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あの頃、大きな背中 〜下北沢燻製レコード〜 【短編小説:約12,000字】

いつも通りのデートのはずだった。

「えっ、なんで?アタシ嫌だよ」
「彩、ごめん。でも、もう決めたんだ」
「決めたって何?勝手に決めないでよ。アタシの気持ちは関係ないの?」
「俺、彩と一緒に暮らすことが想像出来ないんだ。俺がそう思うのに、いつまでも別れずにいるなんて、お互いに幸せになれないだろ。彩の為でもあるんだよ。わかってくれ」
「ひどいよ、そんなの勝手過ぎるよ。ねぇ康介、直した方が良いところがあるなら言ってよ。アタシ頑張るから」
「ごめん、彩、もう無理なんだよ」

青天の霹靂とはこういうことを言うのか。なんて無理に冷静を取り繕おうとしても、溢れる涙は止まってくれない。とめどなく、決壊したダムのように、瞳から水が流れ続けた。

康介とは付き合って2年が過ぎたところだった。少し前に、2人のお気に入りのレストランでお祝いをしたばかり。大学の同期生で、アタシは証券会社、康介はIT企業で働く、お互い25歳の社会人。仕事にも慣れてきて、収入的にもそれなりに安定している。たまにはケンカもするけど、基本的に仲は良い。だからアタシは、このまま結婚するものだとばかり思っていた。そろそろプロポーズしてもらえるんじゃないかなんて。それなのに、まさかこれほど唐突に別れ話をされるとは。予兆は全く無かったはずだった。それとも、アタシが気づかなかっただけなのか。

それにしても、具体的にアタシの何が悪いとも言わずに、一緒に暮らす想像が出来ないだって。何よそれ。そんな理由、全く納得いかないけど、受け入れることなんて出来るわけがないけど、とにかくアタシはフラレたらしい。

失恋は初めてじゃあないが、やっぱり慣れることはない。いや、むしろ年齢的にも過去一キツい。

喪失感と絶望感に支配され、しばらく何もする気にならなかった。食欲も湧かなくて、一週間で体重が3kg落ちた。水分さえ摂っていれば死なないと聞いたから、とりあえずポカリスエットだけ飲んで過ごした。一緒に買ったカロリーメイトすら、口にする気になれない。仕事は休めないから気力を振り絞って出勤し続け、なんとか金曜日の業務をやり遂げて、やっと休みになった。

休みになったと言っても、起き上がることすら億劫だし、動く気力は湧かない。暇であるほど嫌なことばかり考えてしまう。ほんの少しだけど、死んじゃいたいなんて、思ってみたりもした。だって、何も良いことなんかありはしないのだから。

時間を確認する為にスマホを見ると、数件のLINE通知がポップアップされていた。

<恵美から話聞いた。今日、会えないかな>
シンプルな、文字だけのメッセージ。
送り主は、幼なじみの将太だ。

実家が隣同士で、幼稚園から高校までずっと同じ学校。家族ぐるみで仲が良かったから、プライベートもいつも一緒だった。お互い進学の為に上京してからも、しばらくは連絡を取って会っていた。頻繁に一緒にいるから周りは恋人だと思っていたらしくて、ただの幼なじみだと説明すると、その度に驚かれた。それぐらい近い関係だった。

だけど、康介は将太の存在を嫌がった。「自分がそれやられたら嫌じゃない?」そう言われた時、何も言葉が返せなかった。実際康介にそういう相手がいたら、アタシはずっと落ち着かないだろう。そうじゃなくても康介はモテるから、ライバルも多い。その日以来少しずつ、将太と連絡を取らなくなっていった。

恵美は大学で出会った一番仲の良い友人だ。将太のことも知っている。康介と別れたことは、真っ先に電話で話した。泣きながら、嗚咽しながら。「お願いだから死なないでね」なんて冗談めかして言ってたけれど、本気で心配してくれている。将太に伝えてくれたのも、その優しさからだろう。

その日の夜、渋谷で将太と会うことになった。

待ち合わせの15分前に着くと、既に将太は待っていた。直接会うのは2年ぶりだったけど、遠くからでも直ぐにわかる。身長は180cmをゆうに超え、柔道の有段者だから体型もガッチリだ。黒のスーツ姿で手を前に組み、ハチ公の前に立っている。その佇まいはまるで、ハチ公のSPだ。

「相変わらず早いねー」
気づかれないようにハチ公の裏側から回り込み、背後から耳元で、大きめの声で言った。
「わぁっ」
将太が大きな体を揺らしながら、全力で驚いた。
「そんなことじゃSPにはなれないぞ、君」
アタシが言うと、
「え、えすぴー?何だよそれ」
将太はただただ戸惑っていた。

ガタイは良いが、心霊現象的な類にはすこぶる弱い。目は垂れ気味で細いから、笑ったり困ったりすると、えべっさんのように柔和な顔になる。いや、くまのプーさんかも知れない。ハチ公を守るくまのプーさん、ウケる。そんなことを考えていたら、会わなかった2年間の空白が一瞬で埋まり、失恋で負った傷から垂れ流されていた血が、自然に止まったように思えた。そしたら、途端にお腹が空いてきた。

「ご飯…」と将太が言い切る前に「肉っ!」とアタシは宣言した。「じゃあ焼肉行こうか」と将太が言い、センター街に向かって歩き始めた。

店に入り、最初のオーダーを、渋谷らしい金髪の女性店員に伝えた。「生をお二つと、シーザーサラダと、三種盛りですね」と、愛想良く、元気に注文を繰り返してくれた。良い子だな。店員がいなくなると、将太は開口一番「大丈夫?」と言った。アタシの失恋を聞いて心配してくれているのだ。「大丈夫なわけないじゃん」と応えた。冗談めかして言ったつもりだったけど、その言葉と共に、堰き止めていたはずの涙が溢れて止まらなくなった。将太はアタシが泣き止むまで、ずっと黙って待ってくれていた。その間に、ビールの泡は、すっかり消えてしまった。

泣き止んだ後は、今はもう元カレになった康介の悪いところを、洗いざらい全部愚痴った。言うだけ言うと、今度はここ数日分の不足していた栄養を、一気に摂るべくひたすら食べた。そしてお酒もたくさん呑んで、あげくお酒に呑まれ、トイレに駆け込み、盛大に嘔吐した。最悪だ。

「なーにやってんだよぉ」
帰り道、渋谷の街でアタシをおぶって歩く将太が言った。意識はあるが、自力で歩行出来ないくらいに泥酔してしまった。
「ごめん。本当に申し訳ない。ただでさえ最近まともに食べれなかったのに、調子に乗り過ぎた」
おぶられたまま、将太に詫びる。詫びながら、スカートじゃなくて良かったなどと考えていた。それにしても、大きな背中だ。
「あーあ。また良い人探さなきゃなー」
二年分の想いだ。傷は深い。不意に思い出すと、泣きそうになるし、大きな大きな溜息が出る。

「大丈夫だよ、彩には俺がついてるから」

ちょうど大型トラックが通ったせいでハッキリ聞き取れなかったけど、たぶん将太はそう言った、と思う。いつだか同じ言葉を聞いたような気がしたが、アタシの思考回路はアルコールの影響でバグっていて、その記憶に辿り着くことは出来なかった。懐かしい記憶、懐かしい背中。

将太はそのままタクシーを拾い、家まで送ってくれた。

「ほんとごめん、ありがとう」
「お礼は良いからさ、とりあえず寝な。あ、ちゃんと着替えろよ。スキニーはさすがに寝心地悪いからな」
「うん、そうする」
マンションの玄関先でそんなやり取りをして、その日は別れた。ふらふらとベッドに向かい、結局スキニーのデニムのままベッドに潜り込んだ。

目を覚ますと、既に外は明るかった。カーテン越しに、光が射し込んでいる。枕元のケータイに手を伸ばす。11時を回ったところだ。体を起こすと、思いの外お酒は残っていないようだった。まだまだ若いな、アタシ。

とりあえずシャワーを浴びることにした。洗面所で服を脱ぎながら、将太の言うことを聞くべきだったと後悔した。下半身が疲れている。スキニーのせいか、お酒のせいか、いや、両方だろう。

シャワーを済ませ、食パンとバナナとコーヒーの簡単な食事を摂る。昨晩食べた物は、昨晩の内に全て出しきってしまった。

昨日までよりはだいぶ心が落ち着いたし、気分転換に外に出たいと思った。可愛い雑貨や服が見たいから、行き先は下北沢にした。

下北沢までは電車で30分程度。Spotifyで音楽を聴いている内に駅に着き、京王井の頭線を降りたのはお昼過ぎだった。

上京してからの数年で、再開発が始まった下北沢は少しずつ変化しているが、それでもあらゆるカルチャーと、それに携わる人々がごった煮になった、この街が好きだ。

お気に入りのショップを順に回っている内にお腹が空いてきた。迷うことなく、こちらもまたお気に入りの、カレー屋に入った。スパイスの利いたカレーが特徴の人気店で、時間によっては並ばないと入れないが、ちょうどランチタイムの後だったから、待たずに入ることが出来た。

パクチーをたっぷり乗せたスープカレーを堪能した後は、またショップ巡りを続ける。

ぶらぶらと歩いていると、道路の対面側に、見覚えのある男の背中が目に入った。隣には女性がいて、仲睦まじく肩を寄せ合い、手を繋いでいる。それが誰なのかは、すぐにわかった。男の方は康介で、隣の女は恵美だった。バレない程度に近づき、二人の話し声を聞いて、改めて確信した。

急に見つかるのが怖くなり、側にあったコンビニに逃げ込んだ。アタシは別に悪いことなんて何もしていないのに、アタシは被害者なのに、何故逃げなきゃならないのか。怒りと悲しみで、その場に倒れてこんでしまいたい気持ちになった。目の前の現実から逃げたい。恋人と親友を同時に失ったのだ。ここがコンビニじゃなければ、きっと泣き叫んでいただろう。嘘で有ってほしいけど、それを確認する気にはなれなかった。いや、これ以上悲しい現実を、知りたくなかった。

二人が遠くまで歩いて行ったのを確認してから、コンビニを出た。左手には、欲しくもなかったミネラルウォーター。

思考が定まらないまま、半ば放心状態で下北沢の街を歩いた。何もしたくない。もう帰ろうかなと思っていたら、スマホの通知音がバッグの中で鳴った。LINEの通知だ。まさか康介か恵美に気づかれていたのか。考えると身震いした。恐る恐る画面を見ると、送り主は将太だった。

<大丈夫、彩は絶対幸せになれるから。少し休んだら、また前に進もう>
絵文字の無い、シンプルで、真摯なメッセージ。

こんな時に、人が悲しみに打ちひしがれている時に、そんな前向きな、優しいこと言わないでよ。せっかく泣くの、我慢してたのに。

人目につかない場所に移動して、しばらく泣いた。将太のことを考えたら、我慢するのが馬鹿らしくなった。そして、会いたいと思った。あの細く垂れた目で笑う顔を見たかった。

なんだか急に疲れてしまったし、もう家に帰ろう。そう思って駅に向かって歩いていると、見慣れないお店が目に止まった。

『下北沢燻製レコード』

レトロな喫茶店のようにも映る外観の店の看板には、そう書いてあった。煉瓦造りの壁には蔦が這っている。こんなところに、こんな古びたレコード屋なんてあったっけ、と不思議に思ったが、なんとなく気になって、入ってみることにした。

重い木製のドアを開けると、カランコロンとカウベルが軽快な音を鳴らした。店の中に入ると、店の奥の方から飛んできた「まいどっ」という店主の声と共に、店内を漂う異様な匂いが鼻をつき、アタシは思わず顔をしかめた。
「おっ、お姉さん一見さんかい?こいつぁ燻製の匂いだよ。看板に書いてあったろ、燻製レコードって」
ピッシリと固めたオールバックに、大きめの黒いサングラスが特徴的な、初老の店主がそう言った。確かに書いてあったが、レコードを燻製にするなんて初めて聞いた。
「レコードを燻してやるとさ、その曲の持ってる味わいが引き出されるんだよ。燻し方によっても風味が変わるんだ」
なんだかまるで、食べ物の話を聞いているかのような感じ。
「ちょっと試しにこれ聴いてみな」
そう言って店主が流したのは、Carpentersの『Yesterday Once More』だった。同じジャケットのレコードを2枚用意し、交互にレコードプレーヤーにかける。それはとても奇妙な体験だった。流れているのは同じ曲なのに、カレンの歌声から伝わって来る印象が違って聴こえたのだ。一方は切なさが強く感じられ、もう一方はどこか前向きな気持ちになれるように心に響いた。
「どうだ、面白いだろう」
店主が自慢げに言った。
「不思議なもんでさ、燻製の方法とか環境とか、その時期の気候とか、それによって印象が違ってくる。同じ物を作ろうと思っても作れないんだ。簡単に言やぁ出たとこ勝負だから、名曲が台無しになっちまうこともあるんだけどな」
聞けば聞くほど音楽の話とは思えないが、店主の言っていることは嘘では無いのだろう。
「アタシ、今ちょっと落ち込んでて…」
恋人に突然フラれたことや、その元恋人が親友と手を繋いで歩いていたこと。将太のことも、店主に全部話した。何故初対面のおじさんにそんな話をしたのか、自分でもよくわからない。ただなんとなく、この人なら話しても良さそうだなと、そう感じたのだ。
「良いねぇ若いって。まぁ…フラれるのは辛いよな。でもさ、そうやっていろんな経験をしてさ、最後にやっとこさ、本当に大切なことに気づいたりするんだよ」
優しい口調だけど、店主の言葉は、私の心の奥の方に、しっかりと響いてくる。
「これ、お姉さんにオススメ」
店主がカウンターの中から取り出したのは、Cyndi Lauperの『THE GOONIES 'R' GOOD ENOUGH』。ずいぶん前に聴いたことがあったし、話を聞いてもらった義理もあるので買うことにした。
「いくらですか」
このお店の商品には、値札が一切見当たらない。
「そうだなぁ、勝手に俺がオススメしたのもあるから500円で良いよ。あ、高い?」
「いえ、全然高くないです。って言うか、そんなに安くて良いんですか」
「んー、このレコードはさ、お姉さんが来るのを待ってた気がするんだよ。そういう香りがするんだ。だから本当はタダでも良いんだけど、それじゃあ商売にならないからな。切り良くワンコインだ」
店主の言葉の意味は、正直なところピンと来なかったけど、このレコードは自分に必要な物のように感じた。買うべき物。それは、義理とかそういうことじゃなく、運命と宿命とか、何処か暗示めいた、そういう類の感覚だった。
「ありがとうございます」
「じゃあ、また来てくれよな」
そう言った店主の顔は、サングラスを掛けていても、優しい笑顔だと伝わってきた。

店を出ると、空は綺麗にグラデーションがかった橙色に染められていた。アタシは小走りで駅に向かった。一刻も早くレコードを聴きたいと思っていたから。そして、康介と恵美の姿を、もう二度と目にしたくなかったから。

家に着いた頃には、もう日が暮れていた。壁掛けの時計は6時を指している。

昼食が遅めだったから、まだお腹は空いていない。やかんでお湯を沸かし、インスタントの紅茶でミルクティーを作った。アタシの部屋には不似合いな古めかしいレコードプレーヤーは、上京する時に実家から持って来た物だ。実家でもしばらく使われておらず、オシャレなインテリアになるかなという安易な気持ちで、父から譲り受けた。東京に来てから実際に使った回数はたかが知れているが、飾り気の無い無機質な佇まいは、一人暮らしの女子部屋のアクセントとして(多少居心地の悪さも感じられたが)、しっかりと機能していた。

光沢のある漆黒の盤面に針を落とすと、スピーカーから音が流れ、燻製の香りと共に部屋に響き渡った。軽快なリズムと、シンディの耳心地の良い歌声。

目を瞑って聴く内に、脳裏に懐かしい情景が広がり始めた。この曲は、将太の家で、お父さんがよく聴いていた曲だ。親同士が仲が良かったこともあり、両親が共働きだったアタシは、将太の家に居させてもらうことも多かった。将太のお父さんは音楽が好きだったから、いつもリビングでレコードを流していて、必然的に耳にした、幼いアタシの心に染み付いていたのだろう。

『グーニーズ』は大好きだった。物語の細かい部分はよくわからなかったけど、非日常的な冒険のワクワク感と、悪ガキたちの活躍がキラキラと輝いて見えて、羨ましくて、憧れた。

あぁ、思い出した。あの時だ。

あの頃アタシは、小柄で体もあまり強くなくて、学校も普通の子より欠席することが多かった。そのくせ正義感とか負けん気だけは無駄に強くって、あれは小6の時、公園で中学生が小さい子に意地悪しているのを見つけたんだ。で、「やめなよ」って言いに行ったら逆に突き飛ばされて、後ろに転んで、悔しくて、悲しくて、大きな声で泣いた。そこに将太が現れて、中学生に向かって「やめろよ、年下いじめて楽しいのかよ」って怖い顔で言ったんだ。将太はその時、もう身長が170センチ近くあったから、中学生たちはビビって逃げてった。その頃には柔道もやってたんだけど、それでも内心はめちゃくちゃ怖かったって後で教えてくれて、なんだかそれがすごい嬉しかった。

尻餅をついたぐらいで怪我なんて全然無かったから「大丈夫だよ」って言ったのに、「良いから」と将太はアタシを軽々おぶって、その時に「大丈夫、彩には俺がついてるから」って言ってくれたんだった。アタシより30センチ以上背の高い、将太の大きな背中は、同い年とは思えない安心感だった。

こんなに大切な思い出を忘れるなんて、アタシはなんてバカなんだろう。本当に大バカ野郎だ。考えれば考えるほど、将太に会いたくなった。

レコードをひっくり返し、B面の『What A Thrill』を流す。心躍る、性急なビートのロックンロールだ。会いたい気持ちが加速する。

今になってようやくわかった。“幼なじみだから”なんて本当にどうでも良い理由で、ずっと将太への想いを、恋心を、意識的に遠ざけていた。せっかく東京に来たんだし、洗練された都会の男の人と並んで歩いてみたい。いろいろな場所へ行って、いろいろなお店に入って、いろいろな物に触れて、美味しい物を食べたい。ちっぽけでくだらない、だけどそれは実際的な憧れで、嘘の無い感情だし、絶対に必要な経験だったのだ。何故必要かって、それはきっと、将太に対する自分の想いに素直になるためだ。嘘つきな自分に「素直になれ」って言うためだ。自分が大バカ野郎だって、気づくためだ。

だけど、その前のめりな気持ちにブレーキをかけるように、恐怖心が湧いてくる。

今のは全部、アタシの一方的な気持ちだ。将太はどういう意味で「俺がついてる」と言ったんだろう。恋愛感情なのか、ただの幼なじみとしてなのか。そもそもアタシは康介を選択して、将太との連絡を2年間絶っていたのだ。そんなアタシが、フラレたばかりのアタシが急に好きだなんて、誰がどう考えたって身勝手この上無い。将太に「そんな女と付き合えるわけないだろ」なんて言われてしまったら、今のアタシはそれこそ全ての拠り所を失ってしまう。さっきまでの昂りが嘘みたいに、現実的な絶望と恐怖が心を支配し始めた。

「ダメだ!」

レコードが終わり、静まり返っていた部屋の中で、声に出して言った。

アタシ、また自分に嘘をつくところだった。こんなんじゃダメだ。

もう一度レコードをかけ直す。

やっと自分の答えに辿り着いたんだ。将太との思い出は大事な宝物で、でも、それを過去にしたくない。そんなの、絶対もう嫌だ。

だから、動け、アタシ。

将太に電話をかけようとスマホを手に取り、操作しようとした刹那、バイブレーションと共に、コール音が鳴った。将太だ。

なんだってアンタは人の心を読んでるかのように、毎度毎度先手を打って来るのよ。でも、不意打ちだったけど、覚悟はもう決まっている。

「もしもし、どうしたの?」
平静を取り繕って、アタシは言った。
「いや、LINEの返信無かったから、大丈夫かなと思って、心配で電話しちゃった。ごめん」
アタシ、やっぱりバカだ…。自分の感情でいっぱいいっぱいで、LINEの返信をすっかり忘れていた。って言うか、だからなんでアンタが謝るのよ。謝らないといけないの、アタシの方なのに。
「ごめん、忘れてた。本当にごめん。ねぇ、将太って、夜ご飯、もう食べた?」
「いや、これからだし、彩がまだなら一緒にどうかなと思って」
また先回りされてしまった。
「じゃあ昨日の埋め合わせさせて。今日はアタシがお金出すから」
「良いよそんなの。自分の分は自分で払うから。俺が会いたいだけだから」
普通なら、この言葉を告白と受け止めて良い気がするんだけど、将太は普段からこういうことを言うのだ。いや、もしかしたら、アタシはずっと告白されていたのか?それは都合良く考え過ぎか?
「俺、そっち行くから7時に駅で良い?」
「えっ!?あ、うん。わかった。駅で待ってる」
結局来てもらうことになってしまった。

化粧を直し、髪を整え、柑橘系のフレグランスを軽く振る。オフホワイトの膝丈ワンピースに、カーキ色のMA-1ジャケットを羽織り、靴は将太の背の高さに少しでも近づく為に、高さのあるキャラメル色のショートブーツを選んだ。わざとらしくなり過ぎない程度にオシャレをして、最寄りの荻窪駅に向かった。

駅に向かって歩く間、どのタイミングでどうやって気持ちを伝えようかと、そればかり考えていた。でも、全くイメージが湧かない。ずっと一緒に成長して来た将太と会うのに、昨日だって泥酔しておぶってもらっていたのに、なんでこんなにドキドキしているんだろう。感じたことのない不思議な感情だ。なんだかむず痒いし、地に足が着かないし。それでも不意に襲う、不安な気持ちを振り払いながら歩き、予定通り待ち合わせの10分前に駅に着いた。

階段を登り切り、改札の方を見ると、もう将太が待っていた。やはり遠くからでも、そして私服でもわかる存在感。しかし、電車に乗って来たはずなのに、何故アタシより早いんだろうか。

「ごめん、待った?って言うか、早過ぎない?将太って羽根生えてたっけ?」
浮足立った気持ちを紛らわす為に、軽い冗談を言ってみる。
「いや、電話しながら出る準備してたから。早く来ればその分早く会えるしね」
「…ありがとう」
気持ちは嬉しいんだけど、冗談を無視されるのは恥ずかしいからやめてもらいたい。
「彩、何か食べたいのある?」
いつも将太はアタシの希望を優先する。
「アタシ、行きたいお店があるんだけど、着いてきてくれる」
行く店はもう決めていた。
「え、うん、良いよ」
私が先導する形で歩き始めた。

向かったのは、荻窪駅北口にあるショッピングモール。その7階に目的のお店がある。

「えっ、ここで良いの?」
お店の前に着くと、意外そうに将太が言った。アタシには今日、ここじゃないとダメだった。

何処にでもある、安価なイタリアンのチェーン店だ。上京してすぐの頃は知り合いが将太しかいなかったから、よく二人でご飯を食べた。でも、お金に余裕は無いし、それ以上に、知らないお店に入る勇気が無かった。地方から出て来たばかりの二人が気兼ねなく入れるという意味で、チェーン店は絶対的な正義だったのだ。

あれから7年が経ち、東京の生活にもすっかり慣れた。同級生といろいろな場所に行き、先輩の男子や恋人には、自分では行けないようなお店にも連れて行ってもらった。初デートがチェーン店なんて嫌だ、とまでは思わないけど、オシャレなお店に連れて行ってもらうと、自分のランクまで上がった気がしていたのは間違いない。

それでもここが、アタシと将太の東京での原点だ。

待つ必要は無く、すぐに入店出来た。赤ワインのデカンタと二人分のドリンクバー、他にも各々食べたい物をオーダーシートに記入し、店員に渡した。
「久しぶりだなぁ、二人でここ来るの」
将太が言った。最後に二人で来たのは、もう5年以上前のことだ。
「うん。なんか、将太がこっち来るって聞いたら、ここが良いなって思ってさ」
「昔はこんなに好きな物頼めなかったよな。
彩はいつもドリアばっか食べてた気がするよ」
「だって本当にお金無かったもん。将太だってハンバーグばっかだったじゃん」
ほんの数年前なのに、昔だって。でも確かに、ずいぶん前のような感じがする。それぐらい、将太との間に距離が出来ていたのかも知れない。
「今日はお酒、ほどほどにな」
わざと真顔で将太が言った。
「わかってますー。さすがに二日連続で潰れる程は、若くない」
冗談めかして言ったけど、本当にずいぶん大人になったものだと、自分でも思う。ワインをコーラで割って、カリモーチョにして飲む。もう25歳だ。結婚して、子どもを産んだ同級生だっているのだから。

結局一時間ちょっと、その店で過ごした。食事をしながら、大半は最近観たドラマのこととか、仕事の愚痴とか、他愛のない話をした。ほろ酔いの状態でそんな話をしながらも、心の奥はずっと落ち着かなかった。

店を出て、太田黒公園に行くことにした。歩いて10分くらいの場所にあり、それほど大きな公園ではないが、秋は夜になると紅葉がライトアップされて、とても綺麗。想いを伝えるなら、ここしかない。そう考えながら歩いていた。

「ここ、相変わらず綺麗だな。都会だから、余計に綺麗に見えるのかな」
公園に入り、紅葉を見上げて感動している将太の顔を、アタシは見上げていた。厚底の靴を履いていても、30センチ近い身長差がある。改めて、将太は大っきいなって感じる。
「ねぇ、将太さ」
「ん?」
呼び掛けたアタシを将太が見下ろす。伝えるなら、今しかない。
「あの、あのね、ここの紅葉、本当綺麗だよね。来年もまた、一緒に来うよう。…なんちゃって」
何言ってんだ、アタシ。最低だ。将太と目を合わせた瞬間に、完全に逃げた。言えなかった。
「えっ!?」
「ごめん。嫌?」
今アタシは、上から包み込まれるように、将太に抱きしめられている。
「どうしたの?」
顔は見えないけど、大きな体が震えているのがわかった。泣いている。
「俺、もう嫌なんだ。自分の気持ちに嘘つきながら、彩の話聞くの。彩が他の男と一緒にいるのも、そいつらの話聞くのも。全部嫌だ。会うことも話すことも出来なくて、この2年間は本当に辛かった。だけどさ、そのおかげで、自分が彩のことを好きで、ずっと一緒にいたいんだって、彩じゃないとダメなんだって、やっと気づいたんだ」
そこまで言うと、将太は体を離し、向き直った。アタシの顔はもう、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「彩。俺、彩のことが好きだ。ずっと一緒いてほしい」
アタシはただ頷いた。しゃべろうとしても、涙のせいで言葉にならない。
「昨日彩をおぶった時にさ、なんか昔のこと思い出しちゃって。あの時からずっと俺、彩のことが好きだった。でもさ、彩はただの幼なじみだと思ってるかも知れないし、嫌われたくなくて、怖くて、本当の気持ち、ずっと仕舞い込んでたんだ。何年も前から。背中に彩を感じた時に、そういうのが全部溢れ出て来たって言うか…」
「ありがとう」
将太の言葉を遮って言った。これ以上、将太にばかり話させたら、アタシは卑怯者だ。
「アタシも同じだよ。やっぱり将太じゃなきゃダメなんだって、やっとわかったの。今まで気づかなくてごめんなさい。こんなにバカで、ダメダメなアタシで良いなら、ずっと、ずーっと側にいて、アタシを守ってください」
「うん。そうさせてほしい」

周りを見物客が行き交う中で、アタシたちはキスをした。将太は少し屈んで、アタシは少し背伸びをして。今だけは、誰に何を思われようと、どうでも良かった。将太が側にいてくれたら、アタシは無敵だ。

翌週の土曜日、将太を連れて下北沢に来ていた。目的は、燻製レコードの店主に礼を言う為だ。

「行きたい店ってどこ?」
「まぁまぁ、着いて来てよ」
アタシに手を引かれて歩く将太には、まだ何も教えていない。教えてしまうと、何かが失われてしまいそうな気がしたから。

しかし、どれだけ歩いても、店が見当たらない。場所はわかっていたはずだが、あるはずの場所には別のお店があって、記憶違いかと思って歩き回ったけれど、やっぱり無い。その場所にあったのは、若者向けの輸入雑貨店だった。
「ここ?」
「うん、そう」
本当は違うけど、嘘をついた。

店内を見て歩いていると、一つの商品が目にとまった。それは、グーニーズのタイトルをモチーフにしたキーホルダーだ。
「これが欲しかったの?」
将太は訝しげな顔をしている。
「だって懐かしくない?将太の家で一緒に観たの、覚えてるでしょ」
「あー、覚えてるよ。確かに懐かしいな。彩、グーニーズ観てる時、目を爛々と輝かせてたもん」
「そうなの。憧れだったんだ、あの世界が」
「じゃあ、このキーホルダーは俺が買うよ」
「え、なんでなんで。自分で買うよ、安いし」
「彩と俺の思い出の映画だからさ、付き合って初めてのプレゼントに良いだろ。サプライズ感は全く無いけどね」
将太はそう言うと、同じキーホルダーを二つ手に取った。
「お揃いな」
なんだか将太の方が嬉しそうにしている。
「うん。ねぇ、良かったらさ、帰りにグーニーズ借りて、ウチで観ない?」
「良いね。俺もなんか観たくなってきた」

会計を済ませて店を出ようとした時、燻製レコードの店主に見送られている感じがした。「また来てくれよな」って。

その後もしばらく下北沢の街をぶらぶらしたけれど、やっぱりあの店は見当たらなかった。

「また来てって言ったくせに」
「え?何か言った?」
「うんうん。ねぇ、将太さ、あの日、アタシをおぶってくれた日、なんて言ったの?」
「さーね、なんか言ったっけ」

惚けて空を見上げる将太の表情は、私には高過ぎて見えなかった。

end

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