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「太宰治はエンターテイナーなんだよ」

「桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。」

この一文で始まる「葉桜と魔笛」は、私の一番好きな太宰治作品だ。

中学校の国語の先生の影響で太宰治に興味を持った。
高校に上がって、配られた国語の教科書をかたっぱしから読んでいると、そこには初めて見る太宰治の「葉桜と魔笛」が掲載されていた。

作品の醍醐味は読んだときの展開の驚きにあるので、あえてあらすじは書かないが、青空文庫のリンクを貼っておく。『葉桜と魔笛

読んで衝撃を受けた私は、すぐに国語の先生と話をした。

「先生、この作品めちゃくちゃ面白かったです」
私が先生にそう伝えると、先生は、
「そうでしょ。あれ面白いでしょ。太宰治はエンターテイナーなんだよ」
と言った。

「『人間失格』みたいな作品を書いているけど、全盛期には『走れメロス』のような作品も書いている。あれを読むと分かる。彼は生粋のエンターテイナーなんだ。死に方もね

「彼は意図してこういう『どんでん返し』の作品を書いているんだ。大した作家だよ」

私は先生と話したそのときのことがいまだに忘れられない。太宰治をただのメンヘラだと思っている人にはぜひこの「葉桜と魔笛」を読んでみてほしいと思う。きっと彼の評価が変わるはずだ。

ちなみに、私が通う大学の教授(ベテラン編集者)も、太宰治を絶賛していた。彼が絶賛していたのは戦争期に書かれたいくつかの作品で、特に「待つ」だ。

「待つ」は、裁縫が好きな気弱な少女が、何を待っているのかわからないがひたすらに駅前で何かを待っているという短編小説。『待つ

教授はこれを「戦争文学だ」と言っていた。
しかし、作中に戦争の影はあまり出てこない。唯一明記されているのは、

けれども、いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひどく緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも落ちつかなくなりました。

この部分だ。つまり教授は、この作品は「家で裁縫をしているような気弱な女の子が、駅前で何かを待って、ひたすらに待っていることで、みんなが戦争に協力している世の中で『頑張っている』という気持ちになってしまうくらい、戦争というのはすさまじいものだったということを表現している」というのだ。

私はもしそれが太宰治の意図したところであったなら、作家としてトップレベルの実力を持った素晴らしい作家だと思う。

この教授も太宰治のことを「大した作家」だと話していた。「戦争中に作家らしい作家をしていたのは太宰治だけだよ」と大絶賛していた。

太宰治は、現代人の中で今も生き続けている。作品は読み継がれ、当時目の敵にしていた作家よりも大衆に読まれている、と思う。

今、生きていたら、どんなことを考えているだろう。どんなことを言うだろう。もしかすると、ちょっと、いやだいぶ、得意になっているかもしれない。

このように葉桜のころになれば、私は、必ず思い出す。太宰治というエンターテイナーが、この世で私とすれ違うようにして生きていたことを。

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