安楽死という保険を求める

◼️四十肩の絶望

先日、生まれて初めて
四十肩になった。

絶望した。

確実な老化を、
身をもって実感したから、
ではない。

この類いの痛みは、
どれだけ酷くなろうが、
絶対に死なない!

と確信したからだ。


◼️無意味な痛み

死ぬほどの痛みは
当然味わいたくもないが、

死ぬほどの痛みを得ながら、
死ねない状況こそ、
私が何よりも怖れるものであり、
最も忌み嫌うものである。

痛みと引き換えに、確実に死ねるなら、
死ぬほどの痛みは納得(享受)するが、

結果的に死ね(な)ないのであれば、
死ぬほどの痛みは、ただの痛み損であり、
私にとって最大の無駄であり、
〈過労死〉に匹敵する
究極の理不尽ささえ感じるのだ。


◼️幸運がデフォルトの社会

私はおそらく、不安症である。

明日、今この瞬間、
閉じた瞼を再び開けた時、
何か悪いことが起こるのでは?
という恐怖はないが、

明後日、一年後、死ぬまでの間に、
自分では制御不可の、
死ぬほど面倒で嫌なことが起こる。

そんな確信が、常に頭の片隅にある。

生きること自体が
不安で不安で仕方ない、のではない。

どんな状況下で、
どんなことがあったとしても、
本人の意志どころか、
手段もモラルも問わず、
生を強要する世の中が、


私は本当に、
怖くて怖くて仕方がないのだ。


不慮の事故を心配し始めたら、
外出どころか何もできないし、
人間関係のトラブルを怖がっていたら、
友達なんてできないよ。

心配したらキリがない、と
平然と言い放つのであれば、

実際に事故や事件、トラブルや各種不幸、
サイコパスに遭遇して、
生きることが苦痛でしかない人は、
どう平常心を保てばいいのだろう。


◼️盲目的に前向きな社会

今、感じている不安を明確化し、
自己研鑽をもって事態に備える。

大変建設的で、素晴らしい考え方だが、
不安という漠然とした問題を
解消するには至らない。

不安とは、
想定外(の可能性)に端を発し、

その想定外とは、
事前対策が不可なものを指す。

想定(事前対策)ができたのなら、
それは想定外(不安)ではないのだ。

それとも、
今後直面する(想定外の)問題を矮小化し、
自分の能力を過大評価することが、
不安を解消する現実的な対処法だろうか。

それは、

美しく表現するのであれば
「自分を信じる」ことであり、

一般的に表現するのであれば、
「楽観的になる」ことであり、

とどのつまり、
「精神論で解決しろ」
ということではないか。


◼️安楽死という保険

精神論で不安は解消されない。

だから、

事故や病気、ビジネス上のトラブル、
人が想定する様々な不安に対処するため、
各種保険制度が存在する。

しかし、

その各種保険の中に、
私の不安を解消するものが何一つない。

金銭が尽きたら
(=働く意志と体力が失くなったら)
病気になったら
(=闘病してまで生きたくはない)
もう十分生きたと納得したら

自分の意志で人生に白旗を挙げ、
あらゆるものに降伏できる安心が

私は何より欲しいのだ。


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