凡人の存在理由

食べることが生き甲斐ですが何か?

私はかつて「食べることしか、楽しみが無くてさw」と口にしたことがある。社会人と一人暮らしのWデビューを果たし、仕事以外は家事(自炊)メインの生活を送っていた。多少の自虐を含めつつも、普通に充実している、という意味での発言だった。

しかし、それを聞いた友人の友人の反応が「え?マジで??」
だったのを覚えている。
(口ではなく、表情で語っていた。)


生き甲斐における「次元」

おそらく、彼の考える人生の楽しみ(生き甲斐)とは、もっと高次元なものであり、食事のような《生存》に直結する原始的で低次元なものは含まれないのだろう。

だから、
「(低次元である)食べることが、
唯一の楽しみ(生き甲斐)である」

という、私の発言が信じられなかったのだ。


想定外の想定は不可能

その彼は当時、医学部に在籍していた。物腰が柔らかく聡明で、理解力も共感力も十分あり、まさに「人間が出来た」人だった。

しかし、どんなに優秀な人間でも、己の価値観以外の感覚は、容易に理解できないのだ。
私はそれを、彼を通して知った。

だから、多様性をもたらす他人の存在(凡人も例外ではない)が、どうしても必要になる。


高次元にいる「彼(ら)」へ

仕事とか、子育てとか、自己研鑽とか、高次元すぎて私の想像が及ばない「生き甲斐」を持って、充実した人生を送る人達がいることを、私は知っている。

そんな人達と比べると、私の存在や人生は間違いなく無価値なのだけれど、

本当にお腹が減ったときに食べる食事や、
お湯に肩まで浸かったとき、
日向で柔らかい光を浴びたとき、
縁もゆかりもない人に親切にされたとき、
なでた犬や猫が満ち足りた表情をしたとき、

普通に生きていく中で感じる心地良さには、
温度が通ったそれらの実感には、
絶対的な価値がある
ように思う。


食べることは生き甲斐です

当時、食べることを「生き甲斐」にしていた私は、原始的で低い次元にいたのだろうか。

その後、料理が面倒になって、食事を可能な限り放棄するようになった私は、高い次元へと登り詰めたのだろうか。

私の答えは、否だ。

(本来の目的である)栄養摂取のためではなく、味わうことを主目的にした食事は(食材を加工・調理する行為を含め)、低次元ではない。

己の価値観でのみ
物事を判断するのは、
傲慢の極みだ。

それが他人に対してであれば尚更。

「え?マジで??」
と表情で語った彼こそ、マジ失礼だ!

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