第三話 山茶始開 ―さんちゃはじめてひらく― (一)
<一>
歩きながら、ふ、と花の匂いがしたような気がして、茉莉花は足を止めた。どうした、と前を歩いていた兄が振り返り、問われる。
「いえ、金木犀の匂いが……とっくに終わっている時期なのに、変ね」
そう答えると、下の兄は確かめるように顎を上げて言った。
「本当だ。きっと、表でなにかしらの事情で咲けなかったもんが儚んで、こっちで咲いているんだろう」
ここは、『あわいの道』。現世と隠世の間の、ほんの少しだけ現世に近い位置にある通り道の途中だ。黄泉比良坂や仏教で言うあの世とこの世の間の六道の辻とも、また少し違う。誰が最初に開いたかは知らないが、モノや物の怪たちが行き交う道を繋げて使うようになった。公家だった者の中でも力量ある者だけが使うことが出来る、特別な道だ。使えるようになるまでにはそれなりに訓練が必要で、茉莉花は出入り口を開けられるようになるまでに、数ヵ月かかった。
「あまり意識を傾けるなよ。ここは時と座標がない場所だ。惑えば、帰れなくなるぞ」
「そのくらいわかっています」
提灯を揺らす、どこか偉そうに聞こえる兄の注意に、すんとして答えた。とはいえ、確かに、茉莉花も『あわいの道』にはあまり慣れているとは言えない。他の家族は務めで遠方に赴く際などに便利に使っているようだが、茉莉花はそういう機会も滅多になく、やむなく使ったことが、過去に数度あるくらいだ。
『あわいの道』は、常に、灯の必要な夜か逢魔時――夕暮れ時の薄暗さかのどちらかを保っている。きっと、モノだか物の怪だかが作った道だからだろう。今は、逢魔時。道の片側には鬱蒼とした竹林が、その反対側には雑草の生い茂る野原が続いている。辛気臭い場所だ。今にも、人ではない、なにかが飛び出してきそうな不気味さがある。そんな中で、梟帥の弾んだ声は異質に響く。
「ああ、けど、今日は面白かったなあ。いいもの見れたし、得した気分だ。身体も動かせたし、飯も美味かったし」
「……無理やり着いてきたくせに」
結果的に、役に立てたからよかったものの、そうでなければ、図々しく映っただろう。梟帥には、そういう所がある。他人の気や体裁などを気にしなさすぎる。軽々しい振る舞いをしながら、持ち前の押しの強さで、ちゃっかり自分の望みを叶えていたりもするから、始末に終えない。茉莉花もうっかり口車に乗せられて、後から騙されたと悔しい思いをしたことは、数えきれないほどある。この二番目の兄には詐欺師の才能があるのではないか、と思う。生まれが悪ければ、ろくな人生を送れなかったに違いない。今日も出掛けに見つかって、木栖の家に行くと言えば、付き添いだったばあやを口八丁で丸め込んで、勝手に着いてきた。
「そりゃあ、仲間内でも『なんか変わってる』って言われているくらいだぞ。一度ぐらい、お邪魔してみたいじゃないか」
「まあ、他人様の家のことをそんな風に言うだなんて」
「褒めているんだよ」
「そうは聞こえませんけれど」
「凡そ華族の屋敷らしくなくて、気楽に過ごせるって意味さ。おまえだって、楽しんでいたじゃないか」
「そりゃあ、私は、咲保さんとは普段からのお付き合いがありますから。お兄さまは、咲保さんのお兄さまとは? 学校の先輩後輩で、お務めでもご一緒されているんでしょ。これまでも話す機会などいくらでもあったでしょうに。ご招待を受けたことはございませんの?」
そう問えば、梟帥は一瞬、罰の悪そうな顔をして顔を背けると、また歩き始めた。
「それとなく拒絶されていたんだよ。口で特に何かを言われることはなかったけれど、態度で」
近付くな、という無言の圧がかかったらしい。
「嫌われていたんですの?」
「……たぶん、咲保さんのためだろ。もともと僕の出す力の加減が強すぎて、近づけたくなかったんだろうな。少し前まで、制御も下手だったし」
「そうでしたわね」
梟帥の声は、どこか拗ねて聞こえた。
咲保の兄、桐眞は見た感じでは、若干、堅い印象の、いかにも真面目そうな青年だ。中肉中背のあっさりとした顔立ちの容姿は、特に目を惹くものではないが、清潔で育ちの良さが滲み出ている。家の関係で面識はあったものの、口数の少なさから、茉莉花はこれまで彼に対し、どこか怖そうな人という印象を抱いていた。年の近い二番目の兄と比較して、余計にそう思ったのかもしれない。だが、今日、はじめてまともに会話してみてわかったが、基本、とても落ち着いた穏やかな人柄で、感じの良い青年だと印象を改めた。顔立ちは母親似で、雰囲気は父親似だと思う。口の重いところはあっても、気取らず笑いもするし、内向的というわけでもない。二十一歳だそうだが、年齢以上の思慮深さを感じた。
「桐眞先輩の制御が完璧なのは、もとは妹さんのためだったって、人伝に聞いたことがあるんだ。その時はどういうことかわからなかったけれど、咲保さんに会ってみて腑におちた」
「そうでしたの。努力されたのですね。神楽歌も見事でいらしたわ。出過ぎず、控えめ過ぎず、唄への気の乗せ方が絶妙で。良いお声でしたし」
「最初は、ただ『天才かよ』としか思っていなかったんだけれどな。でも、それ聞いて自分でもやってみて、やれば出来るもんなんだって初めて知った」
こういうところが、この兄の業腹なところだ。出来るらしいと聞いたところで、誰もが簡単に出来るわけがない。そんなことすらわかっていない節がある。
しかし、梟帥は子供の頃から兄妹の中でも一際、こちらの才が認められていた。いずれは皇のおそば近くに侍ることもできるのではないか、と将来有望視されていたが、そういえば、一時期、伸び悩んでいた時期もあったように思う――主に悩んでいたのは、両親の方だったが。持ち前の身体能力の高さばかりが目立ち、ただ乱暴に得物を振り回し、力任せに物の怪を制圧していたと聞く。それが、ある日を境にメキメキと腕があがったと、父がとても喜んでいたのを、茉莉花も覚えていた。それに咲保の兄が密かに影響していたとは驚きだ。
「咲保さんも前に、『家族にずいぶんと無理をさせた』とおっしゃられていましたわ。本来なら、自分ひとりをどこかへ隔離すればいいものを、それを選ばなかったから感謝していると。だから、咲保さんもご家族の負担を減らせるように、ご両親が集めた護法に、まるおさんたちのお手も借りて手をお加えになって、少しずつ今のご自分の護りの法を完成させたそうですの。それで、やっと普通に人とも話が出来るようになったし、家の結界の外にも、気負うことなく出られるようになったとか」
学生の頃の咲保は学校を休むことも多く、『とても身体の弱い子らしい』と噂でのみしか、茉莉花も認識していなかったくらいだ。いつの間にか、そういった話も聞かなくなったような気もする。それでも、気がつけば、教室の片隅にひっそりといた、という印象だ。
「ああ、それで、あんなえげつないものを身につけてるのか……あれはあれで、負担だろうにな」
「そんなにすごいんですの?」
「おまえにもわからないのか……まあ、色々使うことで撹乱してわからなくしているせいもあるんだろうけれど。僕の見立てだと動く結界って感じだ。守りも強いけれど、普通に人と会っても、いったん別れたら、顔を忘れるくらいに気配を殺してある」
「もともとお力が強いからなのかしら……」
「園遊会の時と比べて今日、会った感じだと、そうじゃないと思うな。たぶんだけれど、素だとそうだな……例えるなら植物みたいな感じなのかもな。触ると傷がつく薄い花びらみたいな……護法がないと、近くにいる誰かが気を乱しただけで失神したりするんじゃないか?」
「そうなんですの……それは、ご家族も大変ですわね」
近づくだけで傷めそうとなれば、他者を排そうとするのもわかる――木栖家の兄妹を思い、なんとなく二人でしみじみとしてしまった。ふ、と梟帥が口の中で笑った。
「電話借りた時に、付喪神が廊下を走ってるの見てギョッとしてたら、先輩は表情も変えずに、『気にするな、よくあることだ』って一言で片付けられた」
「あら、まあ……大丈夫なんですの?」
「あの家にずっといるヤツららしい。悪さもしないから放っておいてあるんだと」
そんなものを茉莉花の母が見たら、ひどく騒ぎ立てるのではないだろうか。
「学生時代から先輩は、なにがあっても動じない人、って一目置かれていたけれど、あんな環境に育っていたら、ああなるのもわかるな」
「ご家族も慣れてらっしゃるのね。付喪神はご遠慮したいけれど、子だぬきさん達は、すごく可愛らしかったわ」
膝丈ぐらいのふっくらした子だぬき達が、二本足でちょこちょこと走り回る姿を思い出すだけで、笑みが溢れてくる。が、次の瞬間には、口元が引き攣り、不自然に固まった。
「後ろ振り返るなよ」
囁く声で兄が言った。慌てる様子もなく、落ち着いている。
「そのまま、前を見て歩き続けるんだ」
茉莉花は返事もせず、顎だけを引いた。身の毛もよだつというのは、このことだろう。いつの間にか、二人の背後に何かがいた。何かはわからない。が、もののけであることだけは確かだ。ずるり、ずるり、と引き摺る重い気配だけがする。注意深く気取りながらも、素知らぬ顔で黙って歩き続けた。極力、足音を立てず、慎重に。共に兄がいて大丈夫だとわかっていても、自然と湧き起こる怖れと不快さは拭えない。しかし、それも、しばらく歩いている内に、ふ、と途切れるのを感じた。
「行ったな」
「なんだったのでしょう」
「さあな。どこかで発生した『ケ』が凝り固まったものが迷い込んだんだろう」
『ケ』は物の怪の『け』であり、穢れの『け』だ。形も定まらない、物の怪のなりかけだったらしい。