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漠然とした大阪カルチャー認識(音楽編)(2018年『ASK ZINESTERS』#2)

漫画編と同じく、2018年に関西でトークイベントをやった時に配布した冊子からの抜粋です。

1960年代

関西フォーク
1960年代後半、ベトナム戦争を契機とする反戦・反体制運動と結びついた、社会的メッセージを含むフォークソングの歌い手が関西に相次いで登場したことで「関西フォーク」と総称される。東京の健全なフォークソングとの対比で語られる。代表歌手に高石友也、中川五郎、岡林信康など。1950年代後半から、民謡/伝承曲(フォーク)を現代的に解釈したリバイバル運動がアメリカで起き、日本に1960年代に飛び火したのが発端。

高石音楽事務所/音楽舎
1967年9月、東京からドロップアウトして大阪にやってきた高石友也のマネージメントをするために秦政明が設立した音楽事務所。翌68年1月に原宿に東京事務所も開設。のち岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎、加藤和彦、北山修、はしだのりひことシューベルツ、高田渡といった関西勢、遠藤賢司、ジャックスといった東京勢も所属した。マネージメントだけでなく「あんぐら音楽祭」などのコンサート興行のプロモーター、系列会社のアート音楽出版から月刊誌『フォーク・リポート』の発行、インディーズ・レーベル「URC」の運営など、多様な活動を行っていた。1970年1月に音楽舎に社名変更。秦政明は事務所設立前の大阪労音(勤労者音楽協議会)に所属中、1966年7月に「フォークソング愛好会」を発足させており、ここに歌いに来た高石と出会った。

かわら版
片桐ユズルが1967年8月に創刊した謄写版印刷の月刊誌。フォークに関するライヴ情報と、フォークソングのメロディ&コード譜が掲載されていた。中川五郎、小倉エージが参加。当時、片桐は大阪の森小路教会でアマチュア・フォークの集まり「フォーク・スクール」を毎月行っており、すでにプロだった高石友也を例外として、中川、岡林信康、西岡たかしなどが集っていた。

フォーク・リポート
1969年1月創刊、URCレコードの機関誌。書店に並ばず、URCのレコードを扱っているレコード店・楽器店などで販売された。編集部にいた村元武は元・大阪労音で、のち『プレイガイドジャーナル』を創刊。

URCレコード
アングラ・レコード・クラブの略。メジャーレコード会社が関西フォークの政治的な歌詞に二の足を踏んでいたため、高石音楽事務所が自分たちでレコードを制作するために発足。当初は会員に限定配布するシステムだったが、半年後に通常販売に切り替えた。1969年2月末に第1回会員用としてアルバム『高田渡/五つの赤い風船』、シングル『イムジン河』(ミューテーション・ファクトリー)『坊や大きくならないで』(トリン・コーンソン)を配布。URCからデビューした岡林信康によりフォークとロックが融合され、東京のはっぴいえんどはURCからデビューした。

ディラン
1969年8月15日、大塚まさじと石村洋子が開いた喫茶店。ジャズではなくフォークが流れることで有名になり、関西フォーク人脈の拠点となった。中川五郎、中川イサト、福岡風太、阿木譲、金延幸子、友部正人、加川良等の常連はディランズ・チルドレンと呼ばれた。大塚は森小路教会のフォーク・スクールで知り合った西岡恭蔵、永井洋らとイベント「ディランの会」を主催し、自分たちでもグループ「ザ・ディラン」を結成した。「ロック合同葬」や「感電祭」などのコンサートも主催。

1970年代

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3,195字
2001年以降に雑誌等に書いた記事を全部ここで読めるようにする予定の定額マガジン(インタビューは相手の許可が必要なので後回し)。あとnoteの有料記事はここに登録すれば単体で買わなくても全部読めます(※登録月以降のことです!登録前のは読めない)。『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』も全部ある。

2001年以降に雑誌等に書いた記事を全部ここで読めるようにする予定です(インタビューは相手の許可が必要なので後回し)。テキストを発掘次第追…

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