蟄蛇坏戸 ―へびかくれてとをふさぐ― (四)
<四>
「まぁ、どうしましょう……」
「お嬢さま、お下がりください」
まるおは取り出した襷で素早く藍の袂をからげると、眦をキリリとあげて箒を両の手にして構えた。
居間を出て廊下をさほども進まないうちに、咲保たちは行手を阻まれてしまった。彼女たちの目の前には、人一人飲み込んでも余るかのような赤黒い色をした巨大な蛇が、廊下の幅いっぱいに蜷局を巻き、鎌首をもたげていた。
「まるお、平気?」
侍女はすでに臨戦態勢に入っている。箒を手に頭は手拭いを姉さんかぶりにして、いつでも掃除にかかれる姿だ。
「この程度の雑魚、まるおの敵ではございません。お嬢様には指一本ふれさせませんのでご安心を。ですが、念のためにこちらをお持ちください」
と、後ろ手で渡される物があった。一瞬、御幣かと思いきや、ハタキだ。
「祓うことまでは叶いませんが、寄せ付けない程度のことはできますゆえ」
「わかりました。まるお、気をつけてね」
ハタキの柄を握りしめて激励すれば、「お任せください」と、力強い返事があった。
咲保がまるおの邪魔にならないよう後ろに下がって距離をとれば、「せいっ!」と勇ましい掛け声と共に、まるおが大蛇に箒を振り下ろした。それを皮切りに、激しい攻防が開始された。
脳天に一撃を受けた大蛇はその輪郭を崩し、千切れ飛んだかと思われたが、それも一瞬のことで、すぐに形を取り戻し、千切れた部分は小さな蛇となって、すぐに本体と合流する。そして、鳴る威嚇の声もけたたましく、まるおを丸呑みにせんばかりの大口を開けて牙を光らせる。痛手は全くないわけではないだろうが、ほとんど影響がないように見えた。
対してまるおは少しも怯む様子もなく、向かってきた顎を素早く躱して間合いを取ると、間髪おかずに再び攻撃に出た。
「箒流乱れ打ち!」
電光石火の早業で、今度は長い首めがけて箒を繰り出す。穂先で胴体の表面を払うたび、光る粉のようなものが周囲に飛び散った。頭部の攻撃の時と同様に、抉れたように輪郭が歪むが、すぐに元通りになる。が、良く見れば、他の部分とわずかに変色している。どうやら、先ほど飛び散っていたのは鱗で、色が変わって見えるのは剥がれた跡らしい。剥がれた鱗はすぐには戻らない様子で、確実に大蛇を弱らせているようだった。
まるおの猛攻は続く。しかし、大蛇もなされるがままになっているはずもなく、蜷局を緩めると、尾の先をまるおの背後に忍ばせ、死角から襲いかかった。
「まるおっ!」
跳ね飛ばされたまるおの身体は宙に浮き、天井に叩きつけられ――と、思いきや、帯のお太鼓で衝撃を緩和すると、宙でくるりと体勢を整え、天井に足をつき一回転しながら飛び降りて、大蛇の胴体の真ん中で跳ねてから着地した。が、間髪おかず、間近に迫る大蛇の尾と首があった。
「箒流蝶叩き」
箒を柄の中央で持ち、8の字を書きながら穂先で尾を払い、反動を使って首を柄で打ち付ける。その反動でまた尾の鱗を剥がし、頭を打撃する。触れずかつ間合いをとらせずの絶妙の距離を維持したまま、目にも止まらぬ速さで繰り返し、何度でも繰り返し打ち据えた。箒を薙刀のように扱う技には、驚くばかりだ。容赦のない打擲の連続からようやく抜け出た時、大蛇は可哀想なくらいによれよれになっていた。残る力で逃げ出そうともがくが、方向転換もままならないようだった。
「成敗!」
止めとばかりに、持ち上がった喉元に箒の柄先についた金具を捩じ込むように突くと、大蛇はへなへなと力を失い、散り散りに分解するように消えていった。
「まるお、ご苦労さま。ありがとう。助かったわ」
咲保はハタキを返した。途中、彼女の方まで飛んできた鱗の残滓を払うのに、役に立った。
「お嬢さまをお守りするのがまるおの務めでございます。大事なくよぉございました」
「ずいぶんと大きかったわねぇ」
「張りぼてでございましたよ。身の程を知らず、急に力をつけて良い気になったのでございましょう。小物にはありがちな事にございます」
「まだ他にもいるのかしら」
「さて。いたとしても、大して力は残っておらぬでしょう。さほど執着も感じませんでしたので。形すら留めておらぬかと」
「そうなら良いけれど……でも、何か釈然としないわ」
咲保は周囲を見回した。あの大蛇は、本当に色欲の蛇と同一なのだろうか――? 彼女には、何か違う気がしたのだ。少女から派生したモノと似てはいたが、まるおの言う通り、明確な欲がわかるほどの執着が感じられなかった。
(もっと儚げというか、弱々しかったというか……)
表に出しはしないものの、拭いきれない不安は残る。
「……少し煤けてしまったわね。申し訳ないわ」
「熾盛家なればこの程度の片付けなど、雑作もございませんでしょう」
まるおの声に応えるかのように、突然、風が吹いた。ほんの微かに、気をつけていなければわからないほどの肌に触れるか触れないかの感触だが、咲保は身体の奥からごっそりと、何かが根こそぎ剥がされるような感覚があった。煤けて見えた壁や柱、天井までもが、一気に明るさを取り戻していく。確かに雑作もなく綺麗になったようだ。
「っ……!!」
目の前が急にひらけた違和感に、咲保は何度も瞬きを繰り返した。清々とする身軽さよりも、蹲りたくなるような頼りなさが優って感じた。何もかもが剥き出しにされたかのようだ。護りがなければ、気を失っていただろう。ぞっとするほどの攻撃的な『気』だ。軽い眩暈があったが、直接ぶつけられたわけではないからだろう、すぐに持ち直した。手も動く。肺に少し痛みがあるが、大丈夫そうだ。大きく深呼吸を繰り返して、息苦しさを緩和した。
「お嬢さま、ご無事でらっしゃいますか?」
「えぇ、なんとか……」
声が、少し掠れた。まるおからは、これまで以上の警戒心と闘気を感じる。咲保を背に庇う位置へと身体をいざらせた。
「なんで、こんなところにタヌキがいるんだ?」
柔らかいのに、どこか皮肉めいた男性の声がした。誰だろう、と怖いもの見たさに、咲保はつま先立ちになって、まるおの肩越しに覗いた。若い男がいた。筒袖の胸紐のついた白い直垂に模様のない白の括袴。黒い脛巾と手甲が違和感を誘う。全身、あちこちが薄汚れていた。
「ケダモノを祓って疲れて帰ってきてみれば、家にもケダモノが入り込んでいるなんて不快極まりないな」
「黙れ、小童がっ!」
まるお、と止める間もなく、侍女が怒りの声をあげた。
「渡来の下等な物の怪と一括りにするでないわっ、穢らわしい! 年端もいかぬ童とはいえ、無礼がすぎるぞ! 我は、由緒正しき屋島の蓑山大明神の御名を戴く屋島太三郎が眷属なるぞ! 我を守護せし、いと徳高き御神気も判ぜられぬ小僧が、粋がるな!」
「勿体ぶったところで、所詮はタヌキだろうが。人ン家で、でかい顔するんじゃねぇよ。消すぞ」
「やれるものならやってみるが良い。その高く伸びた鼻、へし折ってくれる!」
(ああ、いけない……)
売り言葉に買い言葉で、まるおはすっかり頭に血が上っているようだ。敵意を隠そうともしない。いつの間にか箒は薙刀へ、姉さん被りはくわがた結びに変化して、しかも、つのまで立てていることからも、怒りの程がわかるというものだ。大蛇との一戦で昂った気が冷め切らないうちに、再燃してしまったのだろう――灰の中の種火が燃え上げるように。咲保にはわからない感覚だが、話にはよく聞くところだ。先方も似たようなものかもしれない。
「まるお、下がりなさい!」
「お兄様っ! 何をやってらっしゃるのっ!」
咲保と、慌てた様子で駆けつけてきた茉莉花が声をかけるも、双方とも一歩も退く気配がない。それどころか、前のめりだ。
「まるお、下がって」
「いいえ、お嬢さま、斯様な侮辱を受けて黙って見過ごすは、一族の名折れ。ご心配は不要にございます。見事、恥を雪いでみせましょう」
ここで暴れることの方が、よほど恥になる――そう言ったところで、火に油を注ぐだけだ。
「業腹なのはわかるけれど、お願いだから、我慢して引いてちょうだい。家のためにも、ここは穏便に済ませて欲しいの。お父様にもこのことは伝えますから」
「ケダモノ風情が恥などと、臍で茶が沸く。せいぜい茶釜に化けて、軽業師の真似事をするのが関の山だろうが」
宥める傍から挑発するこの男はなんなのだろう。流石に、咲保も苛立った。何が面白いのか、青年の口元が笑っているのを見逃さなかった。
「梟帥兄様! 他家の方になんてことをおっしゃるのっ! 失礼よっ!?」
「おのれ、小童が!! その生意気な口、とじてくれるっ!」
「まるおっ!」
「やってみるがいい! 返り討ちにしてくれるっ!」
一旦こうなってしまうと、手がつけられない。
「えいっ!」
伝家の宝刀。まるおが薙刀を頭上に振り上げた刹那、咲保は懐から取り出した札を、むけていた背の中央に貼り付けた。ぽん、とまるおの姿は煙となって消えた。
「まったく……すこし頭を冷やしなさい」
咲保は腹立ち紛れに己の影に向かって叱りつけると、茉莉花たちに向き直り、深々と頭を下げた。
「うちの者が失礼いたしました。お許しくださいませ。この件は当家当主にも伝え、改めてお詫びさせていただきます」
「いいえ、いいえ、咲保さまが謝られることではございませんわ! どうぞ、頭をお上げになって! 頭を下げるべきはこちらですわ。元はと言えば、うちの愚兄が失礼を申したせいでしょう。本当に申し訳ございません!」
「茉莉花、タヌキだぞ!? 化け狸!」
「梟帥兄さまも謝罪なさって。木栖家と事を構えるつもりですの? これ以上の騒ぎはごめんですわ」
「木栖……伯爵家の?」
呆然としたような声に、僅かに頭を浮かせれば、茉莉花が前から彼女を庇うように両肩に手を置いた。それだけで、少し息が楽になるのを感じた。そろそろと頭を上げる。
「そうですわよ。木栖咲保さま。伯爵家の方々とは、先ほどまでお兄さまもご一緒なさっておいででしたでしょう」
「じゃあ、桐眞先輩の?」
「桐眞は兄にございます」
そう答えると、あちゃー、と額を叩くような声があがった。
「知らなかったとは言え、大変申し訳ない事をした! この通りっ、お詫び申し上げる!」
打って変わって、頭を勢いよく振り下ろすかのような謝罪があり、その勢いに、咲保の方がのけぞりそうだ。
「愚兄が本当に失礼を致しました。まさか、帰宅するなりこんなことをするなんて」
と、茉莉花の重ねての謝罪に、「不穏な気を感じたせいだ」と梟帥は言い訳を口にした。
「父上から大層な面倒事があったと聞いていたし、僕だけでも先にと言われて帰って来てみれば、物の怪やらモノの気配がするし、何事かと思うだろう」
それには、ああ、と咲保も納得した。
「それはおそらく、屋敷に入り込んでいた大蛇の物の怪のせいでしょう。お暇しようとしたところで遭遇し、この場でまるおが成敗いたしましたが、お戻りになられた梟帥さまが気付かれて、誤解なされたかと」
「え、大蛇? そんなモノがおりましたの?」
「はい。まるおが言うには小物だそうですが、私には危険なモノでございましたので、勝手して申し訳ございませんでしたが、やむなく急ぎ祓いましてございます」
それで思い出した咲保は、手を打った。
「その前に、お運びの女中さんも蛇に憑かれてらして、それもまるおが祓いましてよ。こちらも居間に倒れたままにしてありますが、もう目覚めてらっしゃるかしら」
「え、」
「……ちょっと見てくる」
茉莉花が呆気にとられ、梟帥が居間に向かった。やはり、茉莉花は気づいていなかったようだ。
「重ね重ね、咲保さまには、なんとお詫び申し上げれば良いか……」
恐縮する茉莉花に、咲保は首を横に振った。
「いえ、私もあまりに楽しすぎて、気を抜いていたのですわ。よくよく気を付けるべきでした。あれらは茉莉花さまたちにとっては、普段、気に留める必要もない小物でしょうから、お気に病まないで下さいまし。私に払い除けるだけの力があれば、なにも問題ないことでございましたから」
生来、人ならぬモノへの耐性がないくせに、やたら好かれる――その体質が、咲保を困らせている最大の原因だ。
幼い頃には、通りすがりの人に憑いていたモノに寄ってこられて、死にかけた経験もある。状況を例えるなら、夏場、その辺に飛んでいる蚊に、いきなり身体の血液の大部分を吸われてしまうような事が、普通に起こってしまった。吸われる前に、蚊を叩き殺せればいいのだが、それも咲保にはむずかしいというわけだ。対策に、蚊取り線香を炊く――ということをしても、それも強すぎれば、毒となる。そのくらいどうしようもないほどに、咲保は弱い。
だから、可能な限り集められるだけの知識を総動員して、身体に影響の出ないよう、あれこれ調整しながら防御を固め、その上で、まるおにも傍に控えてもらって、なるべく危険を遠ざけながら生活をするしかない。
外に出るのも最小限。人と会うのも最小限。だが、外ではろくに活動できない分、体力も最小限。負の連鎖だ。
とはいえ、咲保にも人並みに好奇心があるので、流行りの美味しいものは食べてみたいし、美しい景色も見てみたい。友達と買い物をしたり、おしゃべりだってしてみたいという欲がある。そうでなくとも、この先、一生、人らしい生活を切り捨てて、仙人のように暮らしていける筈もない。なんとか、人並みとはいかないまでも、少し引っ込み思案程度には生活ができるよう訓練を続けている。幼い頃からずっっと、試行錯誤を繰り返しながら――こうした外出もその一環だ。最近は親からも推奨されている。そうやって、慣らしている。おかげで、成長するに従って、多少は体力も耐性もつき、これでもだいぶましになった方だ。
有難いのは、家族以外にも事情を知る者がいることだ。まるおをはじめとする、手助けしてくれる心優しいモノたちもいて、暖かく見守ってくれている。縁あって出会えた優しいモノたちは、咲保の親しい友人でもある。
茉莉花の眉尻が、悲しげに下がった。
「そうは言っても、こちらの配慮不足であったことは否めませんわ。咲保さまが到着するなり、ご気分を悪くされたと聞いた時に、すぐに気づくべきでした」
「いえ、あれは、単に体調を悪くしたかと、自分でも思っていたぐらいですから」
茉莉花が傍に来て気分がよくなったことから、初めて、「ああ、そうだったか」、と咲保自身も気づいたくらいだ。ふふっ、と思わず、笑い声が出た。
「けれど、ご兄弟揃って御力に恵まれてらっしゃるのね。羨ましいわ」
「とんでもない。こうして肝心なところを見落とすぐらいですもの。大雑把すぎて、考えものですわ。咲保さまのような繊細さが、万分の一でもあればよろしかったのですけれど」
「では、お互いないものねだりということですわね」
「そうですわね。どっちもどっちと言うことで」
顔を見合わせて笑い合い、ふ、と色ガラスの花瓶に生けられた花が目に入った。大蛇のせいで、すっかり忘れていた。しげしげと眺める咲保に茉莉花も気づいたようだ。
「これですわ。佳江さんが生けられたのは」
「ああ、やはり、そうなんですのね」
ミヤコワスレに吾亦紅、女郎花にドウダンツツジの枝。
「すっきりと可愛らしいですわね」
「えぇ、でも……」
「でも、なにか違いますわね」
「でしょう? 何が違うのかわからないのですけれど……おわかりになる?」
「えぇ、どうなんでしょう?」
咲保も首を傾げた。
おかしくはない。上手に生けてあると思う。だが、なんとなく違う感じがするのだ。
(枝の長さがおかしいのかしら……いえ、そうじゃないわね……組合せ方?)
流派の違いによる感覚もあるのかもしれないが、どこかそぐわない様に感じる。ほんの僅かなズレではまり切らない箱の蓋のような、落ち着かない気分だ。
(そうね……?)
咲保は試しに、ドウダンツツジの枝をほんの少しだけ低めに傾けてみた。ほんの、小指の先ほどだ。まばらについている葉も二枚、取り除く。
「あら……?」
「少しはよくなりましたかしら」
「ええ、ずっといいわ!」
茉莉花は手を叩かんばかりに喜んだ。
(こういうところなのかしらね……)
まるおは、すでに佳江との縁は切れていると言う。些細であっても、決定的な違いになる――この生け花は、そういった表れなのかもしれないと咲保は思った。
(人間関係って難しいわ……)
そんな事をしみじみ感じていると、梟帥が女中を伴って戻ってきた。しきりに頭を下げる侍女を茉莉花は許すと、居間に温かいお茶を用意するよう申しつけた。
「申し訳ないのだけれど、もう少しだけ、何があったかお話し願えるかしら。父たちが戻る前に、何が起きたか全体を把握しておきたいの。皆様へのご説明に漏れがないように」
「ああ、そうですわね。かまいませんわ」
どうやら、そうした方が良さそうだ。いっそ、ここで何もかも明らかにしてしまった方が、後腐れがなくていいかもしれない、と咲保も思った。
「ご都合さえよろしければ、上のお兄さまもご一緒の方がよろしいかと」
「そうね、呼んで参りますわ。あらかたお客さまもお帰りになられたようですし」
そうして、咲保は居間へ逆戻りすることになった。