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罰金を払ったら許されるルールなんて、破っちゃえば良い

法学部の友達が「罰金を払ったら許されるルールなんて、破っちゃえば良いやん」と言っていた。ことの発端は、車が通っていない赤信号を「無視して通る」か「青になるまで待つ」かという議論からだった。

「ルール違反だけど、どうしてもやりたい」ということがある時、違反するリスクを承知の上で「やる」を選択するのは、別に良いのではないか。むしろ、「ルール違反だから」と思考停止してしまって、自分のやりたいことを諦めるなんて勿体ないということを言っていた。

 

ルールに亀甲縛りされていた中学生時代の地獄の日々

僕が人生で一番ルールに縛られていたのは、中学生時代。

白い靴以外はダメ、どんなに暑くてもシャツイン、登下校中の買い食いは禁止、授業の5分前に絶対着席などなど...
今考えると不合理なルールでがんじがらめにされていた。

もしこのルールを破れば、先生が怒る。怒る理由は単に、ルールを破ったから。
こんな理不尽な生活に不満を持ちながらも守ってきたのは、「洗脳」と「恐怖による抑圧」に支配されていたからだ。この2つによって、中学生はルールが絶対だと信じさせられていた。

 

中学生にとってルールを破ることは非合理だった

中学校でルールを破れば先生が怒る。罰金を払っても許してもらえない。
なぜなら法律がルールではなく、先生がルールだから。だから守るしかなかった。先生の怒りが鎮まるまで授業時間も休み時間も放課後も全て拘束され、説教が始まる。いわばルールを破ることは、割に合わない行為だった。

「ルールを守るという非合理的な行動」と「先生に過剰に時間を奪われるという非合理的な行動」を天秤にかけると、圧倒的に後者の方が重かった。
「ルールを守るという非合理的な行動」が中学生に許される最も合理的な行動だった。


社会に出れば合理的に罰してもらえる

中学校に比べると法律は人々を合理的に罰する。罪の大きさや回数に比例して、罰の重さが変わる。社会生活に影響は出るものの、基本的には罰を受ければ許される。良くも悪くも合理的。

「ルールを守って自分の行動を制限する」と「罰を請け負ってでも好きなことをする」を比べても、中学校のルールのような圧倒的理不尽な偏りはない。
(※罪の重さや種類にもよるし、犯罪を肯定しているわけでもないです) 

ルールは「地位の高い人」が「地位の低い人」を効果的に支配する為に作られたもの。ルールは地位の高い人にとって都合の良いものなのであって、他のみんなの為に作られたものではない。だからこそ、たまには自分達のために行動することがあってもいいのではないか。という

と思いながらも、やっぱり犯罪は割りに合わないんだろうなあ。

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