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東京献血奇譚【短編小説】

時刻は午後8時を過ぎたところ。

その日僕は、営業回りを終えて、直帰で自宅に戻るところだった。

一軒も契約が取れず、電話口で上司の小沢から罵倒された。中途入社をして半年経つが、ほとんど毎日そんなことの繰り返しで、最近は歳下の小沢から人格否定レベルの言葉を浴びせられる。年齢的に再就職も簡単じゃないし、上司からの罵詈雑言が怖くて、辞めたいと言うことからも逃げているのが僕の現状だ。

ホームには人身事故のアナウンスが流れていた。どこかの路線で飛び込み自殺があったらしい。

今の僕は、電車に飛び込む奴の気持ちも理解できるくらいの精神状態だが、そんな死に方をする覚悟も無い。鬱鬱としながら、他人に聞こえないレベルの溜息を吐くのがせいぜいだった。楽に死ねるものなら死んでしまいたいくらいだ。

最寄り駅の周辺はいつもと変わらず、目に悪そうな色のネオンを煌々と光らせていた。歩いていると居酒屋の客引きに声を掛けられた。平日の夜は一人客でも良いから、席を埋めたいのだろう。

それを無視して歩いていると、見慣れない立て看板が目に止まった。

“あなたの血を下さい”

無機質な明朝体で書かれた看板。右下に描かれているのは赤十字のマークだろうか。

その看板の側には献血用のバスが停車していた。

以前から献血には興味があった。持病は無く、貧血になったことも無い。至って健康だったし、興味本位ではあるが、それでも誰かの役に立つなら悪くないだろう。

だが、仕事中に体調を崩すのはまずいし、休日の外出中にする気にはなれなかった。

今年で36歳になった僕だが、独身の一人暮らしで、帰りを待つ者もいない。 
「まだ時間もあるし、今日なら良いかな」と呟いて、バスの乗車口まで歩を進めた。

バスの入口には、コスプレかアダルトビデオだけで見るような丈の短い白衣を着た、表情は無いが、誰が見ても美しいと感じるだろう女性が立っていた。スレンダーで背が高く、黒髪のロングヘアがよく似合う。

男は単純な生き物だ。目の前に綺麗な女性がいれば、それだけで機嫌が良くなり、格好をつけて見せる。

「献血の受付はこちらですか」
白衣の美女に尋ねた。
「ええ。中にお入り下さい」
愛想なく、女が言った。

中に進むと、ほとんど同じような印象の白衣の美女がいた。双子だろうか。こちらは受付担当のようだった。

「こちらに目を通して頂いて、サインを下さい。内容はしっかりご確認下さいね」
事務的に言って、A4サイズの紙が挟まれたバインダーと、黒のボールペンを手渡された。

用意されたイスに座り、渡された紙を確認した。それは誓約書だった。小さな文字でいろいろと書いてあったが、まともに目は通さずにサインをした。献血自体はどこでもやっているし、わざわざ血を分け与える者に、不利益なことなど書いてはいないだろうと考えたからだ。僕は普段から、家電製品の説明書だってろくに読みはしない。どちらかというと、平均的な男性よりもズボラな方だと言って違いないだろう。

「書き終わりました」と言ってバインダーとボールペンを差し出すと、便宜的な会釈をしてそれを受け取った。愛想は無いが、椅子に座ると太腿が丸出しになるようなミニ丈の白衣を着た美女に、僕は内心興奮していた。

「では、そちらに荷物を置いて、上着を脱いでカーテンの中にお入り下さい」
言葉は丁寧ながら冷淡に案内をされた。こういった献血自体が初めてだったから、とりあえず受付の女に言われるがまま、荷物を置き、上着をハンガーに掛け、カーテンの奥に進んで行った。

カーテンを開けると、今度は白衣を着た白髪の男性が立っていた。献血の担当だろうか。彼は笑顔だったが、どこかぎこちなく、目の奥は笑っていない。

「どうぞおかけ下さい」
抑揚無く、男が言った。
「はい」と返答して、僕はそこにあった椅子に腰掛けた。
「そちらの台に、袖を肘まで捲って左腕を置いて下さい」
どうやら一般的な献血と変わらないようだ。

そう思って腕を置くと、カチャッという音と共に左手首と、両足首が金具のような物で固定され、腰回りにもベルトが着けられた。右腕だけは自由だが、それも意味を成さないくらいに、ほとんど完全に拘束された。男は献血には不似合いな、太い注射器を手にしている。

「えっ、どういうことですか、これ」
平静を装いながら、僕は尋ねた。
「こうしないと逃げちゃう方もいらっしゃるので、仕方なく」
白衣の男がぎこちない笑顔のまま言った。
「だってこれ、ただの献血でしょう。ここまでしなくても、誰も逃げやしないでしょう」
言いながら、何か嫌な予感がして、ゾワッと鳥肌が立っていた。バスに乗る前から、そこはかとなく感じていた違和感。
「献血…ですか」
「えぇ、献血です」
「いえ、献血だなんて、どこにも書いていませんよ」
「えっ」

そう言われれば“献血”という言葉は、バスに乗る前からこの椅子に座るまでの間、一度も目にしていなかったかも知れない。“血”という言葉と“白いバス”の2つから、先入観で献血だと思い込んでしまっていた。

「じゃあ何なんですか、こんなことをして」
焦燥感は苛立ちになり、そして恐怖に変わり始めていた。
「こんなことって、何を仰ってるんですか。『血を下さい』と看板に書いてあったはずです」
確かに、間違いなくそう書いてあった。
「まぁ、献血するつもりでしたから、血を取るのは構わないけど。…何mlですか」
早いとこ済ませて帰りたい。
「全部です」
ぎこちない笑顔のまま、男が言った。
「は?」
僕は耳を疑った。
「全部です」
聞き間違いではないようだ。
「冗談ですよね。血液全部抜いたら死ぬことぐらい、わかりきってるじゃないですか」
「冗談ではありませんよ。誓約書にもちゃんと書いてあったでしょう」
「誓約書…」
ちゃんと読まずにサインをしてしまった。普段から契約書も説明書もまともに読まないことを、こんな形で後悔するとは思わなかった。
「サインしたからって、人を殺して良いわけがないだろう」
僕は強い口調で、当たり前の反論をした。
「それはあなた方の国の法律ですから、私たちには関係ありません」
あなた方の国?この男は何を言っているんだ。
「看板に私たちの国の国旗が描かれていたでしょう。このバス内は私たちの国なのです」

国旗?赤十字のマークだと思ったアレのことか。確かに僕は赤十字のマークなんて覚えてやしないが。…いったい夢でも見ているのだろうか。男の言っていることが、どんどん現実味を損なって行っている。

「全部抜いて…僕の血をどうするんだ。そのアンタらの国ってとこでも、輸血用の血液が不足しているのか」
「違いますよ。我が国では富裕層が『人血健康法』にハマっているのです。飲むと肌ツヤが良くなり、血液もサラサラになり、免疫力を高め、ダイエット効果もあるのだそうです」
なんだか健康食品の話でも聞いているようだった。だが今、男が話しているのは、人の血の効能だ。
「幼子であるほど高値が付くのですが、アナタくらいでも、それなりの値段で売れるのです」
「そんなことをして、バレないとでも思っているのか。日本の警察は優秀なんだ」
「ご存知ありませんか?この日本という国では、毎年8万人の行方不明者がいます。世界でも有数の平和国家である、日本でです。世界で言うと、考えられない数字になるのです」
何の話をされているのか、わけがわからなくなってきた。
「だから何なんだよ。俺もその一人になるってことかよ」
僕はいいかげん抑制が利かなくなり、大声で怒鳴っていた。ここまで人に怒りを露わにしたのは何年ぶりだっただろうか。
「仰る通りです」
僕の怒りの感情を無視し、男はそれだけを言った。僕は絶句した。もう何を言えば良いのかもわからなくなっていた。

「僕の抜け殻はどうするんだ。火葬にでもしてくれるってのか」
とりあえず口に出したが、自分が何を言っているのかも、よくわからない。
「いえ、血液の代替品を流し込んで、我が国で生きて頂きます」
「血液の…代替品?」
「えぇ。我が国で製造している人工血液を流し込めば、今より健康的に生きることが出来ますよ。待遇も、全て保証されます」
「待遇って…」
「富裕層がスポンサーですから、死ぬまでVIP待遇です。広い庭付きの邸宅に、奴隷も一人付きます」
奴隷をおまけみたいに言うな。

自分の現状の悲惨さと、VIP待遇という言葉を天秤に掛けて一瞬心が揺らいだけれど、やっぱりわけがわからない。これ以上話を聞いていると、頭がおかしくなりそうだ。

「お断りします」
僕は言葉を搾り出した。
「何故ですか」
「何故って…」
「死にたかったのではないのですか」
「えっ?」
「アナタが死にたいと思ったから、我々に依頼が来たのです。死にたいのではないのですか」
「死にたくなんかない…」
小さな声で、僕は言った。
「良く聞こえないですね。もう一度確認しますが、アナタは死にたいのですよね?」
「僕は死にたくなんかない!」
今度は大声で叫んだ。

確かに僕は、死にたいと思った。だけど、好きで死にたいなんて思ったわけじゃない。仕事もプライベートも、何もかもが上手く行かなくて、先が見えない恐怖から死にたいと思っただけだ。僕だって死にたくなんかない。もっと生きて、人生を楽しみたい。

「そうですか。承知致しました」
男が言った。
「承知…?どういうことだよ」
「アナタのように寿命を多く残したまま、自ら命を絶つ方がなかなか減らないんです。政治家と言われる者達はポーズとしての啓蒙活動しかしない。一部非営利の組織も活動しているようですが、上に立つ人間は損得勘定で考えるから、結局社会全体には浸透していません。営利組織であればなおさらです。我々の依頼主も、そんな状況にほとほと困り果てているのです」
「はぁ」
「アナタのように『本当は死にたくない』と思っているのに、一時の心の揺らぎで自死を選択する方を、一人でも減らすことが我々に課せられたミッションです」
「じゃあ…、僕は死なないで済むんですか」
「アナタがソレを望むなら」

男がそう言うと、状況を察したように受付の女がやって来て、僕は退出を促された。二人共、心なしか自然な笑顔だったような気がした。あるいはそれは、僕の勝手な思い違いなのかも知れないけれど。

外に出ると、バスに乗る前と変わらず、目に悪そうな色のネオンが煌々と光っていた。

ずいぶんと長い時間バスの中にいたような気がしていたが、腕時計を見ると30分くらいしか進んでいなかった。それでも体が緊張で強張っていたからか、疲労を感じ、しばらく呆然と立ち尽くした。

我に帰り、バスの方を振り向くと、そこにあったはずの看板もバスも、既に無くなっていた。まるで元々そんな物など無かったかのように。

そのまま家に帰り、眠りに就くまでの間、いろいろなことを考えた。仕事のこと、これからの生き方、そして彼らの言う依頼者とは誰なのか。思考を巡らせている内に睡魔に襲われ、次に気づいた時にはスマートフォンのアラームが鳴っていた。

職場に着き、部内の朝礼が終わった後、小沢に退職の意思を伝えた。歳下の上司は特に引き留めるでも無く「わかりました。部長に伝えておきます」と言い、「歳下なのに失礼なことも言ってしまったと思います。すみませんでした」と頭を下げた。そして「次行くとこ、もうちょっとマシな会社だと良いっすね」と言って苦笑いをした。もしかしたら、彼もこの会社の中で自分に課せられた役割を、彼なりに必死で演じていたのかも知れない。

来月から僕はまた無職になるが、久しぶりに、生きるということに前向きになれている。

あの日以来、僕の目の前に、あのバスが姿を現すことはない。

おしまい。

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