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記憶に残る名選手・すごい試合!『谷繁元信のプロ野球「通」』【試し読み】

大谷翔平選手、落合博満監督、野村克也氏、上原浩治氏【3人の戦友】岩瀬仁紀、荒木雅博、浅尾拓也——独特の観察眼で読み解く名選手・名監督のリアル。

27年にわたるプロ野球人生のなかで出会った名選手、名監督の知られざる凄さ、印象的な名勝負を、体験談をもとに綴る“現場感覚”で楽しめる野球エッセイ本!

この記事では、2024年3月18日発売の谷繁元信・著『谷繁元信のプロ野球「通」』の「はじめに」を全文公開いたします。

はじめに


このたび、野球殿堂入りを果たすことができました。両親をはじめ、家族、野球を始めたときから関わってくださった歴代の指導者、チームメート、スタッフ、そして何よりもファンの皆様のおかげです。ありがとうございました。

スピーチでも言ったのですが、まさか自分が殿堂入りするなどとは思っていませんでした。野球を始めた頃はもちろん、プロ入りして現役としてプレーしていた頃も自分とは無縁の世界の話だと思っていました。

殿堂入りを頭の片隅で意識するようになったのは、メディアの人から「現役引退して5年以上経過すると競技者表彰の選考対象になる」と知らされてからです。いずれ入れるかもしれないという思いと、その一方で、殿堂入りの候補に挙がりながら結局入れなかった先輩たちもいますから、こればかりは分かりません。そういう中で今回、選ばれました。

ゲストスピーカーは殿堂入りしている方から選ばせていただくということで、権藤博さんにお願いしました。権藤さんにはベイスターズコーチで1年、監督として3年、さらにドラゴンズのコーチとして1年、の計5年一緒にやっています。覚えているのは、「配球をはじめ自分がやることに対して自信を持て」と言われたこと。そして、選手を信頼してくれたことです。

権藤さんのほかにも大矢明彦さんには大変お世話になりました。バッテリーコーチとして3年、監督として2年、きっちりと指導していただきました。さらに遡れば、さまざまなコーチとの出会いがありました。

1989年に大洋に入団して98年に優勝するまでの10年。時間はかかったのですが、振り返ってみると、その時々で必要なことを叩き込まれたと感じます。

通知式のスピーチでは「強い体にも感謝します」と述べましたが、持って生まれたものだけではなく、育った環境が与えた影響も大きかったと思います。

僕が生まれた広島県比婆ひば郡(現・庄原しょうばら市)は大自然に囲まれていて、子どもの頃は山を駆け巡ったり、川で泳いだりして遊びました。まさにネイチャーボーイ。それで強い体が出来上がっていったと思います。

もう一つ、僕がここまで来ることができた大きな原動力の一つは「勝ちたい」という強い思いです。

それがどこから来ているかというと、小学生のとき町の少年野球チームで軟式野球を始めたのですが、当時の監督が厳しい人で、試合に負けて帰ってくると、猛練習させられたんです。ものすごく走らされた。そのときから負けたくない、という思いが醸成されていきました。

89年にドラフト1位で入団した横浜大洋ホエールズ(のち横浜ベイスターズ、現・横浜DeNAベイスターズ)はBクラスが続いていたチームでした。最初はチームのことを考えている余裕もありません。自分のことで精一杯。

その後、メインのキャッチャーとしてマスクを被り始めると、やっぱり勝てない。そのあたりから悔しさが生まれてきました。自分が成長していくにつれ、勝ちたいという思いがどんどん強くなっていったのです。

キャッチャーというのはチームが勝たないと評価されません。90年代に古田敦也さんが脚光を浴びたのも、当時のヤクルトが野村克也監督のID野球で黄金時代を築いたからだと思います。

僕がレギュラーになるかならないかという頃に行われた契約交渉の席上、査定担当者に「10勝できるピッチャーを3人くらい獲ってくださいよ」と直談判しました。思いがけない言葉が返ってきました。

「それを連れてきたらキャッチャーはお前じゃなくていいんだよ。お前が成長して7~8勝のピッチャーを2ケタ勝たせるようにするのがお前の仕事だろう。そうすれば、評価される」

なるほど、と思いました。返す言葉がなくて「分かりました」。そこからまたスイッチが入りました。

当時の先発陣は、ほとんどが生え抜きで、他球団から来られたのは中継ぎの阿波野秀幸さん、島田直也さんくらい。Bクラスの時代から同じ釡の飯を食ってきた、かけがえのない仲間たちです。

先発を形成する野村弘樹さん、斎藤隆さん、三浦大輔らが96年くらいから2ケタを勝てるようになり、97年2位、そして98年には38年ぶりのリーグ優勝、日本一に輝きました。

僕自身、キャッチャーとしてもある程度認められるようになりました。今度は勝ち続けなければいけない。そういう思いがあったから、翌年の99年から2001年まで3年連続3位とAクラスが続きました。

その後、02年に中日ドラゴンズへ移籍した後もレギュラーで出場し続けていたのですが、12年までの16年、優勝か最低でもAクラスをキープ。もちろん、僕だけの力でないことは分かっているのですが、常に上位にいるチームの一人になれたことで評価されたのかなという思いもあります。

ドラゴンズへはある程度、出来上がった状態で行きました。その中で、まだまだ成長しなければいけないという課題を突き付けられたこともありました。ベイスターズが僕を育ててくれた球団なら、ドラゴンズは僕をさらに成長させてくれた球団です。

殿堂入りをすると、レリーフ(ブロンズ製胸像)が野球殿堂博物館に飾られるそうです。その際に、複数球団に所属した殿堂顕彰者は、帽子をどれにするか迷う人もいると聞いたことがあります。

野村克也さんは、現役時代は南海に入団後、ロッテ、西武へ移籍し、指導者としてもヤクルトをはじめいくつかの球団のユニフォームに袖を通しました。そんな野村さんのレリーフには帽子のツバを後頭部に回す「キャッチャーかぶり」をした顔が掲額されています。

では僕はどうするか。ベイスターズとドラゴンズ、どちらの帽子マークも付けません。2963試合に出場した「キャッチャー谷繁」として作ってもらおうと思い、キャッチャーマスクを取ったキャッチャーヘルメットを被った顔をモチーフにしてもらいました。

かつては「一球さん」と言われ、90年代から主流になったキャッチャーヘルメットにはマークは入っていません。ベイスターズ時代の写真を基にレリーフが作られるとしたら、サイドの部分に球団ロゴのステッカーが貼ってあるので、「それは外してください」とお願いしています。

過去の顕彰者の中でキャッチャーヘルメットをかぶった掲額はないそうです。そういう意味でも僕らしいレリーフが出来上がるのではないかと思っています。

本書は、このような27年にわたる私のプロ野球人生のなかで出会った名選手、名監督の知られざる凄さ、印象的な名勝負を、体験談をもとに綴ったものです。キャッチャーならではの観察眼で見た「平成プロ野球のリアル」が、現場感覚で味わえる一冊になっています。皆さんぜひ、楽しんでお読みください。

2024年2月   谷繁元信


目次


第1章
記憶に残る名選手のふるまい

(1) 大谷翔平と日本人メジャー・リーガー
ドジャース・大谷の効果で日本人株、さらに上昇
・外国人に引けを取らないだけのパワー
・本場のキャッチャーの配球を勉強
・FA宣言で一度はメジャー挑戦。横浜を敵に回したくなかった
・メジャーで成功した野手はイチローだけ

(2) 愛嬌ある名投手・上原浩治
・“野手投げ”でアップテンポ。上原先発試合は早く終わる
・ベテランになって一軍にいなかったら意味がない
・高卒野手の苦戦を考える。充実の二軍施設活用を

(3) 野村克也さんの遺志を受け継ぐ
・“続きの谷繁”は野村ID野球対策
・98年の優勝翌年、目指すは全試合フルイニング出場
・捕手の地位向上に尽力。野村さんの遺志、受け継ぐ

(4) 落合博満中日監督
・大矢監督の思いやりと厳しさ。東京ドームでゲンコツ食らう
・2004年、落合監督来たる。噂で聞く話と実像との違い
・どんな名将でも勝てる選手がいなければ優勝できない

(5) スーパースター長嶋茂雄さん
・型にはまらぬ長嶋采配と、こうと思えば曲げない信念
・巨人が強くないとプロ野球は面白くない
・調子が落ちても代えられず、我慢して使ってもらうために

(6) 野球殿堂入りした権藤博さんと立浪和義さん
・権藤さんは投手の体を理解して無理させなかった
・信頼されていると、こちらに感じさせてくれた監督
・ユニフォームで球場サウナに。代打・立浪の姿勢に感銘

(7) 3人の戦友・岩瀬仁紀、荒木雅博、浅尾拓也
・忘れじの07年日本シリーズ——岩瀬は不思議だけど頼りに
・一番多く首を振った浅尾、直感型の不思議ちゃん
・抜けたと思った打球を好捕、荒木の守備範囲の広さは随一

(8) 「清風寮」の寮長・三浦健児さん
・門限破りで“正面突破”も!鉄柵でズボンがズタズタ
・アットホームな寮の雰囲気。のびのびと育ち98年Vへ

第2章
すごい試合、ユニークなチーム

(1) 日米野球で抱いた憧れ
・そこまでしてメジャーに行く必要があるのか
・現代の日米野球は国際大会を想定した戦い

(2) 2006年WBC第1回大会の思い出
・オリンピックとWBCでは1球の重みが全然違う
・本場メジャー・リーガーの凄み。上原のフォークに合わせてきた

(3) 記憶に残る乱闘事件
・記憶に残る乱闘はアレンとブラッグス
・内角攻めを考える打者の対応と投手心理
・WBCの仲間意識は大切だがチームに戻れば敵同士

(4) 放棄試合になりかけた阪神との天王山
・没収試合なら賠償金発生。監督の一存では決められず
・審判との上手な向き合い方。いかに信頼関係を築くか

(5) 甲子園ベスト8の江の川高校
・広島商、広陵ではなく、広島工を受験した理由
・2年夏に全国レベル痛感。孤立覚悟で練習量アップ
・3年夏の県大会で7本塁打。負ける気がしなかった

(6) 野球部で鍛えられた3年間
・高校で親元を離れて寮生活。同級生と洗濯機の争奪戦
・先輩に殴られ監督からビンタ。でも、恨むことはしなかった
・厳しい上下関係でも道外れず一線守らせた父親の言葉

(7) 中日ドラゴンズ
・星野監督と入れ違いで移籍。闘将の残り香がそこに……
・ナゴヤ球場の思い出は暑さ。クタクタになったイメージ

(8) 98年横浜日本一の盛り上がり《対談》佐々木主浩
・つらくてきつい練習をしてきた仲間
・大事な試合、平常心ではいられなかった
・リリーフ投手が117イニングも投げていた
・ひとつにまとまり、戦っていたわけじゃない
・野村弘樹、斎藤隆、ワガママだったピッチャーたち
・手術は得意!これまで8回も手術を受けてきた
・アメリカでわかった日本のキャッチャーのすごさ
・三浦大輔監督にはやり切ってほしい

第3章
プロ野球「通」になる見方、楽しみ方

(1) ドーム球場と野外球場
・ナゴヤドームの広さは捕手のリードを楽にする
・ナゴヤドームで勝つ確率が一番高いのは「守り勝つ野球」
・ドラゴンズでどっぷりと浸かったドームの世界

(2) 地元・広島市民球場の思い出
・打席が土で掘れるため、ワンバウンドが変化
・ネクストの後ろでファンの声「お前、1個ぐらい刺せよ」

(3) 沢村賞を考える
・その年NO.1の投手への栄誉。2013年田中将大こそザ・沢村賞
・選手のケガ恐れる首脳陣の球数制限、練習量減に疑問
・ケガは選手の自己責任。監督が負う必要なし
・プロ野球の平均選手寿命10年。人生の8分の1、なぜ頑張らぬ
・最後は量をこなした者が勝つ

(4) 兼任監督と捕手、それぞれの代打論
・中日時代の切り札は小笠原。大打者の経験は好機で生きる
・「代打、谷繁」より若手に経験を積ませたかった
・一振りで仕留められる代打・前田は質、レベルともに傑出

(5) 社会人野球出身者の実力
・大学卒・社会人出身でプロで飛躍するのは稀
・私はパに指名されていたらプリンスホテルに行っていた?

(6) キャンプをいかに役立てるか
・砕かれた根拠のない自信。プロ4年目で初めて本気に
・コーチの指導に、自分に必要かそうでないかを判断
・ただプロ野球人生を過ごし、クビになるのは簡単なこと

(7) 奥深きユニフォームの世界
・ストッキング4つの時代を制覇。ヒザが曲げやすいのはクラシック型
・オーダーメイドが基本。丈の長い上着の注文理由

(8) 試合中の声と音
・ベンチからの声援、何を言う?「相手が気になる言葉を」
・千差万別の捕球音に打球音。野球の「音」を楽しもう


ここまでお読みいただきありがとうございました!本書は全国の書店・ネット書店にてお取り扱いをしております。ぜひお手に取っていただけたら嬉しいです。



谷繁元信 著
『谷繁元信のプロ野球「通」』

谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)
1970年生まれ。江の川高校(現・石見智翠館)にて甲子園に出場し、卒業後、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞を獲得しチームの日本一に大きく貢献。2002年に中日ドラゴンズに移籍

2006年WBC日本代表に選出され、2013年2000本安打を達成。2014年シーズンから選手兼監督になり、2016年現役引退を表明。通算3021試合出場(NPB歴代最高)、27シーズン連続本塁打、同安打はギネス世界記録に登録された。2024年には野球殿堂に選出された。

2016年に中日ドラゴンズを退任後は、各種メディアで評論家、解説者として活動を行う。著書に『谷繁ノート 強打者の打ち取り方』(光文社)『勝敗はバッテリーが8割 名捕手が選ぶ投手30人の投球術』(幻冬舎)『谷繁流キャッチャー思考』(日本文芸社)。

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