スウェーデンという経験(2話)
大学生時代の留学経験を基に書いたフィクションです。
2話目は、授業参観に行ったスウェーデンの学校から...
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私はこの一連の経験から、何かが置き去りにされているように感じた。
多くの人は「責任の所在」というものにばかり意識が向いて、問題解決を先送りしてしまう傾向が少なからずある。それは何か急を要する事態が発生したとき頭をよぎる
「なぜこんなことに…。」という強い思いだ。
それは誰もが抱く思いというよりは、日本人特有なのではないかとは思うんだ。物事の「責任の所在」はもちろん明らかにされるべきだが、それを明らかにすることが優先され、問題の解決が遅れては本末転倒だった。
留学したての頃、私はスウェーデンの小学校の授業を見学したことがあった。授業の一環で一週間ほど授業参観のようなことをしたんだ。
その内の一日は、スウェーデンの子供たちと遠足への同行だった。
すると遠足の目的地の公園につくなり、日本では、小学生同士が突然喧嘩をし始めた。周りの生徒は喧嘩をはやし立てる中、引率の先生は周りの子供には目もくれず、二人の間に割り込み、二人を止めた。教師はしばらく二人に向かって、ゆっくりと何か言い聞かせていた。
スウェーデン語はあまり理解できたなかったので、後で何を言っていたのか直接聞いたんだ。
“I just said, ‘I don’t care who started this. But you two have to know it doesn’t make anything better to hit your friend.’ It’s so simple, isn’t it?” 「誰が喧嘩を始めたかなんて関係ない。けれどあなたたちは友達を殴っても何も解決しないことを知らないといけないと私は言っただけよ。単純なことでしょ。」とその教師は答えた。
確かにそれはしごく単純なことだった。な・ぜ・喧嘩になったのか、それを問いただすよりもまず大事なことは喧嘩をやめさせることだ。何か二人の間に問題があるなら、それを解決できる他の方法を考えさせること。
「これこそ教育だ」なんて思ったものだ。
私も幼いころよく友達と喧嘩をすることがあったが、「暴力はダメ。どうしていつも喧嘩になるの?」といつも言われて育った。
「どうしてか?」 “Why do you always get into a trouble with friends? ” と私は聞かれるたびに、「相手が仕掛けてきた」と言い続けてきた。
もちろん教師はそのような責任転嫁を真っ向から跳ね返し、
「相手のせいじゃない。反・省・しなさい。」 “Don’t pass the buck to other. Reconsider of yourself!” と言った。
私はそのように言われながら、実のところ大した反省もすることなく同じ失敗をし続けてきた。そして大きな失敗をし、強く頭を打って、ようやく遅ればせながら、今までを反省をし、自己改善に取り組んできたはずだった。
でも、スウェーデンの教師と話した時、同じ失敗を凝りもせず繰り返しているのに気が付いた。
日本で私の教師だった人の言ったことが間違っていたとは思わない。でも、明らかに日本の教師とスウェーデンの教師の喧嘩に対するアプローチとは違いがあり、その違いは、その頃の私にとって非常に印象的なものだった。
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