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人生の終わり方に「負け」など無い

こんにちは。

僧侶の目﨑です。

日頃「南無阿弥陀仏」「なんまんだぶ」とお念仏申させて頂いております。
それは、お衣を着ている時も、そうでない時もおなじです。
今回は、私が本堂にてご葬儀を担当させて頂いた時の喪主様のお話をさせて頂きます。

その方は、40代でまだ仕事盛りで、ご葬儀はその方の奥様でした。
奥様も40代でありました。お二人には中学生と小学生のお子さんたちがおります。
葬儀前にお話を聞かせて頂きましたところ、奥様に病が見つかった時に、喪主様は落胆してしまったそうですが、当の本人は静かに自分の事を受け入れていたご様子でした。


奥様が日に日に弱ってく姿を喪主様は嘆いておりましたら「そんな悲しまないでよ。私は今、幸せなのだから」と気丈におっしゃっていたようです。その姿は自身の人生に悔いがないようでした。そんな奥様が最後の時。喪主様に「子どもを残していってごめんね」と言い喪主様は奥様に「子どものことは任せろ」と言葉を交わされた後に逝かれました。
 
 通夜・葬儀の時には多くの方が参列されていました。会場の受付をして下さった奥様のご友人達に喪主様がお礼を述べた後にご友人達が

「(奥様に)してもらった事を返しているだけですから」

とお返事される場面がありました。喪主様はきっとそのようなご友人達から、奥様の在りし日のお姿に触れることができたと思いました。


多くの参列者の中には「子供をのこして可哀想に」「若くしてお亡くなりになって」と思う方がいらっしゃったでしょう。


葬儀の読経が終わり、出棺前に喪主様が挨拶をされる場面となりました。その時に喪主様が話されたことが私の心に残りました。


喪主様は重い口を開くと…

「私の妻は病で若くして亡くなりました。しかし、それは不幸だったのでしょうか。人生の終わり方に幸や不幸があるとしたら、老衰で亡くなるのが幸せで、病で亡くなるのは不幸でしょうか。また病に勝つことが良くて、病に負けて亡くなるのは、人生に負けていったということでしょうか。私の妻は違います!私の妻は人生に負けてなどいません。一生懸命に生きていました。その姿を、私は『負けた』とは言いません。妻は自分の人生に幸せを感じていました。私の妻は幸せです」


 と述べておりました。この言葉には「どうか妻を不幸だったと言わないで欲しい」という想いがあったと受け止め、静かにお念仏申し上げました。
 
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。


この南無阿弥陀仏の阿弥陀には「無量寿」という意味が御座います。
無量寿とは、「数え切れないほどの(無量)尊いいのち(寿)」という意味です。この「無量寿」の意味を、先輩僧侶が「寿(いのち)を、量(はか)ら無(な)い」と話していました。

つまり阿弥陀如来は、私達一人ひとりの命を「あの方は幸せな生き方だ」「あの方は可哀想」「あの方は長生きで、良い人生でした」と様々な人生を良い悪いで量らず、すべてのいのちは、「めでたい尊い寿(いのち)である」と受け止めて下さり、救いとってくださるのです。


喪主様の挨拶で、私自身、自分の人生も含め、人生を「良い人生」「悪い人生」と分別して生きていた事に気づかされると共に、人を、自分を分別しない、することのない「すべての命が尊い」という無量寿仏の教えに出遇えた事で、自分の人生を分別することの無いよろこびを感じるのです。
それにより私は、お念仏を申しながら、自分の人生を「尊い」として歩む勇気を頂くのです。

南無阿弥陀仏

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