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こら! しんのすけ〜! あ が な い(贖い)

1.

 贖い。
 と、母ちゃんは確かに言いました。オラは振り向きました。そこに母ちゃんの姿は無く、代わりに母ちゃんの形をした赤く黒い影が浮かんでいました。まるで透明なガラス板がそこにあって、母ちゃんの形をしたシミが「ぺたり」と貼り付いているような、そんな薄っぺらい影として、母ちゃんは浮かんでいました。影はゆらゆらと僅かに揺れていました。よく目を凝らすと、その影の輪郭は空間に漂う光の粒子たちと絶えず交歓しあい、自らの形を常に変え続けていました。オラはその影に近づきました。すると母ちゃんの形をした影は大きく揺らぎました。まるで筆の先から絵の具が水へと溶けだすときのように。影は数多の線になって細く乱れ、消えました。母ちゃんはそのようにして居なくなりました。オラは母ちゃんの最期の言葉について考えました。それは、こら! しんのすけ〜!

 あ が
 な い

    (贖い)

 でした。オラは何を贖えば良いのか分かりませんでした。
「それはお前が考えるのだよ、しんのすけ」
 シロの声がしました。オラはあたりを見回しましたが、シロはどこにもいませんでした。オラは泣きました。こんなことなら

 げ ん
 こ つ

    (拳骨)

 のほうが何倍も何京倍も良いものでした。それはそれ自身が贖罪だったからです。オラは痛みを受け入れるだけで良かった。なぜならそれがオラの罰だから。オラは何も考えなくて良かった。なぜならそれは母ちゃんの役目だったから。母ちゃん、あなたはなぜオラに罰を与えなかったのですゾ?
 オラは独りで泣き、喚き、涎を垂らし目をひん剥き地べたを這いずり回りました。外が暗くなりました。とても寒くなりました。オラはもう訳が分からず、身体を丸めてただ震えることしかできませんでした。

2.

 しんのすけ、火を絶やすんじゃあない。
 はい、父ちゃん。オラは決して火を絶やしません。
 しんのすけ、決して火を絶やしてはいけない。闇は常におれたちを見張っている。おれたちが火を絶やすのを待っている。見えるか。おれたちを囲む闇が。光なき眼。おれの言っていることが分かるな、しんのすけ。
 父ちゃんはそう言って、何もない闇をじっと見据えました。父ちゃんの瞳のなかで燃えさかる焔が揺れていました。しかしオラはまことの意味で父ちゃんの言葉を理解していませんでした。オラはオラを取り囲む闇と同じくらい父ちゃんが恐ろしかったのです。
「父ちゃんがお前くらいの時に、父ちゃんと、父ちゃんの父ちゃん、つまりお前のじいちゃんとで山へ入った。猪を狩るためだ。親父は狩人だった。それも一流の。至高の。親父の左目には黒い眼帯が巻かれていた。その眼帯の下、親父の左目のあるべき場所にはうつろがあるのをおれは知っていた。闇だ。今おれたちを囲う、この闇だ。親父は獲物を狙う際、右目ではなくその左目のうつろをもって狙いを定めた。そして銃口から弾かれた鉛玉は決して獲物の心臓を外れることはないのだ。だから親父は村で一番の狩人だった。おれは親父が誇らしかった。しかし同じくらいおれは親父を憎んでいた。それは山に入っていないときの親父はこの世で最も唾棄すべき、下劣で下等な生物であったからだ。あの男のせいで母の寿命は確実に短くなったのだ。そして母の死後、あの男はおれに……分かるか? しんのすけ。
 山に入ったその日、昼頃になると空は俄か曇り、まもなく雨が降ってきた。とても激しい雨だ。まるで視界が取れなかった。これでは猪は狩れまいとおれは思った。親父はなおも獲物の姿を追っていたがやがてかぶりを振った。その時だ、ヒグマが現れた。ヒグマと目があって、おれの体は石のように固まった。声ひとつ上げられなかった。ヒグマはおれに襲いかかってきた。すべてがスローモーションになった。顔面目掛けて迫り来る恐ろしい爪が、おれの左の眼球の表面を、その光を削り取る瞬間まではっきりと見えた」
 父ちゃんは左目に指を突っ込んで眼球を取り外してオラに見せました。それは硝子で出来たとても精巧な義眼でした。父ちゃんは再びその眼を左目のうつろに戻しました。
「おれはここでヒグマに喰われて死ぬのだな、お前がおれの死なんだなと思った。しかしそうではなかった。あの男が、親父が、おれを凄まじい力で後ろへ引っ張って放り投げた。親父はヒグマの目の前に立った。親父は猟銃の引き金を引いた。だが知ってるか? しんのすけ、本物のヒグマ、それも人を襲うようなやつというのは、鉛玉のひとつふたつでは駄目なのだ。その心の臓を正確に撃ち抜かねばならないのだ。親父は勿論それを知っていた。親父はおれが襲われ、嬲り殺されるあいだに体勢を整え、左目のうつろで狙いを定めれば良かったのだ。そうすれば、まず間違いなくあのヒグマは死んでいただろう。親父の放つ鉛玉に心臓を撃ち抜かれてな。だが親父はそうしなかった。何故かな……?
 ともかくやつは肉を断ち骨を砕かれる痛みに怒り狂った。次の瞬間、何かがおれの頭上を飛び越えていった。それは親父だった。正しくは親父の上半身だった。おれは振り返って親父を見た。大木の根元に凭れ掛かる親父の目は大きく見開かれ、口からは血と泡がごぼごぼと吹き出ていた。まるで蟹みたいだった。親父の着ていたシャツの裾が、泥と血でぐちゃぐちゃになって、そこから何か白いものが飛び出ていた。とても美しい白だ。父ちゃんは未だにあれよりも美しい白を見たことが無いんだ。そしてそれは脊椎だった……そうだしんのすけ、家に帰ったら犬を飼おう。とても大きな白い犬を。そしてそいつの名前はシロ……シロだ」
 父ちゃんは持っていた木の枝で焚き火をつつきました。火が静かに爆ぜました。
「親父はおれを見て、喉を引き攣らせて叫んだ。ひろし、火を絶やすな。決して火を絶やしてはならない! と。その時おれは理解したのだ。おれがこの男をどれだけ憎み、そして愛していたのかを! ヒグマはその時、親父の下半分にかぶりついている最中だった。
 どこをどう走ったか覚えていない。靴は両方とも脱げておれの白い靴下は泥と血でぐしゅぐしゅになっていた。雨が止むと同時に夜がきた。おれは持っていた種火を使ってそこに火を熾した。闇が、そこら中に横たわっていた。おれを見ていた……おれを見ていた! おれは手当たり次第に、狂ったように一切合切を火に焚べた。火は弱々しくその身をくねらせていた。闇が濃くなった。おれはその闇の中に、ヒグマの息遣いを確かに感じた。やつがおれを追ってやってきたに違いない! そう思った……しかしそれは幻聴だったのかもしれない。俺は着ていた服をすべて脱いで火に焚べた。それが燃えてしまうと、今度はヒグマの爪で表面を抉られ使い物にならなくなった左目を取り出し、火に焚べた。火は少しばかり強くなったが、じき小さくなっていった。おれは焔の向こうの、一寸先の闇にじっと目を凝らした……そして火が消えようとした、まさにそのとき、おれは見たのだ。左目のうつろで、それを見た」
「父ちゃん、あなたは何を見たのですか?」
 父ちゃんはオラの問いには答えず、手元の枝をぽきっと二つに折り、火に焚べました。
 しんのすけ、おれたちは狩人の血を継いでいる。そしてすべての狩人とは即ち咎人なんだ。おれたちはすべての咎人の父祖の血を継いでいる。しんのすけ、分かるか。
 父ちゃん、母ちゃんは赤く黒い影になって消えてしまいました。母ちゃんの名はみさえと言います。あなたの妻でした。
 しんのすけ、決して火を絶やしてはならない。お前にもいつか分かる時がくるだろう。そしてお前もそれを見るのだ。おれがあの夜、左目のうつろでそれを見た時のように。
 オラには分かりません。オラには分かりません。
 オラはズボンを脱ぎ臀部を露わにし星なき天にそれを掲げダンスを踊りました。中心の焔に照らされて生まれたオラそっくりの無数の影が、オラの動きに合わせてやはり同じダンスを踊りました。
「むなしいな、しんのすけ。それは虚無だ」
 父ちゃんはそう言って、口の端を醜く歪めて嗤いました。

 父ちゃんの胸が赤く染まっていました。それはオラに母ちゃんの最期を思い起こさせました。オラの手にはナイフがあり、それは父ちゃんの血でどっぷりと濡れていました。それは温かいものでした。じきに冷たくなるでしょう。火は既に燃え尽きていました。
 父ちゃん、母ちゃんがいなくなってしまいました。オラは、何をもって贖えばいいゾ? 
 父ちゃんが闇に包まれ、消えました。オラはまことの闇の底で、臀部だけのダンスを踊りました。
 むなしいな、しんのすけ。それは虚無だ。
 闇の中から父ちゃんの嗤い声がしました。

3.

 海が見えました。灰色の海が見えました。鈍色の雲が一面空を覆い、オラの頭を重く押しつぶしていました。オラはその岬から海を見ました。灰の空と海は何処までも続いていて、水平線の果で交わりあっていました。昏い海は狂ったように荒れ、身悶え、波と波とが互いの肉を喰らいあっていました。
 女がオラの傍に立っていました。オラは言葉を失いました。その女があまりに美しかったからです。それは恐るべき美しさでした。それはオラの喉元に突き立てられた、とても鋭利なナイフの切っ先でした。しかしてそれは不完全で、危うげな均衡の上にたつ美しさでした。女はおそらく10代後半、その顔にはまだ少女のあどけなさが残っていました。しかしその身体には蕾の如き少女のセクスと、やがてくるであろう成熟した女のセクスとがジェンガのように組み合わさっていました。その美しい栗毛色の長い髪にちょっとでも指を絡めたならば、オラの指はたちどころにすべて断ち切られ地面にぼとぼとと落ちるに違いありませんでした。女の美しさはそのようなものでした。
 女は何も言わずに、少し離れたところにある古城を指差しました。女はそこから来たようでした。その城は百年か二百年か、あるいはもっと前からそこに建っていて、そして今にも崩れ落ちようとしていました。事実オラが城の前まで来ると岬の先端に面したあたりが地面ごと崩れて、その上に立っていた尖塔のごときものが音もなくゆっくりと、海に落ちて呑まれるのが見えました。
 城には誰もいませんでした。どこも荒れて壊れて黴が生え、埃が堆く積もっていました。女は花から花へ飛び回る蝶のように城の奥へ奥へ進んで行きました。オラはその後を追いました。
 オラと女は小さな部屋にたどり着きました。暖炉の中では火がちりちりと揺れていました。そのそばには城と同じくらい古い書物が乱雑に積まれていました。女は無造作にそのひとつを手に取り、つまらなそうにペラペラと捲ると、やがてぽいと、何の躊躇いもなくその本を暖炉の火に焚べました。オラと女は随分長い間、暖炉の火をただ無言で見つめていました。火が小さくなると、その辺の本を掴んで暖炉の中へ放り投げました。外では風がびゅうびゅうと吹いていました。窓ががたがたと音を立てました。
 白痴のような昼が終わると墨をありったけこぼしたような恐ろしい夜がきました。女はスッと立ち上がり、とても滑らかな動きでダンスを踊り始めました。それはバレエの要素をもつコンテンポラリーなダンス。オラもまた臀部を露わにして天に向かって突き出し、ちょこちょことせわしなくステップを踏んで踊りました。女はそれを見てとても楽しげに、声もなく笑いました。オラたちはふたりともひもじくて、淋しかった。しかしオラたちはとても幸せでした。
 女の身体はやがて来る成熟の予感と少女の青さで出来ていました。乳房は硬く腰骨は突き出てていましたし、女のセクスには産毛のようなもの以外には何もありませんでした。しかしそのような不自然な均衡はオラを異常に昂らせました。オラはオラ自身を女のセクスに突き立てました。女が一際大きく弓なりに背を反らせました。女の爪がオラの背中に深く食い込みました。オラと女は一晩のあいだずっと、互いの肉を激しく貪りあいました。その晩オラと女は四度交わりました。そして女はその夜のあいだずっと、嬌声はおろか、ただの一言も発しませんでした。

 オラは寒さで目を覚ましました。女はいませんでした。暖炉の火は消えていました。外は薄らと明るく、そして細く柔らかい雨が窓を優しく叩いていました。その窓の外に女が立っているのが見えました。
 オラは城の外へ出て、女の方へ歩み寄りました。オラに気づいた女は岬の先端から、オラのほうへ振り返りました。女はオラを見るなり、笑ったように、あるいは笑おうと努めたように見えました。しかしその顔の下には隠しようのない苦痛が見えました。悲しみが見えました。淋しさが見えました。女は目に涙を湛えていました。
 オラが更に近づくと女が岬のへりへ向かって一歩後ろに下がりました。オラは危ないゾ、早く戻ってくるんだゾ、と言いました。すると女は、オラと出会ってから初めて声を上げたのです。
「たーーい!」
 オラはその時になってようやく、己の犯した罪に気づき愕然としました。オラは女を抱きました。オラは女と四度交わりました。互いが互いの肉を貪り合いました。
 女の名前はひまわり。オラの妹でした。
 ひまわりはオラの見ている目の前で、ゆっくりと後ろへ向かって倒れました。ひまわりの姿が消えました。世界からひまわりが消えました。恐ろしい、世界が割れるような叫び声とともに、大地が激しく揺れました。城は跡形もなく崩れました。オラは岬の先端から下を覗きました。灰色の海は姿を消し、代わりに乾ききった荒野が地の果まで続いていました。
 そしてオラはようやく、オラが贖うべき罪を見出しました。


4.

 それから随分遠くまで行きました。闇がオラの背後をぴったりと追いかけてきました。オラは行く先々であらゆるものを、森を家畜を本を建物を服を武器を金を男を女を老人を赤子を火に焚べました。そうしなければ火はたちまち闇に呑まれ消えてしまうから。
 しんのすけ、なによりも闇を恐れるのだ。無明の闇を恐れるのだ。忘れるな、火を絶やしてはならない。たとえ他の一切を火に焚べたとしても。
 はい、父ちゃん。オラは他の一切を火に焚べます。
 忘れるな、わが咎人の父祖の血を。その宿業。左目のうつろに誓って。
 はい、父ちゃん。オラは父ちゃんの左目のうつろをもって狙いを定めます。

 村から村へ、街から街へ、国から国へ、すべてを燃やしてオラは西へ西へと進み、やがて世界の果へ辿りつきました。そこには一人の男がいました。男は一振りの刀を持っていました。男の首から上は豚そのものでした。
 男は言いました。
「行動の果に何が起きようとも構わない。大事なのは自分の行為に責任を取ることだ。われわれには結果はもはや必要ではない。大事なのは行為そのものが持つ意味なのだ」
 男はハッと大声を出して肺の空気を全て吐き出すと、自らの腹に刀を突き立て、真一文字に引きました。男の腹からは男の肌と同じくらいピンク色をしたはらわたが「どろり」と滑り出してきました。男は正座をしたまま前に斃れました。そしてがくがくと激しく痙攣をし、動かなくなりました。オラはその男を火に焚べました。
 日が沈みました。とこしえの夜が来ました。まことの闇が来ました。オラにはもう何もありません。火はゆっくりと小さくなっていきました。オラは身に着けていた衣類一切をそこに焚べました。それから、左目を取り出してそこに投げ入れました。火がバッと勢いよく燃え上がり、そしてまた静かになりました。闇が、光りなき眼が、そこら中からオラを見ていました。
 オラは臀部を星無き天に(あの闇の向こうに今もそれは光り輝いているのでしょうか?)、そして頭を地面に近づけました。そして二本の足でちょこちょこと、とても細かいステップを踏みダンスを踊りました。ひまわりと踊った、あの夜のように。オラの臀部は中央の焔に照らされ、オラそっくりの無数の影がオラを取り囲んで同じようにダンスを踊りました。オラはダンスを踊りました。オラはダンスを踊りました。オラはダンスを……。
 火が俄かに揺れ、一瞬消えかけました。
 消えたくない! オラは消えたくない! オラは闇に向かって叫びました。
 しんのすけ、何を恐れている? 早くお前もこちらに来なさい。ここはとてもあたたかい。しんのすけ? 何を迷うことがあるんだ?
 オラは消えたくない! オラは存在していたい! オラは永遠に……!
 闇がしんと静まり返り、次の瞬間、一斉に哄笑しました。そして口々にこういうのです。
 言った。言った。ついに言ったぞ。あの小僧。ならば良し。お前は永遠に、永遠に……!
 火が消えました。まことの闇がおとずれました。オラはまだそこにいて、ダンスを踊っていました。
 父ちゃん。火が消えました。焚べるべきものは最早ありません。オラは、オラはどうしたらいいですか?
 闇は答えませんでした。オラは左目のうつろで狙いを定めました。そこに狩るべき獣はいませんでした。何処にも。ここにはオラしかいませんでした。闇さえもいませんでした。それもそのはずでした。最早彼らを照らす光は何処にもないのだから。ここには二度と終ることのない寒さと静けさだけがありました。
 そこでオラはダンスを踊りました。オラはダンスを踊りました。オラはダンスを。ダンスを。ダンスを。ダンスを。ダンスを。

0.

 墓標には「Sin-nosuke.N」と書かれていました。オラの名前が書かれていました。墓標の前にはオラと父ちゃんがいました。
「しかしそれでも、魂は、永遠ではないのですか?」とオラは父ちゃんに尋ねました。
 父ちゃんは左の硝子の目を指でいじくりつつ、オラを見てこう言いました。
「永遠! 永遠だと……いいか、しんのすけ。そんなものはペテンの言うことだ。詐欺師の言葉だ」
 父ちゃんは喫っていた煙草を地面に落とし、忌々しげに靴の底で踏みつぶして、
「第一、永遠という保証なくして、人はどうやって神を信じるのだ?」
 そう言って口元を歪めて、ひどく醜く嗤いました。

 父ちゃん。オラは火を絶やしました。

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