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恋の至近弾【7/8】愛しているのは誰ですか?

(前のエピソード)
恋の至近弾【6/8】恋の至近弾

「さて、最後だ」

「今度はどんなパターンでしょうか?」

「これぞ純愛というのがいるらしい。私も詳しいことは知らない」

「最初の大川さんは違うんですか?」

「あれは単なる幼い恋だ。言っておくが、最後の村山さんも違う」

「まあ、彼は純愛を求めているんですよね。なかなか手に入らないみたいですけど」

「百聞は一見にしかず。まあ、話を聞いてみよう。どうぞお入りください」

 ドアが開き、男が入ってきた。これまでで一番若い。二十代後半ぐらいか。彼は一礼して椅子に座ると、自らのことを語り始めた。

 安田宏和です。私の恋の話をさせていただきます。その女性に会ったのは、大学入試の時でした。第一志望の大学で、同じ教室で試験を受けていたのです。

「ふむふむ」

 教室に入るなり、私は彼女に目を奪われました。その瞬間、私は絶対にこの大学に入ってやると、固く心に決めたのです。

「ははは」

「いいですねえ」

 彼女はかなりの美人でした。何とも清楚な雰囲気で、私には彼女のまわりだけ空気が澄んで見えたほどです。

 試験が始まると、私は懇親の力を振り絞って早々に答案を完成させ、余った時間で彼女をじっと見つめていました。そして心の中で、がんばれよ。一緒にこの学校へ入ろうと応援し続けました。気がつくと、試験監督が不審な目で私を見ていることに気がつき、あわてて視線をそらしました。

「そりゃそうですよね」

 それから合格発表の日まで、私の頭は彼女のことでいっぱいでした。もはや、彼女抜きの大学生活など考えられなくなってしまったのです。

 発表当日、私は合格掲示板で自分の受験番号を見つけると、すぐさま彼女の番号、3176も探しました。

「ちゃんとチェックしていたわけだ」

「微笑ましいですね」

 その番号が目に入った瞬間、私の視界はパッと明るくなり、全身がじわじわと温かいもので満たされていきました。やった、やったのです。自分の合格より、はるかに嬉しかったことを覚えています。

 その時、「あった!」という声が聞こえました。振り向くと、満面の笑顔を浮かべた彼女がいました。

「おおっ」

 母親と一緒に合格発表を見に来ていた彼女は、愛らしい姿で、飛び跳ねて喜んでいます。私は思わず彼女に声をかけました。「おめでとうございます」と。彼女は輝く笑顔で「ありがとうございます」と答えてくれました。それが彼女、園田美沙と初めて交わした言葉でした。

「いい感じだね」

「期待が持てますね」

 四月になり、待ちに待った入学式の日がやってきました。私は美沙を見かけると、すぐに声をかけました。彼女は私を覚えていて、にっこりと微笑んでくれました。

 美沙とクラスまで一緒だったのはラッキーでした。ただ、ご存知の通り、大学というところはクラスでの結びつきがそんなに強くありません。

「そうですね」

 私は美沙が入部した英会話のサークルに入りました。もともと彼女がテニスをやるならテニス、スキーをやるならスキーサークルに入る覚悟でいたのです。

「ははは」

「一歩間違うと、ストーカーだな」

 大学生活は授業、サークルとも、とても新鮮でした。私は、ほぼ毎日、美沙と顔を合わせることができました。彼女は基本的に女友達と一緒にいましたから、二人きりになかなかなれませんでしたが、私は十分幸せでした。美沙と同じ空間にいて、同じ空気を吸えるだけで、とても嬉しかったのです。

「それだけで満足していたのですか?」

 いいえ。私は、努めて彼女に話しかけるようにして、徐々に距離を縮めていこうとしました。

「そうですよね」

「いいぞ」

 しかし、もう一歩、私が踏み込もうとすると、彼女はすっと後ろに下がってしまいます。なかなか友人以上の親密な関係にはなれませんでした。今思うと、ちまちまとアプローチしてないで、最初からいきなり美沙に告白、好きだ宣言でもやった方がよかったのかもしれません。

「それはどうですかね?」

「成功する空気とかタイミングがあるからな。やみくもに突進しても、ほとんどの場合は玉砕だ」

 それでもいいのです。はっきり言って断られたら、まだあきらめがついたかもしれません。私はじわじわ近づいては一歩後退を繰り返し続けました。

 美沙はサークルの男子からも大人気でした。誰が見ても彼女は美人でしたから、当然です。私は彼女と同じ学科で同じクラスだというだけで、周囲の羨望を集めたものです。一般教養の授業で、たまたま彼女の隣に座っていただけで、安田は美沙とできている?と、軽く嫉妬混じりの噂を立てられたりしたほどでした。まあ、その時は、正直ちょっと嬉しかったですけどね。

「ははは」

 五月にサークルの春合宿がありました。前半はまじめに英語を使ったディスカッションやディベートを行いますが、最後の一日は遊び、レクリエーションです。昼は宿舎のそばの湖でボートレース、夜は食事と入浴後にダンスパーティをやりました。

「青春やなあ。君はそんな時あったか?」

「ありましたよ、師匠。はるか昔ですけど。その頃に帰りたいです」

「まあ、その頃はその頃で、金はないし、いろいろ経験不足で悩みも多かったはずだ。でも、そんなのは全部忘れてしまって、残るのは美しい想い出だけか。おっと、すみません。話を続けてください」

 そのダンスパーティは、抽選でパートナーを決めるのですが、私の相手は何と美沙でした。その場にいた男全員の突き刺さるような視線を感じながら、私は彼女とチークダンスを踊りました。

「おおっ」

「いいですねえ」

 風呂上がりの美沙は、とてもいい香りがしました。彼女の見た目はスリムなのですが、体に触れてみると、何とも柔らかくて指がめり込みそうな気がしました。意外と肉付きがいいのです。もっと骨っぽい感触を予想していただけに意外でした。

「腕や肩を触っただけで、全身のスタイルってわかりますよね」

「出るところは出ていたわけだ」

 美しい彼女の顔が、私の顔のすぐそばにありました。大きな瞳にミラーボールの光がキラキラと反射しています。私は思わず、彼女をぐっと抱き寄せました。

「おっ」

「いった?」

 でも、彼女はフフッといたずらっぽく笑うと、私をグイと押しのけました。結構、強い力でした。

「ははは、残念」

「惜しいなあ」

 一瞬がっかりしましたが、すぐに燃えるような思いがわき上がってきました。もう中途半端は我慢できないと思ったのです。美沙を何としても自分のものにしたい、今すぐ自分の彼女にしたいと心から願いました。

「おおっ、火がつきましたね」

「わかりやすいきっかけだな」

 その時から、私は美沙と二人になる機会をひたすら求めました。サークルで、授業で、時には待ち伏せまがいのことまでやりました。もちろん、彼女に交際を申し込むためです。

 ところが、いざそうしようとすると、なかなかチャンスは来ないものです。サークルの合宿前には同じクラスだったこともあり、結構二人でいることもあったのですが、それがパタッとなくなりました。いつも彼女の友人がいたり、私の方に連れがいたりして、タイミングが合いません。

「電話すればいいのに」

「もう、その頃は携帯があったでしょう?」

 ありましたし、もちろんそれも考えました。ただ、そのへんは微妙なところでした。サークルの名簿がありましたから、私は彼女の電話番号とメールアドレスを見ることができました。ただ、それまで一度も電話やメールを彼女としたことがありませんでしたから、いきなり携帯で呼び出すのはちょっと気が引けたのです。

「まあ、そうだね」

 美沙を攻めあぐねてジリジリしていた、ある日のことです。私は夕方の授業をサボって、サークルの友人数人と居酒屋へ行きました。その時間に行けば、タイムサービスでビールが安かったからです。何杯か飲んだ後、友人の一人が私たちの顔を見回しながら、ポツリと言いました。

「知ってる?神崎のこと」

 神崎浩一は同じサークルにいた背の高いハンサムな男でした。私たちは何?何?と、彼の噂話に聞き耳を立てました。

「園田美沙とつき合っているって」

 時間が止まり、私の体からスーッと酒が抜けました。

「あちゃー」

「うわー」

 場は一挙に盛り上がり、「いつから?」とか、「あいつ、もうやったのか?」と質問が飛び交いました。私は衝撃で口がきけなくなり、その場でずっと固まっていました。

 かろうじて耳に入った情報はさらに残酷でした。神崎はどうやら、合宿のダンスパーティで美沙に告白したようでした。それも、私の後で彼女と踊ったチークダンスで。美沙は神崎を受け入れたのです。私は突き飛ばしたのに。

「それはきついな」

 どうにか二次会の誘いを断り、私はフラフラと夜の街をさまよいました。街中のみんなが私を笑っているような気がしたのを覚えています。ゲームセンターへ入ってやりたくもないゲームをやり、喫茶店で飲みたくもないコーヒーを飲みました。

 気がつくと私は自分の下宿へ帰り、ベッドで泣いていました。まるで自分の存在が全否定されたようでした。何のために大学へ、何のためにこのサークルへと思うと、自分が限りない馬鹿に思え、生まれて初めて死にたいと感じました。

「おいおい」

 その晩、夢を見ました。美沙が神崎とつき合っていたなんてデマだという夢です。美沙は明るく笑いながら私に言いました。

「いやだ、ひろくん。ないって。信じちゃったの、それ?」

 朝起きると、気持ちが少し軽くなっていました。夢は私に何かのメッセージをくれたのかもしれません。何だかんだ言っても、自分の目で確かめないと何も言えないなと思いました。私は気を取り直して身支度をし、大学へ向かいました。

「とは言ってもねえ」

「うーん」

 お察しの通りです。その日のうちに、私はキャンパスで寄り添って歩く美沙と神崎の後ろ姿を目撃しました。

「あちゃー」

 でも、よく似た二人かもしれません。私は走ってまわり道して二人をずっと追い越し、前にまわって顔を確認しました。やはり美沙と神崎でした。ほのかな希望は吹き飛び、再び気持ちが奈落の底へ沈んでいきました。

「残念」

 その日は授業に出る気をなくし、家に帰りました。頭から布団をかぶって泣き、疲れると寝て、目が醒めたら、また泣きました。俺なんかこのまま消えてしまえばいいのにと思ったことを覚えています。

「青春の一ページだな」

「誰でも通る道ですよね。ぼくだって経験ありますよ」

「ろくに失恋もせずに生きてきた奴は、ろくな大人にならん。何事も自分の思い通りにならんことを知るのは大切だ」

 おっしゃることはよくわかります。ただ、十八歳の私にとっては、美沙にふられたことは自分が全否定されたこと、もっと言えば、おまえなんかこの世から消えてしまえと宣言されたのに等しかったのです。

 その後二~三日は大学をサボり、家でフラフラしていました。しかし、自分で言うのも何ですが、私は根が真面目にできています。ずっとサボり続けることはできないたちです。その週の終わりには何とか気を取り直してキャンパスへ向かいました。

 授業へは出ましたが、当然ながらサークルになど行く気がしません。私はできるだけ美沙と会わないようコソコソ隠れるみたいにして過ごしました。

「ははは」

 一番危険なタイミングは語学などの必修科目です。クラス単位で授業を受けるわけで、そこには必ず美沙がいるからです。私はいつも始業直前に教室へ滑り込み、美沙から一番離れた席に座りました。そして授業が終わると同時に脱兎のごとく教室を飛び出したのです。美沙がこちらを見ていたり、話しかけたそうにしていたのには気づいていましたが、気づかぬふりをしていました。心のバリアで彼女を閉め出さない限り、自分が壊れそうだったからです。

「なるほどねえ」

「気持ちはわかりますよ」

 それからしばらくの間は男友達とも全くつき合わず、ずっと一人で過ごしていました。携帯のメールアドレスと電話番号は変えて、実家の家族にしか教えませんでした。無断欠席を続けていたサークルの連中から連絡が欲しくなかったのです。とにかく彼らとかかわりたくなくて、退部届すら出しに行くのが嫌でした。

「重傷ですね」

 そんなある日の午後です。私は授業の後にキャンパスのベンチで本を読んでいました。その後、映画にでも行こうかと思っていたのですが、まだ早かったので時間をつぶしていました。私はいつの間にか一人で過ごすのにも慣れ、静かな時間を愛するようになっていました。

 ふと気配を感じ、顔を上げると美沙がいました。何もいわず、ただこちらをじっと見つめています。目が潤んでいたように見えたのは思い過ごしでしょうか。私も何も言わず、しばらく見つめ合った後、美沙がポツリと言いました。

「部室に行こう」

 もう俺はサークルを辞めるから行かないのだと言おうとしたのですが、無理でした。逆に私は可愛く手招きする美沙にフラフラとついて行ってしまいました。

「あらあら」

 そこから起こったことは今でも夢のようです。部室に行くと、サークルのみんなが歓声と共に拍手で私を迎えてくれました。「どうしたんだよ?」とか、「生きていたのか?」と口々に声をかけてきます。まるで行方不明者が久しぶりに家へ帰ったような扱いです。誰もサークルへ行かなかった理由は知りませんし、それに美沙本人がいるところで言う話でもありません。結局、二が月以上の空白期間についてはいろいろ皆に訊かれましたが、うやむやのまま終わらせました。

 そして、その日は「復帰祝い」ということで、そのまま飲みに連れて行かれました。店では私の隣に美沙が座り、いつになく世話をやいてくれました。料理を取ってくれたり、飲み物の心配をしたり。私の顔をのぞきこんで、あれやこれやと話しかけてきます。何とか心のバリアーを設けて彼女を寄せつけないようにしようとしたのですが、無駄でした。身近で見る美沙のまぶしい笑顔は、春の太陽のように私の凍りついた心を溶かしてしまいました。

 帰り際、駅で別れる際に美沙はわざわざ私のところへ駆け寄って来て小声でささやきました。

「ひろくん」

 彼女の目は潤んでいました。

「サークル、やめないで」

 お笑いください。私は単純な男です。情けない男です。神崎がその場にいなかったこともあり、実はもう美沙は彼と別れたのではないかとか、本当は私のことを好きだったのではないかと思ってしまったのですから。

「いや、それはそう思うでしょう」

「普通だよ」

 翌日、私は街で神崎と手をつないで歩く美沙を目撃し、はかない希望が一瞬で崩れさりました。何も変わってなどいなかったのです。私は自分の愚かさを呪い、またもや心の底から死にたくなりました。

「おいおい」

「でも、何とか持ちこたえたわけですよね。ここにいらっしゃるわけだから」

 はい。さすがに最初ほどの衝撃はなかったですね。二回目ですし。丸一日落ち込むぐらいですみました。

「よかった」

 ここまでお聞きいただいて、何だ、普通の失恋話かと思われたかもしれません。私の特殊な体験は、ここからです。

「お聞きしましょう」

 それから卒業までの三年間、私は静かな大学生活をおくりました。美沙が私にとって、ど真ん中ストライクであることは変えようがありません。だけど、もう自分のものにしようとあがいたりはしませんでした。彼女が神崎のものであるという事実を受け入れようとしたのです。

 私自身はサークルの同期とはいえ、神崎との直接のつき合いがほとんどありませんでしたが、彼と親交のある田中という男とは仲良くしておりました。したがって、美沙と神崎の様子も田中から否応なしに私の耳へ入ってきました。もちろん、田中には私の片思いのことなど言っていません。二人の話は、やれどこに遊びに出かけただの、ちょっと喧嘩しただのと、それはたわいもない、微笑ましいものでした。最初は軽い嫉妬を覚えたものですが、いつしか私は二人の幸せを祈るようになっていました。美沙が神崎といることを選んだのですから、それでいいと思ったのです。

 ただ、大学のそばにあった喫茶店、『ラベンダー』にだけは近寄りたくありませんでした。そこは美沙と神崎がよくデートしていた店です。美沙がよくそこの自家製ケーキを食べていたと聞きました。そこのケーキは美味しいと評判だったのですが、私は一度も食べに行ったことはありません。甘い物は結構好きなのですが。それどころか、やむなくその店の前を通る時は、顔をそむけるようにしていました。さすがに窓辺に幸せな二人の姿を見ることは、私には耐えられなかったのです。

 そして美沙は時間と共に益々美しくなっていきました。幸せな愛に包まれていたからなのでしょう。

 よその男に行きやがって、あの馬鹿女がとこきおろすには、美沙の性格は良すぎましたし、神崎も、こいつなら好かれるだろうなと男から見ても納得できる男でした。

「珍しいですね」

「確かに、美女がなんであんな男にと不思議がられるパターンの方が多いよね。逆にこいつはモテそうだなと思う男がさっぱり人気なかったりするし」

 結局、大学生活を通じて、私には彼女ができませんでした。女性と知り合う機会もあり、向こうからアプローチを受けたこともあったのですが、どうしても、その気になれませんでした。心の奥底で、まだ美沙を引きずっていたのだと思います。

 ふだんは押さえ込んでいましたが、誕生日、夏休み、クリスマスといった時期には、つい美沙のことを考えてしまう自分がいました。今頃、神崎と楽しい時間を過ごしているのだろうなと想像すると、絶望的な寂しさをおぼえたものです。

「美沙さんは安田さんにとって、よっぽど引力が強かったんでしょうね」

「人生で何人も出会わないよね、そんな異性」

 やがて、私は卒業してサラリーマンになりました。仕事は営業です。大学の友人たちとは社会人になってからも、ちょくちょく飲みに行きました。

 迷惑なことに、よく会っていた田中からは、引き続き美沙と神崎情報が入ってきました。

 卒業してからも、二人はまだ『ラベンダー』によく行っているという話だったり、やれどこに旅行に行ったのという話ですけれど、そのたびに私にはズシンときました。もういい加減にして欲しかったのですが。

「ははは」

 会社に入った翌年、私は同じ部署で同期の女性と仲良くなりました。下山京子です。大好きというほどでもなかったのですが、まあまあ気が合いました。いつの間にか会社帰りに二人で飲みに行くようになっていました。

「よかったですね」

 それは、ある土曜日の午後。はじめて二人で休日に出かけた日のことでした。ランチをして、大きな公園を一緒に散歩しました。京子と一緒にいると、胸のときめきはないのですが、違和感もありません。

 隣を歩く京子を見ながら、あまり美人じゃないけど、このまま付き合うのもありかなと思ったことを覚えています。

「ひどいな」

「わはは」

 そして公園にある美術館に行きました。印象派の展示があって、私の大好きな画家の絵が海外から来ていたのです。

 デートのいわばメインイベントでしたが、美術館を少しまわって、すぐに私は京子を連れてきたことを後悔しました。

「どうして?」

 彼女が全く絵に興味がないことがわかったからです。好きでもないのに無理矢理私につき合ってくれたのでしょう。京子はできるだけ足早にまわって、そこを出てしまいたいように感じました。

「なるほど」

「デートに誘う前に相手の好みを確認しなきゃ」

 おっしゃる通りです。ただ、若い時ですし、私はそこまで気が回りませんでした。世間で話題になっている美術展なので、無難なデート場所だと判断しました。

そんなわけで、美術に全く興味のない京子と一緒に絵を見ても楽しいはずがありません。私はまた一人で出直して来ようと思って、早々に退散することにしました。しかしその前に、好きな画家の絵だけは、ひと目見ておきたいと思い、京子とその絵のところへ向かいました。

 想像した通り、それはとても美しい絵でした。そして、私はそこでもう一つの美しいものを見たのです。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 美沙でした。卒業以来、初めて会う彼女は一層美しくなっていました。卒業後、美沙は化粧品メーカーに勤めていましたから、そこで覚えたプロの化粧術が、いっそう彼女の美しさを引き立てたに違いありません。

 美沙はかすかに微笑みながら、私の大好きな絵を一人でじっと見つめていました。有名な絵ですから、そこにはたくさんの人がいたのですが、彼女はまるで美しい絵の一部であるかのようにまわりから浮き上がって見えました。

 美沙は私の視線に気がつくと、声を出さずに口を開けました。そして満面の笑顔。その瞬間、私は隣にいた京子のことを完全に忘れてしまいました。

「うわーっ」

「あらあら」

 私たち三人はしばらく立ち話をしました。つい最近、神崎が地方へ転勤になったとのことで、美沙は一人で絵を見に来ていたのです。初めて知ったのですが、私が見たかった、あの絵は彼女にとっても大のお気に入りでした。この後も一人で買い物をして、映画を見に行くつもりだと言っていました。彼氏がいないことを寂しがっているようにも見えず、美沙は一人の時には一人なりに自分の時間を楽しめる子だとわかりました。間違いなく、彼女は内面も豊かな女性でした。

「はーっ」

 私は頭がくらくらしました。もちろん美沙の美貌は京子と比べるべくもないのですが、一人で絵を見に来る美沙、私の好きな絵をじっと見ていた美沙を好ましく思う気持ちがとめどなくわき上がり、止まりませんでした。

 それと比べて、隣の京子はどうでしょう。美術のみならず、本は読まない、映画は見ない。文化的な趣味は皆無で、飲み屋で話すのは会社の愚痴と噂話だけ。彼女から会社を取ったら何が残ると言うのか?一人でいる時、いったい何をやっているのか?なぜこんなスカスカな女と一緒に歩いているのだろうと自分を呪いたくなりました。

 美沙が私と京子に気を遣って「邪魔しちゃ悪いから」と去ろうとした時、私は思わず「そんなんじゃなくて」と言いかけて、口をつぐみました。

「まずいですよ」

「確かに可哀想。でもな、異性は会社で会ったり、夜飲みに行ったりするだけじゃなくて、プライベートで昼間の姿をじっくり観察するのは大事なんだよな」

「それにしても」

 もちろん、私も常識をわきまえた社会人です。そのような思いは一瞬よぎっただけで、別に京子へ対する態度を変えたつもりはありませんでした。

 でも女性は敏感です。美沙と別れた後、京子は「きれいな人ね」とポツリともらしたっきり、ろくにしゃべらなくなりました。京子は私の気持ちが変わったことを感じたのでしょう。私と京子の間の何かが噛み合わなくなり、それは時間と共に拡大していく一方でした。結局、その日のデートは居心地の悪いままで終わりました。

 そして、京子と私は、二度と二人で行動を共にすることはありませんでした。もう、どちらからも誘おうという気にならなかったのです。

「うーん」

「何と言うか」

 私の心に再び美沙が舞い戻って来てしまいました。それからの数年間、私は複数の女性と交際しそうになりましたが、どれもそうはなりませんでした。出会う女性をどうしても美沙と比べてしまったのでしょう。

 年に一度か二度、大学サークルの同窓会で美沙と会うことができました。その時はいつも、地方から帰ってきた神崎が一緒にいました。もう私は美沙と神崎を一体のものと見るべきだったのでしょう。でも、それはできませんでした。むしろ、神崎がその空間にいないがごとく、私はチラリチラリと美沙を見続けることしかできませんでした。何回かに一度、彼女と目が合うほんの一瞬こそが至福の時でありました。

「・・・・・・」

 そんなことが何度か続いた、ある年の同窓会です。私が皿から料理を取っていると、突然店の中が騒がしくなりました。振り向くと、満面の笑顔を浮かべた美沙と神崎を中心に輪ができていました。一斉の拍手と「おめでとう」の声。

 二人が婚約を発表したのです。万事休す。すべてが終わった瞬間でした。

「まあ・・・・・・」

「来るべきものが来たという感じなんでしょうね」

 その通りです。それを聞いた瞬間、私はむしろホッとしました。やっと美沙から解放されると思ったからです。

 半年後の結婚式は有名ホテルで、二次会は二人がよくデートしていた「ラベンダー」を貸し切って行われることになっていました。私は神崎と親しくなかったので、二次会から呼ばれるはずでした。あれほど避け続けた「ラベンダー」へ、ついに行くことになりました。永久に二人が結ばれることを祝福するために。

「よかったんじゃない?」

「これで楽になりましたね」

 もう少し聞いていただけますか。

「どうぞ」

「まだ、何かあるんですか?」

 それから半年がたちました。その頃になると、私は園田美沙という重荷から解放され、のびのびと毎日を送っていました。森尾加奈という恋人もできました。合コンで意気投合した女の子です。もはや私は美沙と比べることなく、素直に加奈の素直さ、愛らしさを受け入れることができるようになっていました。

「いいね」

「今度こそ、幸せになれたんですね」

 私もそう思っていました。話はここからです。翌週に美沙と神崎の結婚式を控えた、ある日の夜でした。田中から電話がありました。いつになくあわてた声です。その時の会話は、こんな感じでした。

「中止になった」

「何が?」

 私は訳がわからず、ぼけっと聞き返しました。

「結婚式だよ。神崎と園田の」

 田中は絞り出すような声を出しました。

「どうして?」

「婚約破棄だ」

「えーっ?」

 さっぱり意味がわかりませんでした。あの幸せそうな二人が・・・・・・。

「神崎が別の女を作ったんだ。実は園田との婚約前からつきあっていたらしい」

「・・・・・・」

「両家でしばらくもめていたようだけど、ついに結婚式はキャンセルになった」

「そんな・・・・・・」

「それだけじゃない」

「えっ?」

「三日前に園田が自殺を図った」

「なんだって?」

「薬を大量に飲んで、病院に運ばれたそうだ。手当が早かったので、命に別状はない。ただ・・・・・・」

「ただ?」

「精神に異常をきたしているらしい」

「・・・・・・」

 まるでその場にいるかのように、師匠と弟子は凍りついていた。

「何ちゅう話や」

「信じられない展開ですね」

 私はあまりのことにポカンとするばかりでした。私が愛した美沙は幸せの絶頂から地獄の底へ一気にたたき落とされてしまったのです。

 私を愛してくれなかったことは残念ですが、仕方ありません。美沙にだって、選ぶ権利があります。でも、せめて彼女には幸せになって欲しかった。愛する人には、ずっと笑顔でいて欲しかった。

 二人の間に何があったか知りませんが、私は美沙を苦しめた神崎浩一を心から憎みました。すぐにでも探し出して、死ぬまで殴りつけたい気持ちでした。

「そう思いますよね」

 一方で、美沙に何もしてやれない自分を腹立たしく思いました。すぐ彼女のもとへ飛んでいき、そばにいてあげたい。心からそう願いました。

 でも、それは私の一方的な思いであり、美沙の願いではないでしょう。彼女が欲しいのは私などではなく、神崎に違いなかったのですから。

「せつないな」

「やりきれませんね」

 そうやって、真っ暗な気持ちで落ち込んでいた時、また携帯が鳴りました。着信番号を見ると、見たことがない番号です。とりあえず出てみると、思いがけない人からの電話でした。

「ほう」

 美沙のお父さんでした。大学の友人から私の番号を聞いてかけてきたというのです。

「えーっ?」

「えーっ?」

 電話の声は最愛の娘の悲劇で疲れ果てていたのでしょう、とぎれとぎれでした。お父さんは、私にできるだけ早く美沙の病室を訪ねて欲しいと何度も懇願しました。

 美沙が私に会いたがっているというのです。

「はーっ」

 私はきっと美沙が昔のサークル仲間たちに会いたいのだと解釈しました。つらい出来事が起きる前の時間に戻りたいのでしょう。私が承諾すると、お父さんは泣きながら何度も礼を言いました。

「聞いていてつらいですね」

「たまらんな」

 翌日、会社を休んだ私は美沙が入院している病院へ駆けつけました。行ってみると、彼女は集中治療室を出て、もう一般の個室へ移っていました。病室の前には美沙のご両親が待っていて、申し訳ないと何度も私に頭を下げてくださいました。他の友人は誰もまだ来ていません。どうやら私が一番乗りのようです。

 お父さんは実業家で、ずいぶんお金持ちだと聞いていたのですが、そこにいたのは憔悴しきった、ただの弱々しい老人でした。お母さんも美沙に似て、たいへんきれいな方ですが、顔色がとても悪く、その心労ぶりがしのばれました。

 二人がどうぞと私を部屋へ案内しようとしたので、友人たちを待って、一緒に入った方がいいのではありませんか?と尋ねました。

 するとお父さんは、他の友人は誰も呼んでいない、美沙は安田さんに会いたがっているのだとおっしゃるではありませんか。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 私は不思議に思いながら病室へ入りました。ドアを開けると、美沙は眠っていました。自殺未遂だの精神に異常だの、そんな悲惨なことが本当に起こったのかと疑いたくなるような安らかな寝顔でした。

 お母さんが「安田さんが来てくださったわよ」と美沙に声をかけたので、いや起こさなくてもと言おうとした時、彼女が目を覚ましました。

 美沙は静かに目を開けると、私を見つめました。そして、その美しい顔はぱっと輝きました。

「ひろくん」

 彼女が私の名を呼んだ瞬間、美沙の両親は、わっと泣き出しました。そして私にごめんなさい、ごめんなさいと詫び続けるではありませんか。私は訳がわからず、呆然と立ちすくむばかりでした。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 美沙は私に向かって手をさしのべました。握手かと思い、私が右手を出すと、彼女は両手で優しくつかんで自分の頬に当てました。そして、会いたかったとつぶやきました。

 彼女の目は涙で潤んでいました。

 いったい何がなんだかわかりませんでした。彼女と知り合って約十年たちますが、これほどの親しみを示されたことがなかったからです。それは到底、ただのサークル仲間に対するものではありませんでした。

「どういうことなのでしょう?」

「続けて」

 私はしばらく美沙と話すうちに違和感を感じ、ある疑いが芽生えてきました。まさかそんなことがと思い、美沙のお父さんを見ると、目を真っ赤にした彼はゆっくりと私にうなずくではありませんか。

 病室を出てから、食堂でご両親に話を聞きました。救急車で病院に運び込まれ、生命の危機を脱した美沙は、目を覚ますと、ひたすら「ひろくん」に会いたいと繰り返したそうです。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 ただ、両親が彼女の話を聞いてみると、どうも、その「ひろくん」は私であり、私でないようでした。

「えっ?」

 美沙の記憶の中では、彼女がつきあっていたのは「こうちゃん」こと神崎浩一ではなく、「ひろくん」、つまりぼくに置き変わっていたのです。

 大学一年の時に知り合ってデートを重ね、一緒に旅行へ行き、卒業してから婚約した相手は神崎から私になっていました。つまり、出来事は実際に起きた通りなのですが、彼氏だけが私にすり替わっていました。

「ええーっ?」

「そんなことがあるんですか?」

 精神的なショックがそうさせているのか、大量に飲んだ薬の副作用なのかわかりません。彼女の記憶は半年以上前でとぎれていました。つまり、「私との」婚約発表の前です。そこから今日に至るまでの出来事は、まるで何も起こらなかったかのように抹消されていました。受け止めて生きるにはつらすぎたのでしょう。

 美沙のご両親は無茶なお願いとは十分承知しているが、しばらく美沙を見舞って欲しいと私に頼み込みました。私がわかりましたと答えると、帰り際にお父さんは、ほんの気持ちですと厚みのある封筒を私にくれました。明らかにお金でした。固辞しましたが、結局受け取らざるを得ませんでした。

 その封筒は今も封を切らずに取ってあります。だから、中にいくら入っているのかは知りません。

「すごいことになったなあ」

 それから毎日、病室に美沙を訪ねました。私にとってそれは心地よくもあり、苦痛でもあるひと時でありました。

 私を迎える彼女の顔は友人のそれではなく、恋人そのものでした。ずっと想いを寄せていた女性からそのように接されて、嬉しくないわけはありません。

 一方で、彼女が語る想い出話は、当然ながらすべて神崎とのそれでした。サークルでのあれこれ、私が行ったことのない喫茶店「ラベンダー」、卒業してから一緒に行った海外旅行・・・・・・。あの時は、ああだった、こうだったと言われれば言われるほど、私は疎外感を味わいました。彼女が病気である以上、それは自分じゃないと、ぴしゃりと言うこともできません。私は笑顔を作り、無理して調子を合わせ続けました。

 この十年間、私は美沙から欲しかったものを何ひとつもらうことができませんでした。私だけに向ける笑顔、優しい言葉、一緒に過ごす時間。そのすべては神崎が独占し、受け取るだけ受け取って、ヤツは彼女を捨てました。何とも罰当たりな男です。私は彼が苦しみながら死ぬことを願いました。

 愛していた美沙と初めて部屋で二人っきりになったのが、その病室です。私は何とも複雑な気持ちにとらわれながら、彼女の相手を続けました。

「でも、昔の写真を見れば、つきあっていたのが安田さんじゃないってわかるでしょう?」

 それは美沙のお母さんが試みました。いつまでも私に迷惑をかけてはいけないと思ったのでしょう。美沙が持っていた神崎の写真はすべて処分されていましたが、彼女の友人から神崎とのツーショット写真を入手することができたそうです。

「見せたわけですね?」

 はい。美沙は写真を見ました。でも、自分の隣に写っているのは神崎ではなく、私だと言い張ったそうです。

「はあ・・・・・・」

 美沙は日に日に回復し、「彼氏の記憶」以外は普通の人と変わらなくなっていました。やがて彼女は退院し、自宅へ戻ると、私はそちらへ通うようになりました。

「まだ終わらなかったんですね」

 どうにも変な関係なのです。病人なら退院すればひと区切りですが、彼女は私の「恋人」なので、そうもいきません。お恥ずかしいことに、神崎のふりをするうち、私はだんだん十年前から美沙とつきあってきたような錯覚にとらわれはじめました。

「それはそうですよ」

「仕方ないよなあ」

 問題は本物の恋人、加奈でした。毎日美沙のところへ行っていましたので、自然と彼女を放置しがちになっていました。

 私は美沙のことを正直に加奈へ打ちあけ、理解を求めました。彼女はわかったと言ってくれましたが、結局、次第に疎遠になっていきました。

「京子さんの時と同じだな」

「ほんと、女性は敏感ですよね」

 ある時、仕事で数日間の出張へ行きました。久しぶりに美沙と会わない日が続いたわけです。彼女の家は、出張から帰った翌日にまた訪問するつもりでした。

 自宅へ戻って荷物の整理をしていると、チャイムが鳴りました。ドアを開けると、満面の笑顔を浮かべた美沙が立っていました。手には食料品が詰まったスーパーの袋を抱えています。「ご飯を作ってあげる」と言いながら、彼女は部屋に入ってきました。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 美沙は鼻歌を歌いながら、料理を作り始めました。作る途中では、彼女は流しの下や食器棚を開けては、あったはずの調味料や鍋がないと不思議がりました。神崎の家にあった物が私の家になくて当然ですが、余計なことは言わずに黙っていました。どうしても必要な物は私が近所のスーパーへ買いに行くことで、ごまかしました。

 そして料理ができました。ひろくんが大好きな料理だと、美沙は言いました。私の好きなものなど彼女に言ったことはありませんから、それはイコール神崎の大好物に違いありません。

 料理をひと口食べて、私は手で顔を覆いました。

「えっ?」

 美味しかったのです。とても美味しかったのです。これを神崎は何回食べたのだろう、美沙は何回作ってあげたのだろうと考えると、涙があふれてきました。私が欲しかったのはこんな優しさだったのです。神崎の代わりとしてではなく、本当に自分に作ってくれたのであれば、どんなに嬉しかっただろう、どれほど彼女を大切にしただろうと思いました。

 どうしたの?と心配する美沙のため、私は何とか気持ちを立て直して料理を口に運びました。「あんまり美味しいから、涙が出ちゃった」と言うと、美沙は無邪気に笑いました。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 食事が終わり、二人で軽く酒を飲むと、美沙は寝てしまいました。入院以来初めての外出で料理まで作ったのですから、疲れたのでしょう。

 無邪気に眠る美沙を見ているうち、どうしても押さえきれない欲求が巻き起こりました。そう、彼女を完全に自分のものにしてしまいたいという思いです。

 私はそっと手を伸ばすと、美沙の髪をなでました。しばらくそうしていると、やがて彼女が薄目を開けました。美沙の額に軽くキスをすると、彼女は静かに微笑みました。次の瞬間、私は彼女に覆い被さり、夢中で彼女の体をまさぐっていました。

 その時です。「イヤッ」の声と共に、私はものすごい力で突き飛ばされました。尻餅をついた私は呆然と美沙を見ました。すっかり彼女はおびえています。記憶がもどったのでしょうか?私が神崎でないことに気がついたのでしょうか?

 また突き飛ばされた。その考えが浮かぶと、私は大声を上げて泣きました。さまざまな思いが駆けめぐります。神崎とは何十回、何百回もそんなことをしていたくせに、俺には一回も許さないのか。ひどい、ひどすぎる。何度も美沙から離れようとしたのに、そのたびに現れては引き戻す。そのくせ、本物の俺には何もくれようとしない。人をいったい何だと思っているのだ?あげくの果てにふられた男の代用品か?

 心の底から情けなかったです。死にたいと思いました。限界でした。もう嫌だと声を上げて叫びました。

 床に顔を埋めて泣いていると、頭に背中に暖かい感触を感じました。美沙が私にしがみついて泣いていたのでした。「ごめんね、ごめんね」と言いながら。

 私が体を起こすと、美沙はじっと私の目を見つめて、「ひろくん大好き」とつぶやきました。私は彼女を抱きしめ、そのまま朝まで過ごしました。

「あの」

 はい。

「立ち入ったことをお聞きしますが」

  何でしょう?

「結局、美沙さんとは・・・・・・?」

 まあ、それは自然な流れで。詳しい描写が必要ですか?

「いえ、結構です。ちょっと安心しました」

「馬鹿。何を訊いてるんだ」

 翌朝のことです。私が目を覚ますと、美沙の姿がありません。ふと顔を上げると、彼女が台所に立っているのが見えました。朝食を作ってくれていたのです。彼女は私が起きたのに気がつくと、恥ずかしそうにおはようと言いました。

 一緒に朝食を食べながら、もうずっとこのままでもいいかなと思いました。すると、美沙が顔をパッと輝かせて言うのです。

「ねえ、久しぶりにラベンダーに行ってみない?マスターとも、しばらく会ってないじゃない」

 そう。ラベンダーは美沙と神崎の定番の店。そして、私が一度も行ったことのない喫茶店の名前です。

「何と言っていいか、わからんな」

「それから、どうされたんですか?」

 結局、今も私は美沙とつきあっています。ラベンダーには二~三度行きましたが、行ってみると、ただの喫茶店です。

彼女はこの「彼氏入れ替わり」以外は全く正常に戻り、最近は仕事にも戻りました。休みの日は一緒に映画や美術館に行ったりして、楽しく過ごしています。料理だって、神崎じゃなくて私の好物を教え込んでいます。好みが変わったのだと言いまして。

 もう過去のことはどうでもいいと思うようになりました。大事なのは今であり、未来です。私は与えられた時間の中で美沙のことを大切にしていきたいと考えています。

「いつか美沙さんの記憶が戻ったらと、心配にはならないのですか?」

 その時はその時です。どうなろうと、私は結果を受け入れるつもりです。だって、私は何一つ悪いことをしていないのですから。

「それはそうだな」

 時々、こんな想像をすることがあります。このまま美沙と結婚して、子供ができた時のことです。その子が大きくなったら、きっと美沙はお父さんとの出会いを話すでしょう。その話は大学時代から始まります。そこには神崎であり、私である男性が現れて、美沙を愛するのです。それは、とてもとても幸せなストーリー。

 子供は私に向かって尋ねるでしょう。

「お父さん、お母さんの話、本当なの?」

 その時、私は小さくウインクしてやるつもりです。

 拍手する師匠と弟子。

「まとめようか。と言っても、今聞いた通りなんだけどな」

「これはハッピーエンドと言っていいのでしょうか?」

「わからん。でも、一つだけ言えることは」

「はい」

「どんな状況におかれても、安田さんなら大丈夫だということだ」

「彼は逃げない男ですね」

(この続きは)
恋の至近弾【8/8】エピローグ 


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