蟄蛇坏戸 ―へびかくれてとをふさぐ― (五)
<五>
温かいお茶が美味しい……。
口をつけて、咲保は感嘆の吐息を溢した。先にいただいた紅茶も美味しかったが、やはり、緑茶の方が気分が落ち着く。湯の温度もいれ方も完璧。使っている茶葉は、宇治の最高級品ではないだろうか。甘みを強く感じるが、仄かな渋みが味を引き締めている。喉越しはすっきりとして、鼻を抜ける馥郁とした香りが消えていく様がとても良い。
「だ、か、ら! どうして、そこで変だとご自分で気付きませんのっ!? おかしいって、ご自分でおわかりになるでしょうっ!」
「いや、それどころではなかったんだって、わかるだろ!? 今にも倒れそうな令嬢をお付きもなしに一人で帰らせるって、公爵家に申し訳が立たんだろうが」
「だったら、それこそ佳江さんにお任せすれば宜しいじゃございませんのっ!」
「客室にお連れした後は任せたぞ。それの何がいかんのだ?」
「あたりまえですわっ! どうして、お声がけからお任せしなかったかって聞いているんですっ! 蛇に憑かれたことにも気づかず、しかも、公衆の面前で未婚の令嬢に不埒な真似をされるなんてっ! 佳江さまに愛想を尽かされるのも当然ですわっ」
「不埒って、おまえ、相手は八歳も年下の子どもだぞ!? 邪推する方がおかしいだろうがっ!」
「来年には、お嫁に行ける年ですわ!」
咲保の前では、熾盛家の兄妹喧嘩の真っ最中だ。やはりな、と思い、仕方ないな、と咲保は思う。いずれは起きることだったのだろう。
改めて、熾盛家の兄妹三名が並んでいるところを見ると、血のつながりの濃さを感じた。それぞれ個性はあるが、長い瞳と整った彫りの深い顔立ちは共通して、特に一際、色の薄い茉莉花などは、知らぬ者からは外国人の血が混じっているのではないかと誤解されるそうだが、そんな事実はないそうだ。
そう言えば、と女学校時代を思い出せば、茉莉花の兄たちが素敵と、同級生たちが声をあげて騒いでいた記憶がある。いつも賑やかな集団が、先生に、はしたないと叱られるまでの声をあげていたのを覚えている。その時は、どうしてそんなに騒げるのかと不思議に思ったものだが、こうして会ってみれば、彼女たちの気持ちが、咲保にもなんとなくわかる気がした。品の良さは当然のことながら、滲み出る気の強さや華やかさが、よく目立つだろう。兄の楢司は、包容力と芯の太さを感じる安定感のある雰囲気で、弟の梟帥は、楢司よりもやや細身の、理知的でしなやかな発条を感じさせる雰囲気だ。こうして見る限り、嫁ぎ先を探す年頃の娘たちにとっては、夢を見たくなる相手なのかもしれないと思った。
しかし、それはあくまで外見による印象の話で、内面は、彼らとて、身近にいる親兄弟やその辺の異性となんら変わるところがない事を知るだろう。
咲保の知ることを説明する前に、まずは、楢司の背を梟帥に軽く叩いてもらった。おそらく、それで出来ると思っていたが、本当に出来た。
「試しにほんの少し、おそらく、お水一滴ぐらいのお力を指先に乗せて、お兄さまの背を軽く叩いてみてくださいませ。本当に軽く」
「え、こうかな?」
どさり、と音を立てて、楢司の身体から押し出されるように赤黒い蛇が出てきたことに、茉莉花が悲鳴をあげ、兄弟二人は呆気に取られた。
(あぁ、あれは、やはり、違う蛇だったんだわ)
咲保は独り納得し、蛇は証拠品として、すぐさま梟帥が結界箱に捕獲した。
「逃げようにも、うちの結界の外に出られなかったんだろうな。しかし、この程度のモノなら、すぐに浄化されるはずなんだけれど……?」
「本体は別にいるからではないですか」
梟帥の疑問に、咲保は答えた。
こざっぱりとした紺鼠の中羽織に着替えた梟帥からは、先程、感じた圧迫感が嘘のように消えていて、今は側にいても普通にしていられる。それにしても、長椅子に斜めに寛ぐ姿は、行儀が悪い。
「以前、まるおから聞いたのですが、分裂しながら憑依するモノは、親である大元の本体さえ守られていれば、子である分裂体も、まあまあ丈夫でいられるそうです。しかも、人に憑いている状態ですと、モノの元々の強さや憑き方にもよるそうですが、餌になる人の欲や生気は常に供給されている状態ですから、聖域であっても祓われない限りは、ある程度の耐性があるそうですよ。弱りはしますが、そこから逃げようと努力をするぐらいの体力はあるとか」
「へぇ、そうなんだ。初めて聞いた、そんなこと」
「聖域に触れて、すぐさま消滅するのは、よほど弱いモノだけだそうです」
ふうん、と梟帥は感心したようだった。
「ところで、九尾の狐はどうなったのですか?」
「ああ、今回で完全に祓ったよ。封印を破るのに随分と力を使ったせいかへろへろだったから、みんなで寄ってたかってね。封印していた岩の形は辛うじて残してあるけれど、中身はすでにないし、何年か何十年かしたら割れるんじゃないかな?」
と、軽い答えだったが、怪我人も出たと言うのだから、それなりに激しいやりとりがあったに違いない。
「で、話は戻るけれど、じゃあ、この蛇の本体って、どこにいるか知ってる?」
そこでようやく、咲保が到着するなり気分が悪くなり、ベンチに避難してからの説明を始めた。そして、案の定、環への扱いについて喧嘩になったわけだ。
「咲保さんが言っていたお嬢さんね、見に行ってみたけれど、間違いなく蛇が憑いていたよ。憑いているとわかって見ないとわからない程度の弱いヤツだけれどね、お坊ちゃん方も、全員、真っ黒。どっちも外から見ただけだから、誰が本体かまでは判断できなかったけれど。親御さんたちが知ったら、真っ青だろうねぇ」
一通り家の中を見回り、報告する梟帥はとても愉快そうだった。使用人の中にも何人か憑かれている者が見つかって、こちらは祓ったそうだ。
「それでも、こうして障りが出るほど育っていたのだから、おかしいと誰かが気付きそうなものだけれどねぇ。少しずつだったからかえって気付きにくかったのかな?」
保護という名目で回収された少年らは、今は熾盛家の離れにある座敷牢に押し込めめられていて、保護者に引き取ってもらう手筈になっているそうだ。座敷牢と言っても、外に出られないだけで、不自由なく過ごせる程度には整っている設えだそうだ。食事なども提供しているので、客人扱いと変わらない。今のところは、彼らも静かに過ごしているようだった。
「壮志気取りで、民主主義がどう人権がどうとかぶちかましてきたけれど、信念があるわけでもない、底の浅い格好つけだな。小難しいことを言いたがるのは、あの年頃にはよくあることだけれど、自由民権運動なんて、今更、流行らないしなぁ。結局は、婚約者が生意気で気に入らなかったから、大恥をかかせたかっただけみたいだ。前々からそういう計画はあったみたいだけれど、今日、親が出られなくなったとわかって、急遽、実行することに決めたらしいから、悪いことをする自覚はあったんだろうね」
彼らの話によると、一人だけ出自のわからなかった少女は、杜種家へ行儀見習いに来ていた娘だそうだ。環の侍女として行動を共にしているうち、婚約者の九島少年とも接触を得て、関係を深めたようだ。少女は、実家で不遇の扱いを受けており、出された公爵家でも、他の使用人に比べて強く当たられるとこぼしていたらしい。元々正義感の強い久島少年は、少女への同情心から、すっかり絆されてしまったようだ。他のご友人たちは、身分違いの彼らの恋を応援していたと言っているそうだが、純粋にそう思って行動していたかは怪しい。
「あれは、大した阿婆擦れだね。あの年でアレとは、先行き恐ろしい。楢司兄ぃに憑くだけのモノを飼っていただけある。根性あるよ。吉原だったらそこそこ売れっ子……おっと、失礼」
少女は、本日、環のお付きとして同行し、熾盛家に到着したところで、環のそばから離れて少年たちと合流。こっそり彼らの馬車の中で買ってもらったドレスに着替え、大勢の招待客の前で、大々的にお披露目を行なった。
「ここまで大事になるとは思わなかったとか、彼らに逆らえなかったとか色々言い訳してたけれど、口先だけだね。性根の悪さが顔に滲み出ていた。僕だったら、あんな女はごめんだなぁ。彼らも無能でない筈なのに、どうしてあれに気づかないかな?」
そして、環はと言うと、心労が祟ったのか、客間で眠り続けているそうだ。迎えが来るまでは、そっと寝かせておくことにしたらしい。やはり、小さな蛇が憑いていたそうだが、これ以上、煩わせるのは気の毒に思った茉莉花が、本人にも気づかれない内にこっそりと祓ったそうだ。
「坊ちゃん方も大人になりかけでいろいろと誘惑も多い年頃だし、身の丈以上の自尊心も育ちやすいからなぁ。格好もつけたいだろうし、その割に、世間知らずだし。それにしても、浅はか過ぎるというか、馬鹿をやったよねぇ? 黒歴史なんてものではすまないよ、あれは。一生、思い出してのたうち回るよ、恥ずかしくて。何十年経とうが誰かに思い出されて、話のネタにされるだろうしさ。いやあ、ないよねぇ!」
と、また笑う。
(こういう方なのね……)
癖の強い方だ、と茶を味わいながら咲保は、にやにや笑いをやめない梟帥を評した。せっかくの端正な顔立ちが、残念なことになっている。妙なところで面白がるところなど、人よりも妖に近い性格なのではないだろうか。でなければ、配慮の足りない子どもか――その辺りでは、嫡男の楢司の方が大人で、真面目な性格が伺える。が、今一つ、周囲に気が回らないところがあるようだ。本人なりに考えてはいるようだが、正しいことをしていても、今日のように、気配りのが足りなさから面倒を引き寄せそうな危なっかしさを感じる。
(茉莉花さまも大変ね。お母様もご苦労なさっていそう……)
熾盛家では、男たちの勝手に、女性陣があれこれと振り回されていそうだ。ふ、と佳江はどうだったのだろうか、と咲保は思った。最初は、騒いでいた同級生たちと同じように夢を見たが、実際に嫁ぎ先として過ごしてみて思うところがあったかもしれない、と茉莉花を前にたじろぐ楢司と隣でだらける梟帥を眺めて思った。
「ご兄弟の仲が良くていらっしゃるのね」
咲保が言うと、梟帥からは「ああ、そうかな」と首を傾げるような返事があった。
「他の家がどんな感じか知らないし。咲保さんのところは?」
「うちは……そうですわね。兄とはあまり接点はございませんし、茉莉花さまのように、言いたい事をポンポン言えるような感じではございませんわね」
正直に答えると、ふうん、と気のない相槌が返ってきた。
「桐眞先輩は、学園でもお堅い優等生だったからなぁ。冗談も通じなさそうで。家でもそんな感じ?」
「兄をご存知なのですか?」
「一個上の同窓。先輩は成績優秀で面倒見も良いから、当時も先生たちにも一目置かれていたかな。学生会会長も務めていたし。後輩で、今でも慕っている奴も多いと思う。僕なんかはおっかな過ぎて、近寄れもしなかったけれど」
「そうだったのですね。生憎、兄の交友関係までは存じませんので」
「雑談にも出てこない?」
「さあ、あったかもしれませんが、覚えておりませんわ」
「へぇ、そう」
咲保は、兄の桐眞から避けられているところがある。咲保もあえて一線を引く様にしている。おそらく、家族の無意識に向けられる感情さえ毒にしかならなかった幼い頃のことを、まだお互いに引きずっているせいだろう。
木栖家では、稀に咲保と同じような体質で生まれてくる者がいて、そのほとんどが長く生きられなかったらしい。両親は残されていた古い文献を漁り、手を尽くして咲保を守り育ててくれた。だが、それでも限界があり、幼い頃の咲保は独り、護りの方陣の施された部屋で過ごす事がほとんどだった。部屋の外から聞こえてくる家族の談笑する声に耳を澄まし、寂しさから腹を立てて泣いたこともある。
家族の愛情を今は疑うことはないが、幼い頃の孤独感を埋めてくれたのは、主にまるお等モノたちだった。
(あれはそういうモノだったかしらね……)
廊下で遭遇したあの大蛇は、佳江の気持ちが形になったモノではなかったかと思った。あの生け花のそばに現れたことも、象徴的だ。熾盛家のしきたりを学ぶにつれ失っていく自信や、家族に馴染みきれない疎外感などを分つ相手もおらず、佳江の中で溜まりに溜まって、今日、ついに、ふっつりと切れてしまったのではないか、と思う。見限ったと言えるかもしれない。気持ちも何もかもを捨ててしまったので、あの蛇だけ置いていかれたのではないか――確証はないが、そんな気がする。
元来の気質はどうあれ、お武家の家で育った者らしい潔さを佳江も持ち合わせていたと思えば、しっくりくる。なんであれ、あそこまで大きなモノを捨てていけたのなら、後悔はないだろう。
ただ、そんなことまで話す必要はないだろう、と言い合いを続ける熾盛家兄妹をみて思う。話したところで、彼女たちには、佳江の抱えていた気持ちの本質までは理解できないだろうから。咲保も佳江の心情のすべてを解しているわけでもなく、佳江の身勝手な行動にも変わりはない。
「ねぇ、ところでさ、さっきから気になっているのだけれど」
と、梟帥が咲保の帯を指差した。
「その帯とか着物もそうだけれど、簪もそうだし、半衿にもか。目立たないようになにやらいっぱい織り込んであるよね。神道のだけじゃなくて、陰陽道や密教とか道教なんかも混じってるのかな? 節操がないというか、えげつないというか、ものすごいことになっているよね」
大した目利きだ。なかなか気付くものではない。身の内の『気』の制御も完璧なことからも、祓い師としての実力が本物である証だろう。
「えぇ、そうですわね」
「ひょっとして、襦袢にも?」
「さようにございますわね」
両親がまるお達の協力を得て、用意してくれた支度一式だ。実用だけでなく、鴛鴦の染め絵柄の藤色の友禅も、千歳緑の源氏香柄の帯も素敵に仕上がっている。人の身には過ぎたものだが、ここまでして咲保はやっと安心して外出できるようになる。
「見せてもらっていい? 見たいんだけれど」
(は……?)
「ほんのちょっとだけ、裾をチラッと捲るだけでいいからさ。チラッとだけ」
手の怪しい動きはなんだろう。自分が何を言っているのか自覚して言っているのだろうか?
呆れた面持ちで咲保は梟帥を見ると、手首を翻した。さして威力はないものの、ぱちん、と頬で音が弾けた。
「破廉恥な真似はご遠慮くださいませ」
たとえ箱入り娘と馬鹿にされようと、このくらいの芸当は咲保にもできるのだ。十和子はかなり誤解していたようだが、殿方に縋りつき、簡単に失神できる女たちと一緒にされては困る。そうならないよう、咲保は必死で努力しているのだから。
「たーけーるー おーにーいーさーまぁあっ!! 何をしてらっしゃるのっ!!」
茉莉花の怒号が、居間全体に響き渡った。