
#12 相手(響き合う者たち)
精神医療の世界は主語のない言葉が多い。「患者さんにとっていい」。いったい誰がそう思うのか。本人が望んでいないことをあたかも本人の為になるかのような言い方をされることは多い。(中略)この主語のない物言いは日本語という言語がそれを許しているためかもしれないが、主語がないと責任が明確にならない。
社会に生きるとはごく簡単に言えば、「相手がある」ということをさまざま受け入れて暮らしていくことだ。「相手がある」ことを気にせず生きることを難しくさせるように社会はできているといえる。
「相手がある」、つまり他者が存在していることにはメリットもデメリットもある。最大のメリットは、人が最も怖れる「孤独」から生ずるさまざまな不都合を味わずに済むことである。「ひとりではない」ことは、生存を維持するという意味での「希望」が持てる基本的条件のひとつだ。一方、個人の自由や意思、願望、目標達成といった人生を生きるという意味での「希望」の方についてはなにがしかの制限を受けたりときに排除されうることが、最も決定的なデメリットであるだろう。
もちろんこうしたメリット・デメリットは、基本前提から導かれる本来的効果であって、置かれる環境や状況、立場などによっては真逆の事態、つまり他者の存在によってかえって孤独や疎外感を味わうこともあれば、自分の目標が十全に達成されることも起こり得る。だが、いずれにせよ私たち人間は、メリットとデメリットという両極のあいだの明確に境界線を引くことのできない連続する直線上のどこかにそれぞれが揺れ動きつつ位置しながら、複雑多様化する社会環境のなかをそれぞれに「希望」を持ちながら生きている。
人がなんらかの症状に悩まされ、なんらかの行動をとるとき、その背景には必ずといってよいほどなんらかの心理的裏付けがあるものだ。それはしばしば説明し難く解き難い心の重荷となって本人にのしかかり、心身および日常生活にさまざまな負の影響をおよぼす。そうした心の負荷の複雑な謎を対話を通して解き明かし洞察をさまざま加えながら、心的社会的状況の改善へと導いてゆくのがカウンセリングの役割だが、そうした対話や作業を行う際に、援助側に求められる重要な基本的技法や態度があるとされる。たとえば「共感」「傾聴」「受容」といった言葉は一般でもよく知られるようになり、臨床という特別な場面にとどまらず、広く一般社会生活における対人援助場面に活用されたりコミュニケーション・スキルとして認知されるようになった。
言葉というものは、たいがい広く流布し使われるにしたがって形式化し通俗化していくものだが、それは決して悪いことばかりではない。とらえ方使い方がいろいろあっていいし、むしろそうした過程を経て言葉の持つ意味合いや使い方が熟成されてゆくということもあるだろう。
ただし、先に挙げたような対人援助的な技法や姿勢態度で相手に接するときに関しては、私たちがつねに留意しておきたいことが一つある。
それは、常に「決めるのは相手だ」ということである。すなわちそうした技法なり姿勢が、「実際相手にどう受けとめられているか」「実際の治療や援助に役立っているかどうか」という効果視点が抜け落ちてしまい、援助側から与えられる一方向的な「あるべき正しいテクニック」のようなものとして語られることのないよう注意しなければならない、ということなのだ。
たとえば「共感」という言葉の意味についていえば、援助を必要としている本人が、自分の持つ苦しみを援助者が十分に知っており、その苦しみを確かに分かち合っていると実感できてはじめて、その場面における「共感」の過程が成立する。それは援助者である「私」側が共感的であったとか、共感的態度であったということとはかならずしも関係がない。同じように「受容」についても、「受容された」と本人が感じ取り、本人もまた援助者を「受容」し始めているかどうかが肝心なのであり、「傾聴」もまた「傾聴されている」と相手が感じ、相手もまた援助者を「傾聴」しているのかどうかまでがとても大事なのだ。
共感力が高いとか、傾聴しているといった言葉は、援助する側の判断や感覚ではなく、あくまで援助を求めている相手がそのように実感して初めて浮き彫りにされる表現でありたい。これは一般社会における対人関係の場面においてもまたしかりである。
それらは相手との関係においてその都度発生し、その都度相手によって実感され理解されてゆくもので、相互応答的な空間を共有するなかで時間をかけて醸成されていくものだ。けっしてそれらが援助者側に永続的固定的に備わっている才能やスキルという性質のものではないことを肝に銘じたい。
「自分は寛容な人間だ」と思うのは自由だが、真に寛容な人間かどうかはその都度相手が決めることだ。「うつ病の患者さんを励ましてはいけない」といった偏った言説が独り歩きしがちだが、患者一人ひとりの病理病状や状況、個性はそれぞれである。本人がそれによって真に勇気や安心感をもらい、心身の状態が良い方向への変化につながるような言葉掛けであったならば、「励ましもまた大事」な状況は常に生じ得るのだ。
相手との対話に関する知識や技法は、すべからく対話の入口のドアを意味しているにすぎない。社会においてはつねにその先には受け取るべき「相手」がいるのであり、たとえ相手が同じであったとしても相手の置かれた状況や境遇、言葉の受け止め方はそれぞれであり、援助者の姿勢や態度もまた常に変化していかなければならないのだ。
カウンセリングは、安定した相互の信頼関係を作っていくために、援助を必要とする相手に真に届く言葉と姿勢を探し続けるプロセスである。それなりに時間をかけ互いに言葉を尽くし、相手の反応を十分意識しながら心を通わせ生きることは、本来私たちの日常における人間関係全般に求められるべきものなのだろうが、実際それは難しいことかもしれない。
誰だって、自分の欲望、思想、苦痛を正確に示すことはできない。そして、人間の言葉は破れ鍋のようなもので、これをたたいて、み空の星を感動させようと思っても、たかが熊を踊らすくらいの曲しか打ち鳴らすことはできないのである。
教育というのは、確かにりっぱなものである。だがしかし、およそこの世の中で、我々にとって知る価値のあるものというのは、教えてもらうことのできないことだということを、いつもちゃんと肝に銘じて覚えておいた方が賢明である。
-オスカー・ワイルド-
だがあまり心配はいらない。最初は「破れ鍋」のような言葉しか出てこなかったとしても、「教えてもらうことのできないこと」が山積みだとしても、「相手がある」ことからさまざまに学ぶチャンスがあるこの社会に生きているかぎり、私たち一人ひとりに「希望」はいつでも生まれるはずである。その希望を引き出すため人には「共感」「受容」「傾聴」のこころが備わっているのだと、自分自身にも常に言い聞かせていきたいと思う。

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