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借り物ではない信念|『みかづき』

森絵都
集英社 (2016年9月5日発行)


 教育とは。読み進めていく中でこのどストレートな主題が常に傍にあり、自分のこれまでと将来の自分の子孫について、深く考えさせられる600項だった。

 これまでの26年間の人生を振り返って思うに、教育とは2つの側面を持っているような気がする。
 1つは、教育は自分の道を切り拓く際の道具となるということ。良くも悪くも学歴至上の考え方が今も蔓延る日本社会では高等な教育を享受すればするほど、自由で、そして生き方のオプションが多いように思えてしまうのだ。もちろん例外もあるのは確かだが、私自身も早稲田大学を卒業、スタンフォード大などアメリカの大学での1年留学を経験しているか否かでは、就職活動中や、将来を想って第二の人生を考える時に感じる自分の可能性への制限に違いがあったのではないかと思う。
 もう1つの側面は、心を豊かにしてくれるということ。生活の中の身の回りにあるものをより身近に感じられたり、人の心や胸の痛みを考えるきっかけを得たり、受験やテストと言った本来の目的とは別のところで、思ってもみない発見や成長が生まれたりするのである。

 もちろん、教育とは「勉強」だけを指しているのではない。一般教養を学ぶことや、常識を弁えることも含まれるだろうし、そもそも教育とは「学校で学ぶこと」だけではなく、常に人に与え、人から与えられるものなのである。

 教育とはの主題を掲げながら、この一族三代にわたる物語を綴った超大作を読み終えたわたしは、この結論に至った。
 
 教育とは、学び、より良くすることである。

 そして教育とは、不思議なもので、一見何かを教えている方から教わっている方へと矢印が向いているように見えるのだが、教えている方が学ぶことも多分にあるだろうし、一方的に誰かに与えたり、知らぬ間に失ったりするようなものでも決してないのだ。
 目に見えないもの。だからこそ考える機会が少なく、無償で受けた教育に対してなかなかありがたみを感じたり、貴重なものだと思えたりしないのではないだろうか。

 冒頭でも述べた通り、自分に子供ができたとき、どんな風に教育をしたいか。何を学ばせ、どんな人生を願うか。それを真剣に考えるいいきっかけを与えてくれた本でもあった。
 おそらくこの先親になって初めて、何不自由なく、学びたいことを学びたいだけ学ばせてくれた両親へ、本当の意味での感謝が芽生えるのだろう。それと同時に、そうして初めて、与えてもらうばかりで何一つ恩返しができていないと感じる自分に、温かい言葉をかけてあげられるのだろう。

 わたしはまだまだ26歳。義務教育からとっくにはみ出したとはいえ、出会う人々やあらゆる事象から、確かな何かを学び取り、自分の存在が誰かにとって学びであればいいと願う。
 教育とは、学び、より良くなるためのもの。

 病床に伏す千明は言った。
 「常に何かが欠けている三日月。教育も自分同様、そのようなものなのであるのかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積むのかもしれない、と。」
 千明や吾郎、蕗子や蘭、そして一郎のように「借りものではない自分自身の信念」を持つ人間がキラキラと眩しい作品だった。

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