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プリズンサークル

もう、半年以上前だろうか、映画「プリズンサークル」を観てきた。子どもを預けて観に行かせてもらって、本当に良かった。
冒頭、受刑者の声に胸が詰まった。「詐欺」「傷害致死」「強盗傷害」を犯した若者と聞いて想像するそれとはまるで違う。とても「普通」なのだ。職場にいる若手職員やカフェで談笑する男子大学生の話しぶりと何ら変わらない。むしろより明瞭で、語彙が豊富とも思える。どうして、こういう人が受刑者になってしまったのか。
映画が進むうちに、彼らの過酷な育ちが明かされる。虐待、いじめ。ときに面倒でときに退屈な普通の家庭が、そこにはない。ごはんが出てこない、目があったら殴られる、そもそも家族の記憶がない。ある受刑者の4、5歳の頃の話は特に印象的だった。昼夜働くお母さんと遊びたくて家事を終わらせておく。帰宅したお母さんは褒めてくれるが、疲れているので寝てしまい、いつも遊んでくれない。彼らはそういうことをとても淡々と話す。悲しみ、つらさ、不満、怒りといった感情があふれるようなことはない。それが当たり前で、生きる力を温存するために、感情を動かさなくなったようだった。彼らの罪の意識が希薄なのも、致し方ないと思える。受刑者の一人である真人は、「窃盗は何が悪いのか分からない。」と繰り返す。純粋にそう思っていることが分かる口ぶりで、真人の境遇を思うといとおしくなりさえする。彼はいつもお腹を空かせていて、食べるものがあれば手に取って食べるのは当たり前だったのだ。(サークル対話の中で、年上と思しき受刑者が親身になって真人にアドバイスするのが何だか可笑しかった。)そういう人たちは、「相手の立場になって考えなさい。」と諭すだけで更生はしないだろう。だって、自分の立場を思いやられた経験がないのだから。
加害経験や被害経験を話したり、実際の事件でロールプレイをしたりする中で、彼らは初めて自分が起こした事件の被害者の気持ちに思い至る。月並みだけれど、人は、優しくされなければ優しくできないのだと思う。
「ぎゅっとされたくないですか?大人なのに恥ずかしいんですけど…。」「他の人は家でそうされてくるんだなあ。」という受刑者の言葉が、とても重かった。彼は絶対に手に入らないものを追い求めている。そして、刑期を終えた後も、生きていかなければならない。

大好きなおばあちゃんに預けられた娘は、とても楽しい時間を過ごしたようで、連休明け、少しだけ行き渋った。習い事も忙しくしているし、少し疲れているかもしれない。だから明日は幼稚園を早退して、梅見に出かけることにした。今日は幼稚園でどんな遊びをするかで揉めたらしい。私に似て気が強く、なかなか譲れない娘だが、今日は譲ったとのこと。「だって明日いい日だからさ、まあいっかって思えたんだよね。」
やっぱり、自分に余裕があるからこそ人にやさしくできるんだよねえ。
私たちは完璧な親ではないし、娘がどういう大人になるかは分からない。でも、映画の受刑者たちの育ちと娘たちのそれが違うことは確かだ。そして、育ちは選べない。受刑者の親たちだってきっと、優しくされてこなかったから優しくできなかった。昼夜働いている母親が帰宅して眠り込むのを責めることはできない。どの家庭に生まれた子も、せめて空腹は満たされなくてはいけない。せめて暴力にさらされてはいけない。それを保障しなければならない。そう、わたしたちは、お互いが人間であるということを決して忘れてはならないのだ。それは大人も子どもも一緒だ。

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