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【ショートエッセイ】私は推し(贅肉)を憎悪する

推しのせいで、5歳の息子に「お母さんは赤ちゃんを産んだのに、なんで赤ちゃんがまだお腹の中にいるの?」と無邪気に聞かれ、言葉を失った。推しのせいで、私は自分を醜いと感じるようになり、少しでも細く見せたくて、SNOWという加工アプリで自分の写真を加工するようになった。

推しは私のコンプレックスの元凶である。そしてそれは間違いなく、私の自己肯定感を下げている。
推しとは、そう、ぜい肉のことである。

では、なぜ私はぜい肉を推すのか。それは、どのようなものも見方によっては、憎くも愛おしくもなることを教え、世界の見方を広げてくれるからだ。

仕事によるストレスと出産により7年で15キロも増えたぜい肉は、私に何よりも憎悪されているにも関わらず、誰よりもそばにいる。24時間365日、一日も飽きずにそばに居続け、心臓の音を聞いている。涙する時も笑顔の時も、病める時も健やかなる時もひと時も離れず私を見守っている。

母は、30年間私を見守り逝った。父は仕事第一で、養ってはくれたが見守ってはくれなかった。夫は出会ってから13年間私を見守っているが、そばにいる時間の合計はぜい肉には及ばない。そんなぜい肉は私が死ねば、死肉と化す。なんて健気で愛おしいのだろう。

このことに気づいたのは、私がトイレで便器に座り、ボーっと太ももの上に鎮座する浮き輪のような腹回りの肉を見ていた時だった。雷に打たれたようだった。何の前触れもなく唐突に愛おしいという思いが込み上げてきた。その時、世界には憎悪と愛おしさ両方の対象となるものがあることを知った。

思えば、夜の10時にチョコレートを食べながらこの原稿を書いている私は、憎いなどと言いながら、実はぜい肉と共にあることを心のどこかで望んでいるのではないだろうか。つまりぜい肉と私は相思相愛だ。

手でお腹周りを触ってほしい。柔らかく手を押し返すそれは、あなたにとってどのような存在だろうか。

※この文章はさとゆみライティングゼミの課題として書いたものです。

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