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『ロリータ』を読んだので

ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』を読んで胸が震えたので、もう少しだけちゃんとした理解を得たいと思い、再読しました。その感想です。
 

『ロリータ』とは
 

『ロリータ』という小説は、本作の主人公(どうやら罪人っぽい)が記した手記という形式をとっています。言うなら、「クレイジーなおじさんの、めっちゃ長い独り言」です。その内容は主に、とある少女とのありし日々を中心に展開されていきます。

おじさんことハンバート・ハンバートは、博識でありながら、心臓に持病があり、また精神を病みがちです。そして、いわゆる性的マイノリティでもあります。彼は「少女」しか愛せないのです。

とはいえ、少女だったら誰でもいいというわけではないようです。彼の琴線に触れる性質を持つ子どものことを、ハンバート・ハンバートは「ニンフェット」と呼びます。ニンフェット? と思われた方、以下の通りです。

さて今から、次のような理論を紹介したい。九歳から一四歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間ではなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を、「ニンフェット」と呼ぶことを私は提案したいのである。

ややこしく書いてありますが、つまりニンフェットの条件とは、

○9才〜14才
○対象とは少なくとも二倍以上、歳が離れている
○(その人にとっては)内に悪魔の本性を宿している

ハンバートは、自分のこういった世間的に許されない欲望のために、作中で結構苦しみます。律しようと結婚もします。けれどすぐに離婚して、アメリカに行き、ラムズデールという地で、運命の少女「ロリータ」と出会います。物語が動き出すのはここからです。
 

ロリータは何が凄い?
 

これは客観的ではなく個人的な見解になります。ロリータは途中まで、かなり気分が悪くなる小説です。ハンバートが孤児になったロリータを半ば脅迫しながら性的な奴隷にしているさまなどは、ドン引きの一言に尽きます。(その魅力に奴隷となっているのは、実のところハンバートの方なのですが)人権を踏み躙られていると言っても過言ではないロリータが、本気で怒ったところで、ハンバートは少女の訴えに耳を貸すことはありません。わたしはこの小説がとても好きですが、読んでいる途中で、「わたしは何を読んでるんだ?」と我に返ることがしばしばあります。特に第二章の、第一回全米旅行のあたりなどは、二人の関係の救いようのなさに、胸が塞がる心地がします。

しかし、ナボコフはこの小説のあとがきで、このように言っています。
 

文学の教師というものは、とかく「作者の意図は何か?」とか、もっとひどいことには「こいつはいったい何が言いたいんだ?」というような問題を考えつきがちである。そこで言っておくが、私はたまたま、いったん本を書き出せば、そいつを終わらせてしまうという以外の意図を持たないタイプの著者であり、それがどのように生まれ育ったのかを説明してくれとたずねられたら、霊感と組合せの相互作用といった古めかしい言葉にたよるしかない

 
作者によるあとがきは、本編もさることながらとても読み応えのあるものでした。いわゆる読了後の「答え合わせ」となり得る文章です。『ロリータ』を読んで、胸に何かしらの光の兆しを感じた読者は、その感動の所以を作者のあとがきに見出すはずです。
 

『ロリータ』は教訓を一切引きずっていない。私にとって虚構作品の存在意義とは、私が直截的に美的至福と呼ぶものを与えてくれるかどうかであり、それはどういうわけか、どこかで、芸術が規範となるような別の存在状態と結びついているという意識なのである。

 
作者は「『ロリータ』に教訓めいた意図はない」と断言していますが、あえていうならば、男性は「ハンバートにならないように」。女性は「ロリータにならないように」。心がけるべきでしょう。

というのは、わたしは『ロリータ』を読みながら、この男女の関係性って、珍しい話ではないよな、と思ったからです。ハンバートみたいな、傲慢で、快楽に抗えなくて、愛してるとはいいながらその実、相手の心の訴えには何ひとつ同調しない、真摯に向き合わない夫は、世に沢山います。

そして、ロリータのように、頼れる家庭や後ろ盾といったものがなにもなくて、夫婦関係という精神的、あるいは金銭的な主従関係から逃れることができない妻も、世に沢山います。

ただ、この物語からこういった教訓を見出すときには、『ロリータ』の本質的な素晴らしさからはかけ離れてしまうことでしょう。まさに「月を指せば指を認む」状態に陥ってしまうからです。
 

好きな箇所
 

●ハンバートがラムズデールという地に踏み込んでゆくときの描写の柔らかさ。まるで記憶にメスをいれるかのように、情景が溢れ出てくるのがたまらない。

●シャーロットとハンバートとの攻防。歯痛のお守りをさせて頂きます。

●第一章の終わり、シャーロットの重たい死の印象を引きずりながら、生者であるロリータの睫毛へとイメージが移されてゆくところ。ロリータの救いがたき未来を暗示しているようです。

●第二章のプラット女史との滑稽なやりとり(笑わずにはいられない)、ガストンとチェスをする場面

●ロリータのテニスの描写。圧巻です。

●リタのへそにメッセージを貼るところ

●ロリータとの再会の場面。ハンバートが空缶めがけて小石を「ピン」している姿を思い浮かべるところで、泣きましたね。

●最後の場面。「私にはようやくわかった、絶望的なまでに痛ましいのは、私のそばにロリータがいないことではなく、彼女の声がその和音に加わっていないことなのだと。」我々はロリータを失ったことなどありませんが、何かを失ったことのある人間なら、思わず胸を打たれ、共感することでしょう。この見事なまでの喪失の描写。何も失ったことのない人など、いないでしょうけどね。
 

最後に

 
『ロリータ』を一言で表すなら、どんな小説と説明がつくでしょうか。純愛か、はたまた、ハンバートの言う通り、言語芸術による魂の救済か。

色んな解釈の人がいると思いますが、わたしはひとまず、「純愛」に清き1票を入れさせて頂きます。

つまり、愛していたからだ。一目見たときから愛していた、最後に見たときも、そしていつ見るときも、永遠に。

人生の友となり得るような、素晴らしい小説でした。作者、翻訳者さまに、感謝と敬意を表します。

作中に出てきた他作品を読んでから、また読み返したいな。


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