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第三話 山茶始開 ―さんちゃはじめてひらく― (二)

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<二>


  
「散らさなくて良かったんですの?」
「ここでやったって、意味がないだろ」
「ええ、でも、どうして放っておくしかないのかしら……いずれ、外に出て被害を出すかもしれないのに」
「そりゃあ、キリがないから。ここで叩いたところで、すぐに元通りだ」
「あら」
「そうだよ。知らなかったのか?」
「ええ。最初に、手を出してはダメだとお父さまには習ったのですけれど、理由までは……」

 すると、兄は、「親父め」、とどこか呆れた様子で首を振った。 
 
「『あわい』は、基本、時間も座標もない場所だろ。だからだよ。現世みたいに、行動すべてに結果がついてこない。ましてや、物の怪は生き物じゃないから、何したところで、なかったことになる」
「もし、私たちが怪我をした場合はどうなりますの?」
「そりゃあ、とどまる限りは、怪我しっぱなしだよ。簡単に血は止まらないし、下手すりゃ失血して死ぬ」
「死ぬ……?」

 物の怪は平気なのに――?
 今ひとつピンとこない。すると、大きな溜息があった。 

「物の怪は、時の流れに関係なく存在しているだろ。だから、本能なのか、『あわい』では滅多に物の怪同士で争うことはないし、襲ったとしても、時間のない『あわいの道』では、滅することもできない」

 そこは、なんとなくわかる。茉莉花は頷いた。

「ところが、僕たちの場合は、生き物としての時間が体内に宿っているから、変化がある。寿命と言い換えてもいい。時があるからこうして話もできるし、万が一でも襲われたら怪我もするし、最悪、死ぬ。出た時、少しだけ時間が経っているっていうのは、そういうこと。浦島太郎の竜宮城と同じだよ」
「あら、でも、そうすると矛盾いたしません? それだと、私たちが実際に移動した分だけの時間が経っていないとおかしいですわ」
「そこは、『座標がない』方の作用さ。『あわいの道』では座標がないから、どれだけ遠くに移動しても、点と点を結んだ間に距離がない。距離がないから時間も関係ないし、走ったところで、速さも関係ない。おそらくだけれど、竜宮城は、『あわい』の中の座標の固定された『場』なんだろう。言うなれば、乙姫の『結界に区切られた異界』さ。そこでは、『場』の主である乙姫の支配する時間の概念が発生する。多分、高天原たかまがはらにも等しい時の流れの『場』なんだろう。そこに招かれた浦島太郎という人間の生物としての時間も、『場』に支配されることになる」
「ああ、だから、『場』の影響のない人の世に戻ったら、すでに百年が経っていたというわけですのね」
「そ。玉手箱ってのは、浦島太郎の体内に宿る時間を、人の時間の流れに戻すものだったんだろうな。竜宮城でさんざん飲み食いしてたわけだし、浦島太郎もモノになりかけていたっておかしくない」

 なるほど、と目からうろこが落ちた心持ちで、茉莉花は納得した。「いい加減な教え方しやがって」、と兄がぶつくさと文句を垂れていた。
 そうこう話している間に、青々とした大きな赤松が見えてきた。熾盛しじょう家に繋がる出口の目印だ。

「あら、お花が咲いているわ」

 赤松の根本にある山茶花さざんかの薮に、ちらほらと濃い桃色の八重の花が咲き始めていた。殺風景な風景の中で、そこだけがぽっかりと浮いて見える。

「本当だ。珍しいな。そいつも、一応、生きているってことなんだろう。それ、輝陽きょうの祖父さまが植えたやつなんだそうだ」
「表のをここに植えかえたんですの?」
「そうじゃなくて。輝陽の屋敷の庭にあったのが、祖父さまが亡くなってからしばらくして、勝手にここに移ってきたんだ」
「まあ……飛梅とびうめみたい」

 菅原道真公が那際府だざいふに左遷された時、庭にあって愛でられていた梅も道真公のもとに飛んで移った、という伝説だ。そういえば、山茶花は『茶梅』とも書いたな、と思い出す。

「お祖父さまが恋しかったのね……」

 ここなら、死者にも会えるかもしれない――そう思ったのだろうか? 茉莉花まつりかは、指先で、そっ、と葉の先を撫でた。
 続く薮に沿って歩きほんの僅かに開いた隙間を抜けると、家の玄関先に出た。体感時間では三十分ほど歩いた印象だが、現実には、木栖きすみ家を出た時からほとんど時間は経っていないはずだ。

「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。梟帥たけるは? 一緒ではなかったの?」
「お兄さまは、先に着替えてからくるそうですわ」

 居間で寛ぐ両親に挨拶をした。兄は、自分の部屋に直行だ。借りた着物姿で、なんやかやと言われるのが嫌なのだろう。

「それにしても、遅かったわね。お夕飯をご馳走になったと聞いたけれど」
「ごめんなさい。楽しくて、少し話し込んでしまったものですから……お母さまの方はいかがでしたか、青山家のお茶会」

 答えを濁し、逆に母に問い返せば、「いつも通りですよ」、とそっけない。続いて、「それよりもそこにお座りなさい」、と改まって言われたのが恐ろしい。母の正面に腰を下ろせば、ぴんと背筋を伸ばした母は、茉莉花をまっすぐ見据えるようにして、話し始めた。

「今日のお茶会でご一緒した鈴沖さまの奥様からあなたに、良い方がいらっしゃるので、一度、お会いしてみたらどうかというお話をいただきました。鈴沖さまの甥ごさんに当たる方で、来年から国立銀行のお勤めが内定している方だそうです」
「お見合いですの……」

 いずれはそういう話もあるとは思っていたが、不意打ちすぎて嫌な気分になった。せっかく、気分良く帰ってきたのに台無しにされた気がする。もう、それだけでこの話はうまくいきそうにない、と思う。だが、断ることも出来ない。父が何も言わないのは、すでに両親の間で話が決まっているからだろう。一度、会うだけでも、しなくてはならない様だ。茉莉花は密かに奥歯を食いしばった。

「僕は、反対だな」
「梟帥」
「ただいま。遅くなりました」

 自分の着物に着替えてきた兄は、茉莉花の隣に腰を下ろした。

「反対する理由はなんだ」

 初めて声を発した父の問いに梟帥は、「理由はざっとあげても、三つはあります」、と淡々と答えた。

「一つ目は、こちらの才があること。見えるだけの微弱な力ならともかく、『あわいの道』も使えるくらいですよ。なんの関係のない家にやって、こっちの事に一切かからわせないようにするのは勿体ないし、茉莉花だって、そばで物の怪がいるのに、伴侶やその家族に気兼ねして指一本動かせなかったり、一般の人と同じ振りをして、一生、ごまかし続けるのは辛いでしょう。もし、伴侶にバレたら? 離縁されれば傷になるし、異常者扱いで密かに座敷牢に閉じ込められるかもしれない。非道だが、うちとの縁を切りたくないと考えれば、有り得る話です。二つ目は、茉莉花の生む子が、同じく素質を持っている可能性があること。或いは、木栖家の咲保さくほさんのような特殊な事情に生まれつくかもしれない。そうなった場合、伴侶の無知のせいで、必要な対処方法も教育も与えられないのは、その子にとって不幸だ。三つ目は、国立銀行勤めの伴侶を持つとなると、茉莉花は、輝陽への移住はまず叶わなくなります。その場合……」
「もういい。わかった」

 立て板に水の如く持論を展開する兄の前に、父の方が折れた。梟帥は、笑みを浮かべた。妹から見ても、胡散臭い表情だ。

「茉莉花を危険なことから遠ざけたいと思う親心もわかりますが、かえって不幸にしかねないと、僕は思います」
「そうは言っても、茉莉花も年頃ですからね。同い年の方では、すでに嫁いで子もおられる方がいる年です。こういう事もご縁ですから。選り好みしていて、嫁ぎ遅れてから後悔しても遅いのですよ。女は男とは違うのですから」
神在月かみありづきは間近ですよ。今年の出无いずも神議かむはかりはこれからです。焦る必要はないんじゃないですか。今年は無理でも、茉莉花ならきっと、良いご縁を用意されるだろうし」
「そうならいいけれどな」

 口の中で唸って、茉莉花の父は腕組みをしたまま答えた。この話はこれで終わりらしい。だが、どうやら、お断りする方向へ気持ちが動いたようだ。それには、茉莉花は心の中で安堵し、滅多になく兄に感謝した。

「遅くなりすぎない内に、あなたたちも、お風呂いただいてきなさい。皆、もう済ませましたから」
「僕はいいや。ちょっと話もあるし」
「では、私、いただいて参りますね」

 茉莉花は立ち上がった。「ごゆっくりぃ」、と兄がにやついた笑顔で、軽く手を振って送られた。そのふざけた態度は、両親を説得したのが冗談だった様に思わせた。自分の兄ながら、なにを考えているのかわからない。それでも、廊下に出て、解放された気分にほっと息を吐いた。
 浴室の暖かい湯に身を浸すと、やっと、ゆるゆると気持ちが落ち着いてきた。そして、自然と、今日の木栖家の出来事が思い出された。

(楽しかった……)

 木栖家の人たちの人柄が、その大きな理由のひとつだろう。他家であるというのに、あんな事があっても安心していられた。咲保とは最近、仲良くなったばかりだが、昔から付き合いがあったかのような気安さを、今は感じている。
 咲保が傍にいると、心地良い。その感覚が不思議だったのだが、それは、あの家の持つ雰囲気が影響しているのかと、今日思った。懐が深くて広い。家族同士が互いに思いやって、暮らしている家だ。

(咲保さんが羨ましい……)

 学生時代、なぜ、もっと彼女と親交をもとうとしなかったのか、それが悔やまれる。もっと早くから仲良くなっていれば、女学生時代は、より楽しい事柄に彩られていただろう。だが、その頃はお互いに見えない隔たりがあったし、事情も抱えていた。仕方がなかったのかもしれない。そういう縁だったのだろう。
 しかし、熾盛の家も家族仲が悪いわけではないが、木栖家ほどの絆は感じられない。世間体や形ばかりが先行しているように感じて、たまに、何処かよそよそしく舞台の台本を読んでいるようだとも感じる時がある。特に人前では――おそらく、それが普通なのだろうが、時折、もやもやもする。
 茉莉花は湯に沈み込んだ。見合いの話を聞いてからは、まるで、一人、現実から『あわいの道』に引き戻されたかのような気分だ。茫漠ぼうばくとした中で、何処に行くか知れない暗い道ばかりが、目の前に続いている。先刻まであんなに楽しかったのが、嘘みたいだ。否、茉莉花にもわかっている。なにも知らないふりをして無邪気に過ごす時期が、もう終わりだということを。
 女は選べない。選ばさせてもらったとしても、その選択肢は極めて少ない。まず嫁に行かないという選択肢は、余程の特殊事情がない限りは、ほとんどあり得ない。だから、茉莉花も近々そういう話があることは覚悟していたが、だからと言って、抵抗がないわけではない。在学中早々に縁談を決めて、『結婚することこそ女の幸せ』と、笑顔で肯定する同級生もいたが、茉莉花はそこまで素直に受け止めきれないでいる。それは、恨みつらみを抱え、怨霊おんりょうと化した物の怪たちの話を聞きすぎたせいかもしれない。
 嫁げば、それまで培った実家の慣習をいったん捨てて、新たに嫁ぎ先の家風に馴染まなければならない。己を殺し、その家のやり方にただ従う――その努力は如何ばかりか。しかし、それができなければ、前の上の兄の婚約者だった佳江の二の舞になったり、破談にならずとも苦労しているという話はいくらでも耳に入ってくる。だが、もし、叶うならば――、

(お嫁に行くなら……あんな家がいいわ……)

 気どらず、しゃべって、笑って、一つ鍋を囲むような、もしくは、あんな関係が築ける相手がいい――茉莉花は、漠然とそう思った。


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