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"学がない” という恥をさらす


1977年、私は人口200万人都市である名古屋市で生まれました。
父はいわゆる集団就職の時代に長崎県大村から名古屋に上京した人です。
私は3人兄弟の末っ子で1番上の姉とは8歳離れていて、父が上京した頃の記憶はありませんが、仕送りを毎月10万円(ほぼ全給料)送っていたと聞いたことがあります。
そういう時代だったんですねー

中学生まで住んでた市営住宅は今思い出すと結構すごいとこで、
真ん中に広場と管理棟があって、それを囲むように13階建ての建物が10棟!そびえ立っていて、私達家族は7棟の602号室に住んでいました。
1階部分には20世帯が住んでいたから、
20世帯×13階=260世帯×10棟=2600世帯
家族向けの市営住宅には平均で1部屋3人は住んでるとして、
2600世帯×3人=合計7800人
7800人の高密度な社会はというと、
土曜の昼は肉屋のハムカツ、
"私のこと好きな子は誰ですか?"ってこっくりさんに聞いたら、4階で亡くなった子の名をコインで指し示した…それ以来4階には行けなくなった、エレベーター使って子ども天井スレスレになりながら廃品回収してた、
雪の日の集団登校(めちゃめちゃ集団)は歩道橋降りるの怖かった、
自動販売機に怖い人たむろしてたからおつかい怖かった、
醤油切れると隣からもらってきてた、
Gが6階まで上がってきたって話題になってた、
網戸なしでドア開けて寝てた、
3畳部屋に勉強机が3つ並んでて、わたしは勉強机使った記憶はないけど、姉の引き出し開けると500円玉が乱雑に入ってた、兄の机は大人買いのうまい棒が沢山あった。

雑多すぎる!

汚れた?社会で揉まれ揉みくちゃにされて育った名古屋市南区時代が私の根っこです。
だから今周りの人達がほんと美しい人と思っています。

1980年代後半、夢のマイホーム時代
父が立ち上げた鉄工所もバブルの波に乗り、揉みくちゃの低所得者向けの市営住宅からでていくことになり、緑区という街の新興住宅地に引っ越しました。
そこでよく耳にしたのは、元々ここはゴミ処理場であの公園はゴミを埋め立てて造られたのよーって。
その時は、階段キツイから行きたくない公園ってだけで深く考えてなかったけど…
燃えないゴミの山〜埋め立て
ここ有田にもあるけどなんか考えさせられるよね…
未来のこども達に残したくない遺産。
話が逸れましたが、
お陰で高密度なあの市営住宅から逃れ、比べればとても長閑な町で中学から結婚するまでを過ごしました。

学がない話に戻すと、
こども達の宿題を見ていて、私には小3までの記憶しか残ってないって気づきました。
きっと小3年までしか勉強してない…
中学の頃の記憶は駄菓子屋、公園、学校まで遠かった、違うクラスに友達がいた…
勉強した記憶がない…

いつの間にかみんな高校の話になっていて、進路というものを考えたことがない私には何故高校に行かなければならないのか分からなかった…
でも15才の私は周りに流された。
偏差値いくつだったんだろうかー、記憶ないけど選べるはずもなく私立の推薦を受けることにした。
(私立の推薦??何それ?と娘が顔を歪める)

さぁ高校生活の始まり〜
まずは自転車で最寄り駅まで、
ズラーっと自転車が並ぶ最後尾に停め駅まで5分走る、満員電車吊り革なしで15分間耐えた後は、バスに乗り換え20分程揺られ、10分歩いて学校到着。
サラリーマンみたい。

高校時代の記憶はほぼない、先生が滑稽に見えたこと、つまらなかったこと、バイト沢山したこと、1人でパン齧ってたこと。
そして、また進路。
私も少しは学んで、何かにならなければならないから、その何かを必死で探した。
服飾もいいなーと思ったけど彼氏にその選択はダサいと言われ、インテリア科に進路を決めた。
18歳やそこらってこんなもんだよねー
進路をエディトリアルデザイナーと選択している中学生の娘に私から言えることは何もない訳です。

1990年代バブル崩壊、
父の鉄工所も下火になり、
インテリアの勉強をしたいと言っても、
私立に通った娘の言葉に説得力はなく、専門学校3年間のとても高い授業料出してくれるはずもなく…

こういう時はムキになるもので、バイトしながら学校通う!強い意志を見せ銀行にお金を借りてもらった。
専門学校の記憶は、毎日バイト、おしゃれ、友達の大学、コンビニフランスパンを路地裏で1人齧ってたこと。
そして、
単位を取る意味がまた分からず、卒業証書もらえなかったこと。
就職斡旋してもらうために単位とる…
そこに興味なかった…
人が決めたレールをずっと避けてたんだなーと今は思う、だから社会の常識を全く知らない…
でも社会経験は豊富だ!
以前今までしてきた仕事を数えたら60ありました。
高校生
①スーパーマーケットが初バイト!
イラスト付きの棚卸しを渡したら店長激怒!
②駅地下の喫茶店
ここは閉店後カトラリーの数数えてた
③ビートルズの曲がカッコいいと思えなかったびっくりドンキー
④有線で演歌は絶対流さない弁当屋…

専門学校の時は
⑤近所の寿司屋
息子さんが亡くなってからは大将の軽トラの助手席にはいつも柴犬が乗っていた。
⑥カラオケを唱えと客に言われても絶対応じなかった小料理屋
⑦マネキンに服着せる時肩外れそうで怖かったディスプレイの仕事
⑧歩合性の移動パン屋は売上トップ
⑨かっこつけるのが苦痛だったBAR
⑩背伸びしたコンパニオン、当時は斬新だった女警備員、テリトリー無視して励んだティッシュ配りその後も色々した。
その時の私は好きなことをするためにお金が必要だった。

そして彼氏が(旦那さん)カリフォルニアへ行くと言うので、結婚して名古屋を離れました。

カリフォルニア滞在6年、
いわゆるカルチャーショック経験を沢山させてもらいました。
仕事は、
スケジュール帳びっしりの人気ベビーシッター
何故か日本語が片言話せるオーナーがいるタイレストラン、ロクロまで買って陶芸家
最後は究極のカレーが完成したので、宅配カレー屋"Timer Curry"をオープンした。
インド人から、こがんインドカレーじゃなかばいって言われた記憶残る。

娘が1歳半の時帰国。
夫の故郷佐賀市に住むことに。
この土地で "心美しい人になりたい" と思った。

何のために半生を振り返ってみたかというと、
学はいらないということ。

胸を張って言う、
好きなことをしたいという意思があり、
勉強したくないという意思が私にはあった。
そして学のない私の人生…いつも楽しい。

我が子にエールを送りたいから、
自分の恥をさらそうではないか〜

何かにならなくてもいいよ。
幸せになる道を選び続ければいいだけ。
学がないけど、デタラメだけど、
今の私は完璧でサイコーです!

最後に、
あなた達を誇りに想っています。

母より


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