海色に染まれ
海と一緒に育ってきた。
育つといっても毎日サーフィンをしていたわけではないし、ましてやそんな経験なんて微塵もないから、この表現が適切かどうかは分からない。
けれども通っていた中学校は海の目の前で、海抜数メートルの場所にあった。一年生のときなんかは四階に教室があったから、教室の窓から海が見渡せた。
晴れた日には海が太陽の日差しを受けて鮮やかな薄群青色に光がキラキラと輝き、空の青と海の青の境目が分からなくなって飲み込まれそうだった。
雨の日には波が荒れた。少し黒っぽくなって、遠くまで海を見渡すことはできなかった。
今思えば僕の青春時代もこの海と同様、楽しくきらめく日もあれば、進路や人間関係のトラブルといった行く先が不安な日もあった。海はそう考えれば天候に左右される非常に不安定なものだけど、やはり青春というのも不安定なものであるように感じる。
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中学生のとき、僕には親友がいた。
彼は心優しき青年で、成績もそこそこ優秀、おまけに顔までイケメンでギャグのセンスも高かった。
そんなありとあらゆる才能を持ち合わせる彼が大好きだった。彼と一緒にいるときは時間を忘れられた。帰り道は家が全く別の方向なのに、彼と話したくていつも遠回りをして下校した。
授業と授業の間の休み時間、僕らはキラキラと光る薄群青色の海をベランダで眺めながら、毎時間たわいもない話をするのが日課だった。
ベランダに出るのは危ないから禁止で、担任の先生には何度も怒られたのだが、先生の目を盗んではベランダに出ていた。先生に怒られるのは嬉しくも楽しくもない。その担任も好きな先生だったし。だけど、彼と一緒に怒られるのは何故か別だった。楽しいという感情はないのだけれど、二人でいる時間はキラキラ輝く海みたいに無敵だった。
ある日、そんな大切な彼を傷つけてしまった。
僕が彼に何て言ったのかは忘れた。だけど、きっと何でもできる彼への嫉妬だっただろう。もしくは何でも言い合える仲になったから、言葉を選ばずストレートに何かを伝えたからか。
いずれにせよ僕は彼と喧嘩をした。初めて口を聞かない日々が続いたのだ。
休み時間、僕は窓越しに海を見ようとするが、その海は光り輝いていない。光っているのかもしれないけれど、それはギラギラとした輝きだっただろう。ふと彼を見る。彼は所属する部活の人たちと仲良さげに話していた。一緒にベランダに出たことが嘘みたいだったし、よどんだ海を一人で見るのも何か違う。
僕は彼という人を失って美しい海が見られなくなってしまった。そしてその海を見ようともしなかった。友達は他にもいたけれど、毎日がよどんでいった。
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「憂鬱だなあ。」
クラスメイトが皆、口をそろえて言う。
僕が通っていた中学校には「海岸マラソン」という伝統文化なるものが月に一回行われる。目の前が海であることをいいことに、足場の悪い砂浜を二キロくらい走らせるのだ。
足腰を鍛えるのか、精神を鍛えるのか、目的は定かではない。しかし目的云々、体育の成績に加算されるからしっかり走らなくてはならなかった。
駆けっこは得意ではなかったし、長距離を走ることはむしろ苦手であったからいつも憂鬱な気持ちになる。
「海なんてなければいいのに。」
そう思っていた。そうはいっても走らなければなるまい。それが海岸マラソン。
校庭で準備体操をしてから全学年で海へと向かう。所定の位置に着いたら、体育教師がスターターピストルを天高く突き上げ、大きな音を鳴らす。全学年の男子が一斉にスタートした。
海岸マラソンは足が砂にとられて思うように進まない。だからこのマラソンを何回かすると、効率的な走り方を分析するようになるのだ。
前の人が駆けた足跡の上を走ったり、岩がごつごつしている場所をあえて走ったり。
僕はこの工夫を凝らした効率的な走り方をして望んでいた。そんな走り方をするものだから、フォームは全傾し、どこかぎこちない走り方になる。周りを見渡してそんな走り方をする人は「殆ど」いない。
だが、一人だけ僕と同じように前の人が蹴った砂浜をたどるようにして走る青年の姿があった。口を聞かなくなった彼だった。
思えばそんな効率的な走り方を見出したのは僕たちであった。
彼は何でもできる万能人だったが、唯一長距離のマラソンが苦手だった。短距離はすこぶる速く走るのだが、その分長距離は得意としなかったようだ。だから彼と僕はお互いマラソン苦手同士であり、気づけば同じくらいのペースで並走していた。
このまま口を聞かずにゴールしていいものなのだろうか。
彼を失って色めきが無くなった日常生活。
僕は彼に何と声を掛ければいいのか、ただそれだけを考えながら、作業的に全走者の足跡を辿る。
折り返し地点を過ぎ、全走者の足跡から逸脱して海岸付近を走る彼の方へ近寄った。
「ごめん。」
僕の口から出てきたのは息切れと端的な謝罪文だった。それ以上でもそれ以下でもない。
彼も僕に謝ってきた。「こちらこそごめんね」そんな具合だった。
僕らはその後何も言わずに並走した。辛い最後のラストスパートまでずっと一緒だった。体力的にはお互い最高潮に疲労を感じていたが、何故だか走ることがとても楽しかった。
ゴールした後、僕らは疲れ切ってゴール付近の砂浜で仰向けになって寝転んだ。
青い空。海の潮の香り。僕と彼の息を切らした声。さざなみの音。高鳴る鼓動。その全てを覚えている。
海が輝きを取り戻した瞬間だった。
その海岸マラソンから程なくして、四階のベランダは施錠されてもう出ることができなくなってしまった。けれども、また彼とのたわいもない会話をするときには窓越しに美しい海を眺めた。
きらめき、色めきを取り戻した僕たちの春は、海の色に青く染まっていったのだ。
「押すなよ!理論」に則って、ここでは「サポートするな!」と記述します。履き違えないでくださいね!!!!