AI時代における芸術的価値と評価と、その正統性を完全無視する創造性

「生チョコを手作りする」=
市販のチョコレートと生クリームを使う
と一般的に理解されるように、

「洗濯する」=洗濯機を使う
と常識的に解釈されるように、

「絵を描く」=画像生成AIを使う
と抵抗なく受け入れられる日は、
そう遠くはないだろう。


絵は、やっぱり筆のタッチが重要で、
履歴書は手書きが最高、
などという、アナログ至上主義は、
超個人的な嗜好に過ぎない。

だが、

生産性と効率に最上の価値を置き、
体裁が整った無難な対応を良しとする、
デジタル量産主義的な社会も
いただけない。


音痴だが、歌いたい
リズム感ゼロでも、踊りたい
足が遅いけど、走りたい
芸術的センスが無くとも、絵を描きたい
全てを理解できずとも、知りたい
秀でてなくとも、自分の遺伝子を残したい

結果や成果は二の次で、
ただただ、そのプロセスを自ら経験する。
それが人生の醍醐味だとするならば、

チョコレート、生クリーム、洗濯機、AI、
一般的に、合法的に、
使えるものは何でも使って
創造を楽しめばいい。

その価値や評価は

どうせ「誰か」の

「後付け」だ。


オリジナリティとか創造性とか芸術性とか、そんなことは気に留める必要もない。

手を動かし、線を引いて、
筆圧の反動を楽しみ、
何かのカタチになったものを、
他の誰よりも早く、
自分の目に映す。

感覚を、言葉という"音"に置き換え、
知識と今現在を線で繋ぎ、
自由自在に思考を書き殴る。

美味しい、面白い、役に立つ、
絶対的価値で喧伝される、
それらの情報を
自分の知覚で検証する。


AIが出現した社会で、
本当に「人間らしさ」を求めるのであれば、
不完全なものに価値を置き、
レトリックだらけで理路整然としたものに
権威を感じるのではなく、
装飾を排した素朴なものを、
ダイレクトに受け入れるべきではないか。


何一つ瑕疵のない完璧なものを、
求め、憧れ、恋い焦がれる以上に、
突っ込み所満載の不完全なものに、
愛着や親しみを感じずにはいられない。


誰の目に止まらなくとも、
誰にも読まれなくとも、
誰にも評価されなくとも、
誰かどころか、何の役に立たなくとも
(但し、攻撃を受けるのは避けたい)

自分の意志を、感覚を、

アウトプットすることは、

ただただ、楽しい。


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