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(育児エッセイ)マザー牧場まで76キロ。息子が夢中になったのはダンゴムシだった

息子の白いぷっくりとした小さな手のひらの上を14本の小さな足が這い回っている。息子は大切なそれを落とすまいと、大切そうに両手で包み込もうとするが、黒いそれはなんとか息子の手の中から逃れようと歩みを止めない。

あっ、落ちた。

息子はそれを拾い上げようと、小さな手で掴みあげようとする。土の地面の砂が、小さな手の爪の間に入っていく。

掴み上げると息子はまた大切そうにそれを両手で包むが、それは全力を持って白い両手から這い出そうとする。

かれこれ、この流れの繰り返しが7回は続いている。

マザー牧場まで家から76キロ。
息子が、羊よりも、アヒルよりも、鹿よりも夢中になったのは、ダンゴムシだった。

「いや、春になったら、近所の公園にいっぱい湧いて出るじゃないですか」

「いつもそれを木の枝でツンツンしているじゃないですか」

「なぜここまできて、普段会えない動物よりもダンゴムシに夢中なんですか?」

私の心の声は、もちろん息子には届かない。

ふと思う。そういえば、かっちゃん(息子の愛称)がダンゴムシを手で触ったのは初めてだ。

友達がダンゴムシやセミを素手で触っていても、慎重な性格の息子は、木の棒でツンツンするばかりだった。去年4歳の時にホタルを見に行った時も、同じく見学に来ていたお兄さんが手で捕まえたのを遠巻きに見ているだけだった。

成長したな。

そんな考えに浸っている時に、ふと思う。

今日は私にとっては息子の成長を感じる喜びの日。
息子の手の中にいるダンゴムシにとっては厄災の日だなと。

自分の数百倍大きい生物が、どれほど逃げてもひたすらに追ってくる。
追ってくる。
追ってくる。

その恐怖を想像すると、背筋が凍り、心が潰れそうになる。

その日、マザー牧場の空は青く、うっすらと雲がかかっているだけの晴天だった。ゴールデンウィーク中のため、カフェには長蛇の列ができている。

目の前には、ソフトクリームを食べているかっちゃんと同じ年くらいの女の子。清潔な黄色いフリフリの服が可愛らしい。口の周りにはソフトクリームの白いおひげがついている。くしゃっとした笑顔がキラキラと輝いている。

この場所は確かに平和だった。

かっちゃんに聞いてみる。
「どうしてそんなにダンゴムシが好きなの?」

「まるまるなると、むてきなところ!アリもてをだせないところ!」

再度、ダンゴムシがかっちゃんの手から逃走した。彼は今回は草むらに逃げおおせて、もう見つかることはなかった。ダンゴムシは家に帰って、家族に今日あったことをなんと伝えるのだろうか。

私の愛おしい息子のことを「巨大な悪魔に会った」

そう言うかもしれない。

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