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 代官山のお洒落なカフェやショップが立ち並ぶその通りを全裸の中年男がぺたぺたと歩いている。道行く人々は一瞬ぎょっとし、目を伏せるか、失笑するか、あるいはスマホのカメラを向けるか。既に警察にも通報がいくつもいっているのは想像に難くない。
 当時駆け出しだった私は、その中年男の堂に入ったウォーキングに、年齢の割に肌理の細かな白い柔肌に、何よりその一点の曇りなき貌に衝撃を受けた。
 何かが、運命という名の一筋の稲妻が、私の脊髄を駆け抜けた。
「あの───」と私は中年男に駆け寄り、声を掛ける。中年男がこちらを振り返る。
「あの……わたし、ストリートスナップをやってるんですけど」
「えっ……?!」
 中年男は心底驚いた顔を浮かべる。時を経て当時の事を冷静に見られるようになった今でこそ分かることだが、ふつうは全裸の中年男にストリートスナップは申し込まない。だって服を着ていないのだから。
 彼が驚き固まるのは至極当然であった。しかし、その時の私は兎に角必死だった。
「あっ、あの、お時間とか、あれば、なんですけど……」
「や、時間はありますが……」
 このあとの予定がある男が、はたして全裸で代官山を歩くだろうか。あるとすれば留置か、起訴か、収監くらいのものではないか。
 中年男はしばし迷うような仕草を見せてから、
「わたしで、良いんですか……?」
 と、こちらに尋ね返してくる。
「ええ、是非、是非。貴方の写真が、撮りたいんです」
 私は彼の眼を見て、力強く頷く。それを見て、彼もまたこくりと頷き返す。

「ええと、何処がいいかな? ここで? それとも、そっちの……」
 彼が目の前のカフェを指さす。カフェの入口で事の行く末を見守っていた店主らしき男が「えっ」と狼狽えた表情。
「そうですね……じゃあ、せっかくなんで、そっちのお店で撮りましょうか?」
 私が応じると、中年男は店の外に設えられたテラス席へすたすたと近づき、椅子を引き、ぺたりと生尻をつけて座り、股間のものを挟み込むようにして足を組み、テーブルに左の肘を軽く載せ、上体を捻るようにこちらを向く。
 中年男の隣の席に座っていた若い女性二人組が「ひっ」と悲鳴を一声、荷物を手にその場を走り去る。店主が舌打ちをする。
 私は首から提げたミラーレス一眼レフのファインダーを覗く。絞りを調節し、中年男を、その柔肌を背景から浮かび上がらせる。カメラのオートフォーカスが中年男の瞳孔を捉え、ピントを調節する。
 ぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴっ。
 私は夢中でシャッターを切る。
「少し、違うポーズでも……」
 中年男は、こちらに向かって身体を正面に座り直し、背筋をスッと伸ばし、胸を張り、両手を膝のうえに置き、顎を軽く引いてこちらを真っすぐに見つめてくる。冬の寒気に縮こまった股間のちんぼうもまた、真っすぐに私のレンズを見つめる。さながら、歴史上の偉人のような威容。私は思わず、「薩長同盟……」と呟く。
 ぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴぴっ。ぴっ。ぴっ。ぴっ。
 怖い顔をした店主が近づいてくる。
 すると中年男は事もなげに、「ああ、すいません。ブラックコーヒーをひとつ」と店主に注文を出す。店主は一瞬驚いたような、苦虫を嚙みつぶしたような顔をして、それから何処ぞへと通話あるいは通報をしながら、店の中へ消える。
 次に店主がコーヒーを持って出てきたとき、中年男は背中と生尻を店のガラス面にぴたりとつけ、左足に体重を預け右足をその前にクロスさせ、やや頭部を傾け何処か遠くの空を眺めるポーズで私のレンズに全身を舐められていた。それを見た店主がちょっと、人が通常生きていく中でおよそ見ることがないような、“忿”という感じの顔をする。
 しかしその時の私は何というか、明らかにゾーン、フローに入っていたので、怖い、というよりはむしろ、人間、キレすぎるとここまでの表情筋を稼働させられるのだなあ、とちょっと感銘を受けただけで、再びファインダー越しに中年男の肌を舐めまわすことに専念する。
 中年男は店主から湯気の立つカップを受け取ると、自身の胸や腹や腿や尻のあたりを、本来であればポケットがある位置であろう箇所を、パンパンと叩いてから、
「しまった。今は持ち合わせが無いのだな……」と一人ごちた。
 そうだろうな、と私は思った。
「すいません、これで」と私は千円札を手渡し、「あの、釣りは要らないです」と告げ、再び中年男へレンズを向けた。
 店主は暫く、何か言いたげに千円札を握ったまま立ち尽くし、やがて店内に消えた。

 結局その日、私が撮影できたのはカフェの店前での数ショットと、最後に通りの中央に立ってもらった時に1ショットのみであった。
「もう、良いのかな?」
 中年男が優しく、私に諭すように声を掛ける。
 そこで私はようやく、私たちの周りを無数の警察官が囲んでいることに気が付いた。
 夢の終わり、マジック・アワーは過ぎたのだ。
 私は中年男に自身の名刺を渡す。彼はそれを両手で受け取り、恭しく額の高さまで持ち上げ、私に頭を下げると、警察官に付き添われ、パトカーに乗り込んだ。
 それから年に数度、手紙が届いた。ある時は娑婆から、ある時は獄中から。手紙が届くたび、彼の達筆な文字や言葉遣いから否応なしに滲み出る深いエスプリに私は思わず溜息を漏らした。そして行間から浮かび上がる、あの冬の雪のように白い、彼のゆたかな裸体に、私は暫し思いを馳せた。
 
 私はとある撮影スタジオに所属したのち、フリーのフォトグラファーとして独立した。幸運なことに幾つかの賞をとり、数冊の写真集を出し、更には個展を開く機会にも恵まれた。初の個展には彼から一際大きな花輪と、「出逢いに感謝、」とだけ記された電報が一通届いた。
 あの日、彼を撮影した幾枚かの写真は、今も私の仕事場の一番目立つところに飾られている。

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