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伊勢神宮と弘法大師(丹生の水銀にまつわる話)

<伊勢神宮と弘法大師>
伊勢神宮と弘法大師・空海の関係については以前も何度か書いています。
空海はもちろん、平安時代初期の実在の人物ですが、全国各地を巡ってさまざまな奇跡を起こしたとされる「弘法伝説」の多くは、空海の活躍から数百年も後の鎌倉時代以降に広まったものだそうです。
伊勢神宮にまつわる空海の話も正式な国史に記録されているものはありません。「伊勢神宮に参詣した」などの大部分は伝承なので、史実かどうかはかなり割り引かなくてはいけないと思いますが、伊勢神宮が古代以来の朝廷の庇護と崇敬を失い、全国の他の有力寺社と信者や領地の獲得競争をせざるを得なくなった、まさに平安後期から鎌倉初期の時代に、弘法伝説が伊勢神宮の神道書にも多く現れ出すのは興味深いところです。

<日本最大の水銀産地だった「丹生」>
今日もそうした、弘法伝説の一つを紹介します。
それが、三重県の山あい、多気町丹生(たきちょうにう)にあった、水銀鉱山に関する伝説です。
丹生は山あいの場所と書きましたが、国道から15分ほど山道を進み、やっとたどり着く丹生の集落は、現在でこそ過疎集落にはなってしまっていますが、突然大きな街に来たような印象を受けるほど、家屋が街道筋に連坦し、たくさんのしもた屋、つまり商売をやめてしまった商店が軒を連ねています。
中心部には大きな山門を持つ神宮寺というお寺や、丹生神社という神社もあります。

女人高野丹生山神宮寺成就院
丹生神社

なぜ丹生がこんな大きな集落なのか、それは、ここが貴重な鉱物「水銀」の一大産地であったためです。
そして、弘法伝説や伊勢神宮との関係も、この水銀と深くかかわります。

<空海と鉱業、特に水銀>
正直言うと、私は空海展がきっかけで本を読むようになるまで、空海が鉱業、特に「丹」とも呼ばれる水銀の知識を持っていたと思われることをよく知りませんでした。
幼くして秀才の誉れ高く讃岐から都の大学に進んだ空海は、そこでの退屈な学問に失望し、ドロップアウトして出家しますが、そこから遣唐使の私費留学生になるまでの青年期の約10年間、どこで何をしていたのかの記録が空白になっているそうです。この間、修験者などとともに山岳での修行に打ち込んでいたと考えられ、その際に水銀採掘の知識も習得し、さらに唐に滞在した間にも土木や医学などと共に鉱業の知識も学んだとされています。実際に金剛峯寺のある高野山は、水銀など鉱物が多く埋蔵する鉱脈地帯で、この地を選んだ空海はそれを知っていたとしか考えられないそうです。
全国の水銀の産地にも弘法伝説は多く残っており、これらは直接空海が採掘に関わったというより、後世になって弘法伝説と結びついたものだろうとも考えられているそうです。

丹生にある神宮寺にも、空海がここを訪れて自分の姿の像を彫ったとの寺伝が残っており、神宮寺は地元で「丹生大師」の別名で呼ばれているほどです。今も多くの伽藍があり、春の桜の季節や秋の紅葉の季節には多くの参拝客があります。

<丹生の水銀利権>
この丹生の地では奈良時代から水銀が採掘されていました。奈良東大寺で大仏が建立される際には、大仏の金メッキの原料として水銀が朝廷に献上されたことが続日本紀に残ります。
8世紀以降になると奈良や京都で多くの寺院が建立されるようになりますが、水銀は金メッキや朱の原料としてますます重要視され、一種の戦略物資となります。
10世紀になり律令制が衰退して荘園制が広まると、ここ丹生の地は摂関家の領地となり、さらには伊勢神宮・外宮の領地(御園)もあったようで、祭主であった大中臣(おおなかとみ)家が、12世紀の源平の合戦で焼き討ちされた東大寺大仏殿の再建に当って、朝廷に水銀を献納したとの記録も東大寺造立供養記に残ります。

歴史家の高野澄氏は、大仏再建を後白河天皇から託された重源上人が文治2年(1186年)に伊勢神宮を参詣したのも、大仏のメッキに大量の水銀が必要だったからと説明されています。丹生には伊勢神宮の権勢が及んでいたため、重源が伊勢神宮・内宮に参籠して「天照大神も大仏の再建を願っている」というご託宣を得ることで、伊勢神宮の権威を使って丹生から水銀を入手する意図があったという読み解きです。
おそらくその際には空海の伝説も登場し、真言密教による天照大神と盧舎那仏の関係論、もっとはっきり言えば一体論も重源は援用したのではなかったでしょうか?

このころの丹生には千人規模で鉱夫が在住しており、たくさんの水銀商人たちが甍を連ねて、「水銀座」というカルテルまで存在していました。中世に座そのものは珍しくはないのですが、水銀の座があったのは全国で丹生だけ、しかも水銀座の本所は伊勢神宮だったのです。高野さんは、このことに東大寺など南都勢力と伊勢神宮の水銀利権にまつわる攻防を見るのですが、くわしくは「伊勢神宮の謎」という著作をご覧ください。

採掘、精錬と、それに伴う山の坑道掘削、森林の伐採、さらに半永久に残る鉱廃水や鉱毒の問題など、水銀鉱山は地域ぐるみの巨大プロジェクトだったはずで、この地の利権を抑えるために弘法大師や伊勢神宮の権威が利用されたのも当時としてはむべなるかな、なのでしょう。

<丹生のその後>
しかし、さしもの繁栄を誇った丹生も、室町時代に入ると次第に水銀が枯渇するようになります。

江戸時代になると産業構造は水銀よりも、それを原料にした「軽粉(けいふん)」にシフトします。一般的に、原材料よりも加工品のほうが付加価値ははるかに高いものです。軽粉は化粧品のおしろいに使われましたが、時おりしも爆発的に梅毒の蔓延した時代であり、丹生産の軽粉、すなわち水銀はその特効薬として高値で流通したそうです。
巨万の富を持つ丹生の商人たちは近隣の松坂にも進出して、三井などのいわゆる伊勢商人の源流としての地位を明治まで保ち続けました。

丹生には今も鉱山の跡が残り、入り口近くまでの散策路も整備されています。本当に空海もこのあたりに来ていたのだろうか、と夢想するのも楽しいものです。
下記のリンクもぜひご覧ください。


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