120 学校は何をするところなのか?
来週、大学生を前にしてお話をさせていただきます。久しぶり。中学校に勤めていたときは時折そういう機会をいただき、話をしに行きました。昔のスライドを見ながら、ずいぶんブラッシュアップされたように感じます。
今日は話す内容から抜粋して、私見を述べようと思います。
学校は何をするところなのか?
1 勉強するところ
まずはこれです。学生の頃、教職でお世話になった先生に面接講座で訊かれたことがあります。なんか抽象的な話をしていると、「アホか、学校は勉強するところや。他の力はそれがあってこそ。だから学校の先生は授業がうまくないとあかんのや」と叱られました。学習指導要領を聞きかじって、カッコいいことを言おうものならピシャリ、でした。ぐうの音も出ません。
案外これが忘れられがちで、学校は勉強するところです。家でなかなかできませんし、今でこそ学校の悪口が言いたい放題になりましたが、学校というシステムで学習するあれこれは世界的に見ても素晴らしいものだと思います。
先生は授業がうまくないとあかん。授業が下手な先生の言うことを誰が聞くねん。
そう教わりました。体験的に、やはりそうでした。
僕の中3の担任のA先生は僕が中3のときに転勤して来られました。顔なじみの先生じゃないから心配でした。でも、授業が抜群にうまい。理科の先生です。いまだに元素記号が言えます。とにかく授業がおもしろかった。わかるって大事だし、そういう先生の話はやはり聞いたら得だ、聞かないと損だという気になりました。
学校で教わることがわかる、できる。勉強での有能感、自己肯定感は他の何よりも大きいように思います。やはり学校は勉強するところなのです。
ひとりで家でもできる?はい、そういう時代になりました。だから学校ってもっともっと役割が大切になってくるように思います。
2 苦手な奴のタイプを知るところ
先の話と連動しますが、ひとりでいると人付き合いのストレスは感じません。ずっとひとりだとさすがにつらくなってきますが、シガラミはどの分野、どの世界でもしんどいものだと思います。
自分はこういう人は苦手だ。これを知ることは、社会生活を営む上で精神衛生を保つために大切な学びです。ややもするとそれがいじめになったりもします。ただ、ここではそういう深刻な事例ではなく、単に自分が苦手なタイプがわかるって大事だよねってことです。
大人になると、こと仕事になると、そういう人ともうまくやっていかねばなりません。キツイこともありつつ、自分が近づかないほうがいいなと思うタイプの人を経験的に知っておくことは両者に利益があります。
仲良くしなくていいから、うまくやる。これが案外難しい。嫌いになってしまって、攻撃でもしようものなら相手もそういう出方になってしまいます。こういうさじ加減を学ぶ場として、学校は環境として大きく寄与しているように思います。
3 何回でもミスできるところ
学校って本当にいいところだと思います。学校のなかで失敗しても、多くの場合は許されます。そして、そういうときにどうすべきだったか、どうしたら人に迷惑をかけないで済むかなど、実際に学習することができる。もちろん、タダです。
ただ、気になるのは「学校は失敗するところ、失敗していいところ」という、安直な字面だけの気休めの言葉です。子どもは失敗したくない。間違いたくない。
「ミスはミスじゃないよ」は強者の言葉です。
これをどうやって、子どもがわかる言葉にしていくのか。これは大人が頑張らないといけないところだと思います。
遅刻や提出締切を過ぎるなど、大人の世界では許されません。遅刻くらい、一日くらい、というのは子どもの感覚。これをどこまで言葉を研いで生徒に提示するかです。「いいよ」だけじゃダメ。子どもたちは絶対に、やってしまったと思っています。ここをうまく刺激して、次から気をつけようといかにして思わせるかだと思います。
ダメというのは簡単。そんなのわかっている。受け容れられてしまうからこそ、これは次はあかんな、と思えるのだと考えます。
わかっていることは言わなくていい。親切すぎるのは子どもにとっては実はありがた迷惑です。心配しなくても子どもたちは思っているより大人。
自分が子どもだった頃を思い出してください。
4 本気の自分を発見するところ
中学とか高校とか、あまり勉強しなくても点数が取れてしまう子がいます。ややもすると本気で勉強したことがないのに高校に受かった、大学に行けたみたいな子も。こういう子たちは、ある意味不幸だなと思います。
自分の限界、自分がどこまで頑張れる人間なのか、まだ自分でわかっていないからです。
僕が思う本気のレベルは「周りの人が止める」というのが基準です。もう止めろって、もうええって。見ている人たちがこういうのを言ってしまうのが〈本気〉です。そこまで自分を追い詰めたことがないっていう大人も一定数いると思います。
これに成功体験がついているとなお良い。努力の方法を自分でわかっている、いわゆる〈技化〉(齋藤孝)ができている状態です。
僕が学生の頃、最初の教員採用試験でひどい成績をとりました。席次でいうと、後ろから10人もいなかったと思います。それまでは小さい規模ですが成功した体験だけでやってきました。自分はできると過信していたのです。でも、実際に数字を目の当たりにして、これはヤバイと怖くなりました。
一方で、これは本気になるときだと、一念発起。忘れもしない、次の年の1月15日から日に10時間の勉強を始めました。よく「何からやればいいかわからない」という人がいます。あんなの戯言で、やっていけば何をやればいいか、やればやるほど自分の物足りなさに気づくものです。
当時、家族から表情が鋭くなっていったことに心配されました。芥川龍之介みたいな、気難しい感じだったと思います。でも、10時間毎日やっていました。その年に合格する一心でした。家族がリビングで談笑しててもスルー。強い心がここで養われました。
結果、その年に大阪市の中学校教員の試験に合格しました。落ちるはずがないと思っていました。それだけ準備したからです。
40になってあろうことか、また採用試験に臨むことになりました。コロナのあの時期です。テレワークになり、家族も家にいることが多くなりました。この直前に「次は高校や」と考えていた僕は「またあんなふうにしたら良い」と思って、あのやり方を再現しました。あれくらいやったら合格できると思っていたからです。兵庫の高校はどんな試験かわかりません。現職枠で優遇されるかなと思っていたら、中学校から高校の受験では優遇措置はないということでした(注:いまはあるそうです。いいなあ笑)
一からの勉強。古典文法なんかちんぷんかんぷんです。自分の高校時代はずっと野球ばっかりでしたので、もうちょっと勉強してたらよかったなと思いました。
でも、やるしかない。
結果、一回の受験で合格することができました。本気になれる自分を知っていたので、そこまで難しいと感じませんでした。むしろ楽しかったくらいです。
5 自分よりすごい奴を見て慣れるところ
さて、長くなってきました。もうすぐ終わります。
社会では自分よりすごい人がたくさんいます。個人的には「上には上がいる」という言葉がキライです。そんなのどうでもいいからです。自分は自分ですし、上がいるのは当たり前。そういうのがムカつく(笑)
でも、こういうことを経験し、まだまだだなと思う機会は成長には不可欠です。やっぱり必要なんです。だからこそ、コイツにはかなわんと思う体験が必要だと思います。それが学校だったら体験できます。すごい奴がいるからです。
そして、そういう奴がいることにまず「慣れて」、そして自分がどうしたらいいかと考える。そういうことを学校では大きな利害なく体験できます。貴重な場です。
身近で「こいつすごいな」と思っても、世間一般で取り上げられるレベルなのかといえばそこまでもない。そういうことが往々にしてあります。
たとえば、自分の地域の去年の甲子園代表を覚えていますか。そこの選手たちの名前とかポジションとか覚えていますか。僕は野球が好きでほぼ毎日高校野球を観ていましたが、ほとんど知りません。今住んでいる地は生まれ育った場所じゃないのでそもそも興味がない。あれだけ大騒ぎしても、ほとんど知りません。出身地の学校でさえ、メンバーの多くは知りません。
おそらく日本一人気のあるアマチュアコンテンツの高校野球です。それさえ、そのレベルです。そういうことなんです。上には上がいても、結局そういうのは果てしないものなのです。
ただ、翻って考えると、そこまですごい人が全国にたくさんいて、そういう人が身近にいて、この世界は成り立っています。
学校はそういう社会の一端を経験できる場でもあると思います。自分は大したことない。卑屈な意味でなく、そういうものだときちんと受け止める機会がここにあるということです。
まとめ
総じて、学校は自分を客観視できるところであり、社会の縮図を体験できるところであり、大人になって体験するであろう様々なことを擬似体験できる場です。
子どものそばにいる大人は、子どもが迷わないように、失敗しないように、場合によっては適切に失敗できるように、リードする存在でないといけません。
学校がそれらの場であるなら、先生は子どもたちが初めて経験する親以外の大人であり、他者であると言えるでしょう。意地悪な先生もいます。一方的に叱りつける先生もいる。ムカつく先輩もいるし、苦手な同級生もいる。
異質を体験し自分の深層を体験できる装置として学校はあるのかなと、僕なんかは思います。一つの仮説ですが、学校の役割はまだまだ大きいのじゃないのかな、と。まとめながら考えていました。
スギモト