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1.

 バスの車内でうつらうつらしていたところ「チョケブリィィィィ!」という甲高い絶叫が突然響いて、僕はびくりと目を覚ました。
 咄嗟に隣のほうを見ると、通路を挟んで向かいの席に高校生が二人いた。彼らもまた驚いた顔を浮かべ、バスの後方を見て、それから僕のほうをちらりと見て、最後に互いに顔を見合わせ、そっと目を伏せた。
 後方には老婆と30代ほどの女と中年男がいた。老婆と女は中年男のほうを一瞬見たあと、すぐにそっと目を伏せた。中年男だけが真っすぐにバスの進行方向を見据えていた。
 男は後方右列、通路側の席に座っていた。年齢は50手前くらい、とても落ち着いた色合いのセーターを着て、同じくらい落ち着いた色合いのパンツを履いていた。セーターの柄はトゥカノ族(トゥカノ族はアマゾン川流域の先住民族だ)が見るという幻覚のパターン(ひし形の図形が首から胸にかけて延々とあしらわれている)に似ていた。顔はつるつるとして皴が一切なく、まるで殻をむいたばかりのゆで卵のようだった。禿げあがった頭には、ほんの少しだけ残ったくしゃくしゃの前髪が、柔らかなカーブを描いて左から右へ向かって流れていた。
 高校生・老婆・女の視線を考えると、恐らくは彼が「チョケブリィィィィ!」と叫んだのだろう。しかし彼の穏やかで小ざっぱりとした顔には如何なる感情の機微も見られなかった。幻聴だったのだろうか?僕はしばらくのあいだ男をじっと見つめ続けた。
「チョケブリィィィィ!」
 再び中年男が叫んだ。今度は叫ぶ瞬間をはっきりと見た。女がさっと席を立ち、前方の通路へ移動した。
 中年男は叫び終えると、
「チコリータ」
 と小さく、毅然とした口調で言った。彼の声はバスの車内に、くっきりと鮮明に響き渡った。まるで彼自身の意思そのものが「チコリータ」という言葉のかたちを取って現れたようだった。
 中年男は居住まいを正すと真っすぐバスの進行方向を見据えて、
「チコリータ、と申します」
 と再びくっきりと告げた。その目はバスの乗客の誰のことも捉えてはいなかった。
 彼はいったい誰に対して、己がチコリータであると申告したのだろうか? そして彼は本当にチコリータなのだろうか? もしかすると彼は今、この世界そのものの、なにか根源的な基盤に対し、重大な反逆を行ったのではないか。彼の態度や居住まいには、そのような覚悟が漂っているように僕の目には見えた。
 一方でバスの乗客たちはチコリータから目を逸らし、腕時計を見たり、ポータブルプレイヤーのカセットを取り換えたり、窓の外を見たり、自身の降りるバス停と支払うべき小銭を入念に確かめたりしていた。まるでチコリータなんてそこに居ないように、彼らはそれぞれの世界に没頭する振りをしていた。そのことに対して、僕は何だか無性に腹が立った。乗客全員を今すぐ葉っぱカッターで肘から上にかけて分断してやりたくなった。大の大人が、こともあろうに走行中のバスの中で、「チョケブリィィィィ!」と叫んだあげく、「チコリータ」と名乗ったんだぞ。それも二回も。きっと相応の事情があるに違いない。一体何が彼に「チョケブリィィィィ!」と叫ばせたというのだ。仕事か、家庭か、あるいは君たちのような社会の無関心か。なぜ誰も、彼の悲しみに、孤独に向き合おうとしないんだろうか?
 僕はいてもたってもいられず、バスが信号で止まったタイミングで席を立ち、チコリータに近づいた。そして鞄からモンスターボールを取り出し、チコリータに向かって思いっきり投げつけた。モンスターボールはチコリータの額に当たって床に落ちた。チコリータは「痛っ!」と額を抑え、それから僕を睨みつけ「何すんねん!」と凄み、僕の目の前に立った。僕も負けじと「あァ?!」と彼を睨み返した。
 しばらくのあいだ、僕とチコリータはごりごりと額をこすりあわせ、互いに肩で肩を小突き合った。バスが再び動き出すと僕とチコリータはたまらずよろけた。「運転中は危ないんで、席についてください」と運転手が語気を強めてアナウンスした。アナウンスの終わりには「チッ」という、したたかな舌打ちがはっきりと聞こえた。僕とチコリータは運転手の背中を睨み、お互いを睨み、「チッ」と舌打ちをし、そしておのおのの席に戻った。バスが曲がったり、止まったり、発進したりするたびに、床の上をモンスターボールがごろごろ転がった。
 チコリータは「曲三丁目」で降りていった。僕はバス停から住宅街へ向けて歩くチコリータの背中をいつまでも睨み続けた。

2.

 チコリータを捕えねばならない、と僕は考えた。
 僕は9年と11ヵ月勤めた会社を辞め、その足で登山用品を買いに行った。それからアパートに戻ると、まず冷蔵庫の中のものをあらかた片付けて夕食を作った。作り過ぎた分はお隣さんに持っていった。
 お隣さんは耳の裏を太い指でコリコリと搔きながら破願して、「いやはや、しかし申し訳ないですな、こんなに頂いてしまって」と言った。
「構いません。明日から、ちょっと旅行に出ようと思いまして、冷蔵庫の中身を整理してたところなんです」
「そうですか、旅行ですか。それはいいですな。ところで、どちらに?」
「チコリータを捕まえに」
 お隣さんは少しの間、とろんとした目つきで僕を見つめ、ちょっとだけ首を傾げた。そして何か言いたげに口を小さく開き、しかし開いた口からは、ただゆっくりと彼の吐息が洩れ出るばかりだった。彼はお礼としてブランデーをひと瓶、僕にくれた。
 僕は部屋に戻り、買ってきた地図を拡げ、曲三丁目のバス停から住宅街への道と周辺の地理とを綿密に確認した。そしてザックに五日分の着替えと日持ちする食糧と貰ったブランデーを詰め、それから熱いシャワーを浴びた。そのあとベットで横になって、中沢新一の「神の発明」を読んだ。十一時になると本を置いて僕は眠りについた。

 翌朝早く部屋を出て、バスに乗り曲三丁目で降りた。降りるときに、僕の恰好を見た運転手は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、彼は直ぐに自身の職業的関心へと戻っていった。僕は曲三丁目のバス停の向かいの、歩道から少し奥まったところに荷物を置き、チェアを拡げて腰かけた。そしてブランデーをちびちびと舐め、ポータブルラジオで音楽を流し、昨夜の本の続きを読んだ。日が昇ると暑くなってきたので僕は上着を一枚脱ぎ、チョコレートをひとかけら齧った。バスは一時間に数台やってきた。老人や主婦が乗ったり降りたりした。50がらみの男は一人もいなかった。

 腕時計を見ると12時を過ぎていた。僕は荷物をそこに置いて、住宅街をうろうろと歩き回った。十五分ほどして、開いているのか閉まっているのか、定食屋なのか民家なのかよく分からないところへ入った。出されたアジフライ定食は美味しいんだか不味いんだかよく分からない味をしていた。一方でビールはよく冷えていてうまかった。
 食事を終え、ビールを飲みながらしばらく店主と歓談した。「そろそろ閉めようかと思うんだけどねえ、やることがねぇんだな、人生」と言って店主は歯の無い笑みを浮かべた。本当に、ただの一本も歯が無かった。
「いつだってそうだった。いつだって……」
 店主はそう言って僕の後ろをじっと見つめた。僕は振り返って背後を見た。そこにはどうしようもなく薄汚れ、子どもがちょっと小突いただけで穴の開きそうな薄っぺらな壁があった。あるいは彼が見ていたのは壁よりももっと向こうの、遠くの何かだったのかもしれない。
 天井隅に据え付けられたテレビから、お昼のワイドショーが流れていた。様々な場所で様々な人々が様々なな事情で死んでいた。
 その店で二時間ほど時間を潰して、僕はバス停の前に戻った。

 三時を過ぎると、下校途中の小学生の群れがやってきた。
「おじさん、こんなところで何をしてるの?」と、群れの一人が物珍しそうに尋ねてきた。
僕はその男の子の頬を強く殴りつけた。男の子が地面にうずくまった。
「お、お兄さん、こんなところで何をしているの?」と先ほどとは別の男の子が尋ねてきた。
「チコリータを探しているんだ」と僕は言った。
 子どもたちは互いに顔を見合わせ、神妙な表情を浮かべ、小声で二三の言葉を素早く交わし、それから僕に向かって小さく会釈すると、足早にその場を去っていった。僕はやれやれとかぶりを振ってチェアに深く凭れ、目を瞑った。

 夢の無い、短い眠りから目覚めると日が大きく傾いていた。僕はチェアから立ち上がり腰を反らし伸びをして、それから全身の筋肉を丹念にほぐした。
 バスが一台やってきて、走り去った。バスから降りた男が一人、バスが去っていく方向へとは逆に向かって歩き出した。地味な色合いのセーターとパンツ。50がらみで、つるつるとした顔。禿かかった頭と、僅かに残ったくしゃくしゃの前髪。
 チコリータだった。
 僕は荷物を手早くまとめ、ザックを背負いチコリータの後を追った。

 その住宅街は山の斜面を削って建てられ、家と家のあいだには細い路地がいくつも枝分かれして伸びていた。チコリータは時折立ち止まり、首を反らすような動きをした。後ろから見ると、まるで空気の匂いをくんくんと嗅いでいるように見えた。ひとしきりそれが済むと、チコリータは再び歩き始めた。
 チコリータは路地を曲がり、進み、ちょっと下り、そしてたいていは昇り続けた。やがて住宅街の終わりに差し掛かった。舗装された道が終わると、そこから先は山へと続く、細い砂利道になっていた。チコリータは山の奥へ向かってその道を進んだ。僕はザックからトレッキングボールを取り出して彼のあとを追った。

 いよいよ陽が暮れようとしていた。ヘッドランプをつけようか迷いながら歩いていると、突然開けた場所に出た。一面に、僕の背丈より高い熊笹がびっしりと生えていた。風が吹くとそれがまるで海原のように揺れた。その海原のあいだをずいずいとチコリータが進んでいた。やがて彼の姿は笹林に紛れて見えなくなった。「やれやれ」と僕は呟き、ヘッドランプをつけ、彼の後に続いた。
 耳を澄まし、熊笹をかき分けるチコリータの音を頼りに進む。そのうち、果たしてそれがチコリータの音なのか、風で笹同士が擦れる音なのか、だんだんと自信が無くなってきた。辺りはすっかり暗くなって、ヘッドランプの明かりから外れたところはまるで見えなくなっていた。僕は方角を確かめようと、首から提げた方位磁石に手を伸ばした。
 ひゅん、と乾いた音がすると、紐が切れて方位磁石が地面に落ちた。首筋を何かひやりとしたものが走り抜けた。僕は首筋に手を当てた。指先に何か生暖かい液体の感触があった。ヘッドランプで照らした指先は、じっとりと血で濡れていた。
「チョケブリィィィィ!」
 茂みの奥でチコリータの叫び声が聞こえた。僕はザックをその場に降ろし姿勢を低くした。
 風が吹いて笹同士が擦れる。その音に紛れて、固く乾いた音が僕の頭上を通り抜ける。切断された笹がぱらぱらと地面に落ちた。僕もまた風の音にまぎれてジグザクに、笹林の奥へと進んだ。
 ひゅんっ、と音がしたかと思うと額に強い衝撃が走り、僕は仰向けに倒れた。しばらくのあいだ起き上がることが出来なかった。体をよじるようにして起き上がり、恐る恐る額に手を当てると、ヘッドランプに刃渡りにして30センチほどの、割れたガラス片が突き刺さっていた。ランプが無ければ確実に死んでいた。何か冷たいものが、僕の胃袋の底にずしりと落ちていった。
 「葉っぱカッター」
 笹林の何処かから、チコリータのくっきりと鮮明な声が聞こえてきた。
 僕は笹林のあいだを出鱈目に走った。葉っぱカッターの音がするたび、地面に伏せ、立ち上がり、右へ左へと走り、隙を見てはガラス片の飛んできたと思われる方向へ向かって、落ちている石を拾い手当たり次第に投げつけた。
 そのうちに、
「ごっ」
 と、チコリータのくぐもった声がして、それからばたんと、何かが固い地面に倒れる音がした。それもかなり近くからだ。僕は低い姿勢を保ったまま、静かにその方向へと進んだ。
 突然笹林が終わった。直径にして二メートルほど、そこだけ綺麗に整地されたように、笹はおろか草の一本も生えていない奇妙な場所に出た。地面は剥き出しの石で出来ていて、その表面はいやにつるつるとしていた。その石の上にチコリータが倒れていた。チコリータの傍らには、砕いたガラス片の山が堆く積まれていた。
 彼は膝を抱えるようにして、丸くなって倒れていた。その額はべっこりと凹んでいた。そして時折ぴくり、ぴくりと痙攣した。
 僕はウェストポーチからモンスターボールを取り出し、うずくまるチコリータの顔に向かって思いっきり投げつけた。モンスターボールが当たるとチコリータがびくりと大きく痙攣した。続けて、僕は次のボールを取り出し、またチコリータの顔に向かって投げた。何度も、何度も、何度も。
 やがてチコリータがすっかり動かなくなると、僕はその傍らに座り込み、それからチコリータと同じように地面の上に倒れ、膝を抱えて眠った。

3.

 バスが止まり、僕は砂浜のうえに降りた。柔らかく湿った砂が僕の足の指のあいだに入り込むのが感じられた。僕は裸足だった。
 振り返るとバスはもう消えていた。振り返った先、つまり僕の背後には、バスはおろか物影の一つも見えなかった。ずっと遠くの地平線まで、何も無かった。
 正面を向くと海が見えた。
 薄明るい雲が空を覆っていた。そこから、とても静かで細い雨が降ってきた。
 僕は海に向かって歩いた。足の裏に張り付く砂はしっとりとしていて気持ちが良かった。雨はゆっくりと僕の顔や全身を濡らしていた。
 波打ち際の手前まで来て初めて、僕は正面に一人の男がいることに気づいた。男は波打ち際から10メートルほど先の海面の上に立っているように見えた。しかし実際には海面から数十センチほどの高さのところで彼は浮遊していた。男はとても地味な色合いのセーターとパンツを着ていた。
「チコリータ」と僕は言った。
「チコリータ、と申します」
 チコリータはくっきりと鮮明に答えた。チコリータの声はこの世界のあらゆるもののあいだに響いた。
 僕とチコリータはしばらくのあいだ、波打ち際を挟んで見つめ合った。波が砂を洗う音だけが聞こえた。
 そしてチコリータは何も言わず、くるりとその場で半回転し、僕に背を向け、海に向かってするすると、浮遊したままの姿勢で真っすぐに進みだした。僕はそのあとを追いかけようとしたのだけれど、突然足の裏に鋭い痛みが走って砂の上に倒れ込んだ。見ると足の裏がぱっくりと割れ、そこから血がどくどくと溢れだしていた。傷口にはガラス片が刺さっていた。
「葉っぱカッター」とチコリータの声。
「やれやれ」と僕は言った。
 僕は歯を食いしばりガラス片を引き抜いた。何とか立ち上がって海のほうを見るとチコリータはもう何処にもいなかった。空を覆っていた雲の幾つかの部分が割れて、そこから天使の梯子が降りてきていた。

 目が醒めると体のあちこちに、色んな種類の痛みがあった。鈍い痛みや鋭い痛みがあった。熱い痛みや、冷たい痛みもあった。まるで痛みの総合商社になった気分だ。
 僕は体を起こし、地面の上に座った。チコリータの姿は無かった。代わりに骸骨があった。理科室に飾られていてもおかしくないような、一揃えの骸骨だった。骸骨は膝を抱えて眠るような姿勢で、僕の隣に倒れていた。頭蓋骨の額のあたりが激しく砕けていた。僕はそこを指でなぞり、「チコリータ」と呟いた。

 チコリータ、と申します。

 と、どこか遠くのほう、もしくはすぐそばの耳元で、とてもくっきりとした声がした。風が吹いて笹林が揺れた。しゃりしゃりと、葉と葉が擦れる音がしばらくして、止まった。風が止んだあとも、チコリータの声が僕の耳に残っていた。

 僕は笹林を抜け、山を降りてバスに乗りアパートへ戻った。まず熱い湯をバスタブに張り、全身の皮膚がふやけるまで浸かった。それから髭を剃り、歯を磨いた。新しい下着とTシャツとパンツを着た。冷蔵庫の中身は空っぽだった。僕は部屋を出て、近所の公園を抜けた先の喫茶店に向かった。
朝食にしては遅すぎるし、昼食にしてはちょっと早い時間帯だった。店の中はがらんとしていた。僕はホットコーヒーと、海老とアボカドのフレンチトーストを頼んで窓際のカウンター席に腰掛けた。窓のすぐ前の道を何処かへ営業へ向かうサラリーマンや犬を連れた白髪の老人(彼は長い髪を後頭部で団子のように纏めていた)やジョギング中の40代くらいの女が通り過ぎていった。僕から三つ分、離れた席に女が一人座っていた。彼女は熱心に本を読んでいた。本のタイトルは分からなかった。
 コーヒーとフレンチトーストが運ばれてきた。僕はウェイターに礼を言い、コーヒーにミルクと砂糖を入れてよく混ぜてから一口飲み、フレンチトーストを頬張った。
 やがて昼時になり、店の中が混んできた。僕はフレンチトーストをすっかり食べ終え、コーヒーを飲み干して席を立った。彼女はまだ本を読んでいた。

 日が暮れてから行きつけのバーへ向かった。客は僕一人だった。僕がカウンターの一番奥のスツールに腰掛けるのと同時に、店主が黙ってビールを寄越した。僕はそれを一息に呷った。店主はそれを見て声も出さずに小さく唸り、すぐに二杯目のビールを持ってきた。
 5杯目を飲み干してから、僕は「チコリータ」と言った。
「チコリータ?」と店主が片眉を持ち上げて聞き返してきた。
「うん。チコリータ。この前、バスで見かけてね。とても落ち着いた色合いのセーターと、パンツを着ていた。年齢はアンタよりちょっと下かな? 顔はつるつるとしていて、頭は禿げかかって、僅かに残った前髪がこう、葉っぱの形をしていた」
「それが、チコリータなのかい?」
 僕は笑いながらかぶりを振って、「いや、それだけじゃ駄目だ。それだけなら、僕だって彼がチコリータだとは思わないよ。だけどね、彼はバスの車内でこう叫んだ、『チョケブリィィィィ!』と。二回もだよ? 一回だったら、僕もまさかその男がチコリータだとは思わなかったと思う。だけど彼は二回、確かに叫んだ。それからこう言ったんだ。『チコリータ、と申します』と。それはそれはもうくっきりとした口調だった。決して大きな声じゃなかったのに、まるで耳元で彼が話しているように鮮明に聞こえたんだ。それで、僕は彼がチコリータだって分かった」
 店主は手にしたグラスを片付け、次のグラスを磨き始めた。
「それで? どうしたんだい」
 僕は肩をすくめて、「あっ、捕まえなきゃ、って思った」
 店主は首をコリコリと回し、「それで? 捕まえたのかい」と言った。
「話せば長くなるんだけどね」と、僕は今朝までの出来事を詳らかに彼に語った。
「彼は最後、白い骨になったんだ」
 ひとしきり話し終えると、店主はしばらく腕を組み、それから小さく唸って
「そのチコリータ? ってのはチョケブリィィィィ! と鳴いたのかい?」と聞いてきた。僕は黙って頷いた。店主は首を左右にコリコリと捻ってから、
「チョケブリィィィィ! ってのは、チコリータじゃなくて、トゲピーの鳴き声じゃなかったかい?」と言った。
 頭を、ハンマーの重さを持ったアイスピックで叩かれたような気分だった。
僕はしばらく何も言えず、「確かに……トゲピー……じゃあ、彼はいったい……」と、喘ぐようにしてようやくそれだけ絞り出した。
 店主は溜息をひとつついた。海の底に届きそうなくらい深い溜息だった。そして彼はビールを僕に寄越した。
 僕はグラスに盛られた芸術的な泡をじっと見つめてから、「アンタも一杯やってくれないか? 僕が奢るから」と言った。彼はちょっと僕の顔を見て、鼻を小さく鳴らし、空のグラスにビールを注いだ。
「チコリータに」と僕は言った。「チコリータに」と彼は言い、僕たちはグラスをこつんとぶつけて、一息に呷った。

 店を出てしばらくのあいだ、川沿いの道をゆっくりと歩いた。肌に当たる空気は冷ややかで心地よかった。僕は声も無く泣きながら、川沿いの道をひたすら歩いた。
 やがて夜空から、細やかな雨が音もなく地上へと降り注ぎ、僕の身体を静かに濡らした。

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