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ごめんね、カムパネルラ

『銀河鉄道の夜』を読んで。

(いつものnoteで書いてる文調で書きます。畏まるより素直に気持ち出てきそうだし)

と、その前にちょっと長い前置きをしておきたいと思います。
なぜ今回の #キナリ読書フェス に参加しようと思ったか、なぜ宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にしたか。について。

僕はこれでも(どれだよ)大変な読書家だったんですよ。
小学〜高校では図書館の本を”棚単位”で読んでました。「この棚読んだ、次この棚」ってな感じで。今思うと全然、意味わかんないんだけど。
だいぶ速読だったし。
そんな僕も2020年で28歳。本は全く読みません。読むのはSNSとゲーム@Wikiです。
しかし、そんな僕もじっくり文字を追うということをこのnoteで、岸田奈美さんの記事で思い出し、今回参加するにいたった次第です。

2つめ、なぜ『銀河鉄道の夜』にしたか。
端的に言うと「宮沢賢治を好きなフリをしていた(過去形)」から。
どういうことかと言うと、小学の頃からすごい好きなスーファミのゲームがありまして、
その名も『イーハトーヴォ物語』
これがまた珍しいゲームで、RPGでありながら戦闘もなければ、謎解きもない。
ただひたすら宮沢賢治の作品に出てくる舞台を”ある男”として、歩き回って人々の話を聞くというゲーム。多少のお使いアリ。
僕はそこに出てくる『注文の多い料理店』のレストランや、『貝の火』に出てくる森を歩き回って「あ〜!読んだことある!」と喜んでやっていたんです。
が、『銀河鉄道の夜』は未読で、なおかつゲームにおいてとても重要なステージで、そこだけはとりあえずの雰囲気で進めてました。
そのゲームをやって、好きなフリをしていました。宮沢賢治を。
大変もったいない!
これを機に読んでみなきゃ!
読みましたってことです。

(ちなみにこのゲーム、スーファミとは思えないほどの高音質のBGMでマジで音楽が神なので岸田さん及びキナリ読書フェス参加者の皆様はYoutubeかなんかで調べてBGMを聞きながらもう一度本を読んでみてください)(マジで)


さて、前置きでもう800文字を超えているのですが、ここからが本題。

僕が宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んで。

僕は常々思っていることがあります。
「自己犠牲はきれいで、自己中心は汚い。
でも、きれい=善、汚い=悪、ではない」

アレです。キレイだね〜つって見る夜景も、残業して働いて家族とか恋人とか大事な時間とかを犠牲にしてるビルの灯りだったりするアレです。

カムパネルラは言います。
「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

でもさ、それって比喩表現じゃん。本当にいいの?

僕はどうしても気になるのです。
最後に一目散にお母さんのところに帰ったジョバンニのことが。

ジョバンニにとってカムパネルラは憧れであり信頼できる友人であるわけで、そんな彼が最後のシーンでああなるなら、僕はこんなに残酷なことはないと思うわけです。ジョバンニは泣くなんてところじゃないよ。
きれいなものは誰かにとって残酷でつらいことを強いるんじゃないかって、思うわけです。
そうなるとさ、言うじゃん。亡くなった人のことを「星になった」って。
ってことはきれいな夜空は無数の死体じゃん。そしてその星の数だけ悲しみ涙した人がいる。
そう思うと、素晴らしいまでの『銀河鉄道の夜』におけるきれいな情景描写ももしかしたら残酷な現実の上に立っていて、そしてジョバンニの哀れとも言える日常生活は「生きている」という点では、一番幸せなのかもしれないなんて。
そんで僕は「いやでも死にたい人からしたら生は苦痛だよな…だったらどっちが”幸”かわからないぞ…」と思考の螺旋階段に入ってしまいました。

そういえばさ、カムパネルラはどんな物を忘れていても(犠牲にしても)白鳥が見るのが本当に好きだって、言ってたけど、白鳥見れたのかな。
ってことは、幸せになれなかったっていう表現なのかな?
もしかして、彼の幸せって「白鳥」だったのかな。
だとしたら「わからない」のではなくて「見つけていない」のかな。

多分、生きるってことは「幸せを探すこと」で、生きている限りは幸せなんてわからないのが当たり前で。もしかしたらカムパネルラが見たお母さんが幸せの一つの結論だったのかもしれない。


それでも、僕が真っ先に読み終わって、思ったのは。
もしかしたら僕がジョバンニだったら、カムパネルラのことを恨むかもしれない。
こんな残酷で汚い世界に一人にしやがって。
ごめんね、カムパネルラ。
僕は君のことを、一生理解できる気がしないや。
ごめんね、カムパネルラ。
勝手に一人で行きやがって。

ごめんね、カムパネルラ。
君のことを許せる気がしないや。




〜余談〜

最初、職場の近くで銀河鉄道の夜を買ったら課題対象ではない第3稿でした。(ヘッダー画像の下の方の本)
ガッデム(でも同時収録されてる風の又三郎読みたかったから結果オーライ)
3稿といってもだいぶ変わってて、どちらも読んで違いを楽しめました。
ジョバンニはカムパネルラの姿が消えてから、謎の(4稿では登場しない)博士から「全は一、一は全」チックなことを諭され、そして
「僕きっとまっすぐ進みます。きっとほんとうの幸福を求めます。」
と力強く宣言します。
4稿のジョバンニはどうだったのかな。
でも、米津玄師の『カムパネルラ』と同じように(あの曲の主人公はザネリらしいけど)、せめて、
終わる日まで寄り添うように覚えていてほしい
と思いました。
そして、幸福を求め続けて生きてほしい。そう思いました。


あとで、感想文の感想文、書こうかな

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