。警察署まで連れて行かれるさなか、私は彼女の死を知らない体で、彼女の身に何かあったのかを聞いた。が、何も答えてくれることはなかった。署に着いて、初めて彼女が死亡したことを教えられた。そのとき、私は初めてそのことを知ったかのようにふるまった。何のことはない。あの視線、あの臭いを思い出せば、自然と涙は出たし、ショックで動けない程になった。何とか落ち着いた後、事情聴取が始まった。
 対応した警察官のことはよく覚えていない、自分のことで精一杯だった。相手が何か聞き始める前に、彼女がどうして死んだのかを尋ねたが、答えてはくれなかった。今思うと後で鎌をかけるために、なるべく死んだところを見ていない人以外は知らない情報は伏せようとしていたのかもしれない。彼女との関係からあの日の動向まで事細かく聞かれた。私のせいで彼女が亡くなったという事実を消すため、一切矛盾がないよう、ピアノ演奏後の真っ赤な嘘の話を、頭で鮮明にイメージができるよう自分の中で何回も繰り返して臨んでいた。しかし、警察はわざわざ彼女だけ廃校に戻ったという不自然さが気になったのだろうか、かなり執拗に何回も取り調べを受けた。特に音楽室の場面はうんざりするくらい聞かれた。結局、職員室が完全に密室で、事故も故意に起こせるものではないということから、私は特に事情聴取以上のことはされずにこの件は彼女の事故死ということで片が付いた。

 しかし、私が守りたかった、私は彼女の死の瞬間を見ていない、彼女の死の責任は私にはないという嘘は世間的には何の意味もないらしく、学校では私は彼女の死の原因そのもののような扱いを受けた。仕方なく私は転校を強いられた。親元に残ることも許されず、全寮制の地元から遠く離れた高校へ転入した。卒業後はそのまま就職し、親とも連絡は取っていない。だから私が地元に戻ったのも10年ぶりだった。

 いつの間にか、彼女の死の責任から逃れるために自分すら騙してしまったらしい。吐しゃ物にまみれた手を眺めながら、最悪の気分を味わっていた。
 突然、身体が大きく前方に傾く。急に電車が急加速している。不意に自分が置かれている状況を思い出した。本能的に危険を感じるレベルで電車は加速していく。
 嫌だ、死にたくない。不意に口からこぼれ出た言葉に自分で驚く。
 そうだ、私は死にたくなんかない。死にたい訳など1つもない。彼女への贖罪で死にたいと思ったことも一度もない。なのになんで私は死のうと思っていたのか。
 送られてきた手紙を見る。これを見てから、私は死ななければならないとなぜかそう思ってしまったのだ。そんなこと微塵も思ったことがないのに。電車はどんどん加速する。脱線するのではないかという速さになっていた。明確に死が迫っていることを感じ身体が底からガタガタ震えてくる。
 運転室に行けば止められるかもしれない。スマホのライトで前を照らし、ふらつきながら前方の車両に移動する。だが、前方に運転席はない。中間の車両のようにただ連結部があるのみだ。
 慌てて後方の車両に戻る。車掌室からでも操作できるかもしれない。だが車掌室は開かない。こぶしをガラスに何度打ち付けても割れない。不意に車掌室の中、改札鋏が目に入った。ドラマでしか見たことがないが、その子気味良い音はよく覚えている。そうだ、途中響いたチャキンの音はこいつの音じゃないか。見えない何かが、見えない何かの切符を切っていたなら意味がよく分かる。そうであるなら……。ゾッとして後ろを振り向く。暗闇から身震いするような視線を感じる。まるで私が死ぬことを期待するかのように好奇に満ち溢れているように感じた。
「嫌だ、死にたくない止めてくれ」
 気が付けば叫んでいた。電車はどんどん加速する。イチかバチかドアから飛び降りるかと非常用ドアコックを操作する。扉を強引に開けると、ガーっと風がものすごい勢いで流れてくる。列車の速度は緩まず、このまま飛び降りても死しかない。身体が転がりながら無残にバラバラになっていく様が容易に想像ができ、一歩踏み出すことができない。
 考え得る全ての方法を潰され、力なく元居た席に戻る。どうしてだ。なんでこんな電車に乗ってしまったんだ。死にたくない。頭を抱えた。恐怖で涙が止まらない。
 彼女を見殺しにしたのがいけなかったのか。でもどう考えても助け出せる状況じゃなかった。私のせいではない。それなのにどうしてこんな目に合わなくてはならない。地元を失ってから10年、ようやくそれなりの暮らしが送れるようになってきたのに、なぜ死ななければいけない。
 このまま座っていてもただ死ぬだけだ。やはり開いたドアから飛び降りよう。それしか生きて帰る方法はない。
「置いていかないで」
 不意に前から声を掛けられた気がした。
「え?」
 顔を上げる。風の流れる音が急に変わる。トンネルに入った。その一瞬確かに彼女の姿が見えた気がした。
「置いていかないで」
 身体が急に傾き、宙に浮く感覚を覚える。天井が降ってきた。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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