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 玄関のドアを開けると息を切らした中年の男が一人立っていた。 
 男が着ているグレーのTシャツは首から胸元そして脇の下がぐっしょりと汗で黒く染まっていた。男の額からふつふつと湧き上がる汗が頬から顎へと流れ落ち、ぽたぽたとマンションの廊下に落ちてちょっとした染みを作っていた。ショートパンツから見える、年齢の割に引き締まった太腿は気持ちのいい小麦色に焼き上がり、やはり滴る汗でしっとりと濡れていた。男はセクシーな唇をきゅっと噛み締めて、何も言わず僕を見つめていた。その顔はなんだか、少しばかり怒っているようにも見えた。男の目はやや小さく、黒目の部分が大きかった。僕は困惑して男の顔を見つめた。見つめているうちに何だか、どこかで見たことのあるような気がしてきた。男はしばらくのあいだ、はぁはぁと肩で荒い息をしていたのだが、ようやく呼吸を整えると一言、
「やれやれ」 
 と呟いた。 
 あっ。そこで僕はようやくこの男の正体に気づいた。

 男はハルキムラカミその人だった。

 ウチのリビングのソファにハルキがどしんと座っている。ハルキは憮然とした表情を浮かべながら、手の甲で喉元の汗を何度か拭った。
「あのぅ……何か、飲まれますか?」 
 僕はおずおずと尋ねた。ハルキはまるで聞こえてないのか、正面のテレビ画面(ヤクルト対阪神戦、デイゲーム、四回表)を見据え、首をコリコリと回し、それからやっと僕のほうをチラリとだけ見て、
「スコッチを、オンザロックで」
 と言った。
 ウチにスコッチはない。
「ウチにスコッチは無いんです。すいません。麦茶なら、あるんですけど……」
 と僕が言うと、ハルキは眉を顰めて、まるで僕がいきなりブルガリア語か何かを喋りだしたみたいな顔をした。 そんな顔をされても、僕はハルキムラカミではなくただのしがないサラリーマンなのだ。いやサラリーマンと言うのも嘘で、つい先日退職したところだからただの失業者。いずれにしても、家にスコッチを常備するような、洒落た生活をしているわけでは無い。
 ハルキは「やれやれ」とばかりにかぶりを振り、
 「じゃあ、ムギッチャを、オンザロックで」
 と言った。

 ハルキは氷の入った麦茶をとても美味そうにごくごくと飲んだ。一息に飲み干すとふぅーっ、とため息を吐き、ようやく人心地ついたように見えた。僕は台所からスツールを一脚持ってきてソファの隣において膝を合わせて座り、軽く咳払いをしてから、「あのぅ、それで、今日はどういったご用件で……?」と尋ねた。ハルキはお尻のポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出して、煙草を一本出して口にくわえ、ライターで火をつけた。ハルキは実に美味そうに煙を喫った。彼の吐いた煙がリビングの空中をしばし漂うのを僕は眺め、これじゃあ後で妻にどやされるなと考えた。妻は煙草の匂いが大嫌いなのだ。
 そんなことを考えていたものだから、ハルキが何か言ったのを僕は聞き逃してしまっていた。「えっ?」と聞き返すと、ハルキはじっと僕の顔を見て、それからぼそりと、
「だから、Twitter」
「……ええと、Twitterが、なにか……?」
ハルキは煙草が入っていたほうとは反対側のお尻のポケットからアイ・ホンを取り出して、その画面を僕に見せた。そこには僕のTwitterアカウントが表示されていた。
「なんて、書いてある?」
 ハルキがゆっくりと、しかし毅然とした口調で僕に尋ねてくる。
「あ……その……ええと」
「なんて、書いてある?」

 僕は一瞬だけハルキの目を見て、すぐに下を向き、やがてハルキのアイ・ホンの画面を見据え、
「……『村上春樹は、北海道の旭川で邪悪な羊を大量に放牧している』……」
 と、そこに表示された僕自身のツイートを読み上げた。まるで親に向かって自分の悪事を告解するときのような気分になり、僕の口の中はカラカラに乾いてしまった。
 ハルキはアイ・ホンの画面を二、三叩き、それを再び僕に見せた。そして再度、促すように僕をじっと見つめて、静かに、したたかに頷きかけてきた。

 僕はしぶしぶそれを読み上げた。
「『てか皆んなで村上春樹さんが全裸日光浴したあと大量の虫に襲われた島行かん?笑 』……」
 ああ、スコッチなんかをオン・ザ・ロックで、一息に呷りたいなと僕は思った。何なら、これから先は一生、スコッチをウチに常備したって構わない。
 ハルキはアイ・ホンを再び尻のポケットに仕舞うと、むすっとした顔で腕を組みソファに深く腰掛けた。
 僕の喉は張り付き、肺はうまく酸素を捉えることが出来ないでいた。傾いた陽の光が部屋の中へ差し込んでいた。ハルキは左右の膝を小さく揺すり続けた。再び煙草を一本くわえ、火をつけ、二、三口ほど慌ただしく吸うと、乱暴にポケット灰皿に擦り付けた。海の底にすっかり沈み込んでしまったような硬い沈黙が部屋を満たしていた。
「……すいませんでした」
 僕はハルキに頭を下げた。ハルキは一瞬だけ僕を見て、それから落ち着かない様子でじっと正面のテレビを見つめた(ヤクルトの投手が打たれている)。それから、ようやく口を開いた。
「……変かな? 僕の書く本は……」
「あ……」
 僕はハルキを見た。彼の二つの黒い目はしっとりと濡れていた。目の奥では黒い液体が渦を巻いているのが見えた。その渦は、この世界のずっと奥の、深いところへと繋がっていた。
「あ……あの、いえ、その、確かに、変、というか、明示された物語が見えづらい、というか、や、でも、その、なんと言いますか、現実を超えるというか、そういう、顕在化された世界の裏にある、どろどろしたもの、かたちすらないもの、そういうものについて、本当によく書かれている、というか、なんだろう、本当に面白い……面白いと思います、はい、マジで」
 ハルキはしばらくのあいだじっと僕の顔を見つめ、僕の言った内容について考えているようだった。そして再び視線を正面のテレビへ戻した。左の肘あたりをぽりぽりと掻いて、何度か僕のほうをチラチラと見て、煙草を二本ほど喫った。
 ヤクルトの打者が打った。大きな当たりが、放物線を描いてスタンドへと吸い込まれた。
 「よし」
 ハルキは両膝をぽんと叩き、おもむろに立ち上がった。

 鍋にいっぱいの水がふつふつと沸騰しはじめた。ハルキはオリーブオイルとガーリックを弱火で熱しながら、ふと思い立ったように台所中をうろうろと歩き回り、手あたり次第に棚や引き出しを片っ端から開け、
「パスタは?!」
 と叫んだ。
 ウチにパスタは無かった。
「ウチにパスタは無いですね」
 と僕は言った。
 ハルキは目と口をあんぐりと開いて僕を見た。
 この人、こんなに大きく目と口を開けるんだなと僕は思った。ハルキはその顔のまま、水のたっぷり入った鍋を見て、また僕を見た。
 僕は冷凍庫を開け、「うどんなら、あるんすけど」と言った。
「やれやれ」とハルキは言った。
 ハルキはその冷凍うどん二人前を鍋に入れ、8分ほど茹でた。ハルキは微動だにせず、持参したキッチン・タイマーを睨んでいた。
 僕はシンクに捨ておかれた冷凍うどんのパッケージをチラリと見た。そこには茹で時間:約1分、と書かれていた。ハルキは「泥棒かささぎ」を口笛を吹きながらキッチンタイマーを睨んでいた。
 更に二分ほど経った。ハルキは鍋からうどんを一本、箸で掴んでスボボッと吸い込んだ。そして目を瞑り茹で具合を確かめるように、もにゅ・もにゅと何度か噛み、首を少し傾げ、どことなく悲しげな顔をした。その顔で僕のほうをチラリと見て、もう一度鍋のなかのうどんを見て、もう一度僕を見て、やがて自分を納得させるように力強く何度か頷いた。小声で「仕方ない」「それは起こるべくして起こった」と何度か呟いた。
 ハルキはうどんをザルに上げ氷水でさっと締め、それを茹で汁と一緒にオリーブオイルとガーリックの入ったフライパンに入れた。慣れた手つきで軽く和え、食器棚から二枚の皿を取り出して盛りつけた。ガーリックのいい匂いがした。
 ハルキは調理に使った鍋やフライパンを洗い、それから手を丁寧に洗い、シンク下のキャビネットの取手にかけたタオルで拭いた。そして腕時計をチラリと見ると、無言のまま台所を飛び出してリビングへ行き、ぐるりと一周見回し、首を傾げ、頬に右手を当てて俯くように暫くのあいだ、ただ黙ってその場に立ち尽くした。僕もまたその傍らにじっと立って、ハルキを見つめた。ハルキは物思いにふけるようにリビングに敷かれたラグマットに目を落としていた。もしかすると、何か次回作の構想が……? と思い、固唾を呑んで見守っていると、再びハルキが動き出し、リビングを抜け隣の部屋(僕と妻の寝室だ)に入っていった。僕も慌ててその後を追った。
 ハルキは寝室(僕と、妻の寝室だ)に入るや、ベットの上にどしどしと上がり(僕と、妻のベットだ)、東側の壁にぴたりと耳を当て目を瞑り、右手の甲の部分でこんこん、こんこん……と小さくノックし出した。
「あの、いったいなにを……」
 しっ、とハルキが人差し指をふっくらとした唇にあてて僕が喋るのを制した。それはとてもセクシーな仕草に見え、僕はドキリとしてしまった。ハルキはなおも壁に耳を当て、ノックし、応答が返ってくるのを待った。何度か場所を変えてそれを繰り返した。そしてちょうど壁のど真ん中あたりでそれを見つけたようだった。
 ハルキは僕を見た。彼の黒い瞳のなかに僕がいるのが見えた。ハルキは静かに、小さく頷き、そして控えめに微笑んだ。
 僕は訳もわからず、とりあえず頷き返し、ぎこちなく微笑んだ。
「壁抜けは、誰にだって出来る。それをイメージできるなら、ね」
 ハルキはそう言うと目をきつく閉じ、全身(汗をたっぷりとかいた剥き出しの腕や太ももやふくらはぎや、やはり汗で黒く変色したグレーのTシャツごと)を壁にぴたりと貼り付けた。まるで獲物を狙うヤモリのように30秒ほど、ハルキはそのような姿勢のまま微動だにしなかった。窓の外から車のクラクションが二度ほど立て続けに鳴り、僕は重心を右足、左足、そして右足へと移し替えた。
 するとハルキの顔がちょっとずつ、壁にめり込み始めた。顔と言わず、壁にひっつけた腕、足、胸、腹、要は全身が音もなく、壁にめり込んでいった。壁は今や壁ではなく、何というか、液体と固体のあいだの、ゼラチンのような何かに変容していた。僕が別れの言葉を告げるまもなく、ハルキはあっという間に壁の中へと消えていった。ハルキが消えたあとの壁に恐る恐る触れ、拳で叩いてみた。それは元の通りの、いつもの寝室の固い壁だった。
「何してるの?」
 いつのまにか帰ってきていた妻が、部屋の扉のところから顔だけ出してこちらを見ていた。僕はぱっと手を壁から離して、
「いや、ハルキが、壁抜け……」と言った。
 妻はそれが冗談なのか何なのか図りかねているといった顔で僕をちょっと眺めてからリビングへと戻った。

 その日の夕食はハルキムラカミの作ってくれた皿うどんを二人で食べた。
 妻はうどんをひと口啜り、顔を顰め、「茹ですぎじゃない?」と言った。
 やれやれ、と僕はかぶりを振った。

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