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バックパッカーの贈与論


中沢新一の『カイエ・ソバージュ』がめちゃめちゃ面白い。

三巻の『愛と経済のロゴス』では、贈与論を軸に神・国家・経済について語られているんだけど、この本を読みながら私はしきりに、数年前に旅したインドやイラン、シルクロードで出会った人たちを思い出してしまった。

そして、私が海外旅行のときに感じていた豊かさや戸惑いの大体は、この贈与論をめぐるものだったのだと気付いた。ので、そのことについて書いてみる。



1.コミュニケーションの二つの型――「贈与」と「交換」


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古くから人間は、「贈与」によって人間関係やコミュニティのつながりを保ってきた。贈与は、贈り物に感情や人格が結びついている。贈与において大切なのはモノそのものではなくて、モノを媒介に動く、愛や信頼や威信、あるいは力関係といった不定形の何かだ。贈り物をすることは自分自身を与えることであり、贈り物を受け取ることは他者を受け入れることに他ならない。贈与には「贈られたら返礼をしなければならない、ただし即座に返すのは失礼なのである程度時間が経ってから」という暗黙のルールがあり、人間関係を長期的に構築する働きをしている。

一方、我々の経済というのは基本的に「交換」の原理で動いている。モノ・サービスの交換はお金を払うことで即座に完了するし、お金によって価値ははっきりと数値化される。お金を払っているんだから、サービスにことさらに感謝したり後ろめたいと思ったりする必要はない。経済は、人のやりとりにお金を介在させることで、モノ・サービスから人格や感情を切り離している。いちいちモノを買うのに思いやりや優しさが必要だったら疲れるからね。交換は感情コストがかからないから、わかりやすくて楽なのだ。

もちろんこの社会にも贈与は生きている。交換と贈与は注意深く区別されねばならない。プレゼントを渡す時、値札のシールをはがしたり、ラッピングしたり、手紙を添えてみたりするのはそのためだ。

このように、人間のコミュニケーションの原型は贈与であり、交換はそのなかから生まれてきた仕組みだ。贈与と交換は接しあっているのだが、我々の社会では両者にかなり距離がある。我々は感情コストのかからない交換のモードに慣れきっている。

ところで私はインドや中東、アフリカと言ったごみごみした地域を一人で旅行するのが好きだ。好きなんだけど、そういう場所ではいちいちのやりとりに非常に疲れる。外国人旅行者と見てぼったくってくるタクシー運転手とバトったり、バザールでいちいち価格交渉をしたり、物乞いに付き纏われたり、現地の人からちょっと暑苦しいくらいの大歓待を受けたり。
そのめんどくささのほとんどは、実は贈与と交換の原理をめぐるものだったのだ。こういう地域では貨幣経済のふところに贈与が抱えこまれていて、交換モードに慣れきっている我々はそこに強烈な違和感を覚えるのだ。



2.バザールの面倒くささ


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バザールの人混みを歩くのが好きだ。路面店が所狭しと並んでいて、大量の青果や日用品や、これは誰が買うの? と思うガラクタがうずたかく積まれている。狭い通りを、商品をのせた台車がゆっくり通る。商品の名前をひたすら連呼する声、店主と客がのんびり価格交渉をしている声に囲まれて、私も夕飯のおかずや、お土産になりそうな小物を物色する。

バザールには値札がないことも多いから、いちいち価格交渉が必要になる。外国人だからと足元を見てぼったくろうとする奴もいるし、「いくら?」と聞くと「いくらがいい?」とかいう謎の返しをしてくる人もいたり、結構めんどくさい。値切りすぎて険悪になることもあるし、逆に雑談をして愛嬌のある奴だと思われればけっこうまけてくれる。とにかく、大した値段でもない商品を買うのにいちいち感情コストがかかる。

つまりバザールは、値札がないことで等価交換の思考が曖昧にボカされ、人格や感情が入り込んでいる

例えば偉そうなツーリストからは多少ふんだくり、代わりに貧しい身なりの人や、いつもお使い来る子供にはおまけしてあげる。そんな感情による価値のゆらぎが許される深さがある。いわゆる”途上国”の日常的な経済には、贈与が濃厚に入り込んでいるのだ。


2.物乞いにお金をあげる?


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物乞いに絡まれると、大抵の日本人は非常に抵抗感を感じる。物乞いと自分のあまりの経済格差への驚き、哀れみ、物乞いの厚かましさやしつこさに対する不快感。お金を与えるにも、与えず素通りするにも心が疲れる。一方で現地の人は、「仕方ないな」という感じで特にストレスなく施しをしている印象を受ける。この違いはなんなのだろう。

我々が慣れきっている「交換」のモードでは、お金を渡したら、なんらかの対価を即時に受け取ることのが普通だ。物乞いが自分のために何かしてくれるわけではないのだから、一方的にお金を与える理由はない、と思う。もし与えるとしたら、それはお金ではなくて贈り物であるべきだ。お金という無機質なモノを物乞いに一方的に与えることは、与えないことよりも何か不自然で失礼なことのような気がする。だから大抵私たちは物乞いの声を「キリがないから」とかいう理由づけでシャットアウトして、彼らと何も関係を結ばないことを選ぶ。

現地の人が物乞いに自然にお金を渡すのは、単に物乞いに慣れているからだろうし、宗教的な「喜捨」の考えがあるのだろう。だがそれ以外にも、彼らにとって「交換」と「贈与」は区別が曖昧だから、あくまで「贈与」として物乞いにお金を与えることができるのではないか、とも思う。



3.贈与は循環する


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(この写真はタジキスタンの家族の家に招いてもらった時の写真。左にいる男の子が韓国に留学している大学生で、右にいるのがその教授。教授を連れて帰省したらしい。)

旅行をしていると親切な人に助けられることが多くて、時には受け取れないくらいの歓待を受ける。特にイランでの歓待はすごくて、道を歩いているとすぐ話しかけられてお茶を奢られ、タクシーに相乗りしたら他の乗客が料金払ってくれたり、家族総出で1日観光案内をしてくれたりする。トラブルにあった時も驚くほど親身になって何から何まで助けてもらった。そのありあまる親切は、時折神による純粋贈与の色合いすら帯びる。そんな時彼らは口を揃えて「You are guest.」と微笑むのだった。

その場ではとてもお返しができないから、私はほとんど後ろめたい気持ちになる。その代わりに帰国後も関係を続けたり、その国のことが好きになってニュースに関心をもったり、あるいは日本で旅行者を見かけたら、彼らがしてくれたようになるべく親切にしようと努める。

そうやって贈与の関係が一対一で完結せず、贈る相手がズレつつ広がることによって、より贈与の環が大きくなって、この世界全体に豊かさがもたらされる。彼らはそういった贈与の力を特に意識せず信じているのだと思う。



4.私たちの経済


私たちは「交換」の経済に慣れきっていて、感情のコストをできるかぎりカットして生きている。『うしろめたさの人類学』(松村圭一郎 ミシマ社 2017/10)によると、交換の原理は人の共感を押さえ込む力がある。後ろめたい、助けてあげたい、そういう共感を抑圧し、面倒な贈与と対価のない不完全な交換を忌避する。

(ちなみに一方で贈与=脱経済化が社会に利用されているケースもある。例えば「母」とか。母親業は「経済的な労働」ではなく「無償の愛による営み」だと見なされると、母親は正当な対価を要求することができなくなる。「専業主婦の仕事は年収に換算すると〇〇万円」といった言説は、母の営みを交換のモードで捉え直すことによる復権運動だと言える。国家はある時は感情を排除し、ある時は大いに動員する)

余計な感情が動かされることのない社会は、ストレスのなくて滑らかだ。それでも私はふと、あのめんどくさい価格交渉を懐かしく思うことがある。

この資本主義経済のなかで疎外された我々が人間らしさを回復させるには、経済のやりとりに「贈与」を、曖昧で感情的なつながりを適切に組み込んでいくことが必要なのではないだろうか。

そしてそれは部分的に導入されつつある、とも思う。例えばクラウドファンディンングだったりpay as you wishだったり、サービスのファンコミュニティだったり。新しいビジネスのかたちをつくることで、このどこまでも非人間的な社会に贈与のつながりを取り戻せる可能性を、私は信じたい。




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