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自己紹介だYO!

はじめまして。自分の簡単な略歴を書いて自己紹介とさせていただきます。

小学校時代

小学校三年のときにいじめをうけて不登校。でもまあ、それを引きずっているかというとそんなこともないという。

中学校時代

当時、不登校児の受け入れ先がほとんどなかったので特殊学級(いまでいう特別支援学級)に通うことになった。そこには、身体障害や知的障害のある子どもたちもいたけど、意外と楽しかった。

勉強ができるようになると先生に普通学級に送り込まれるという圧力をうけ、中二からまた不登校。一度、特殊学級にいくと普通学級に移籍しづらい。カタールリーグに行っちゃうと、欧州のビッグクラブに移籍しづらいように。

高校時代

出席日数が足りないから普通の高校にいけないし、私立は学費が高いし遠いしで定時制高校にいくことになった。初め、定時制は働きながら勉学に励む勤勉学生のイメージがあったけれど、そこはヤンキーの巣窟だった。あと、自衛官もいた。

定時制は、ヤンキーと自衛官と元不登校児の三つのグループに分かれていた。授業は学級崩壊状態で成り立たず。乱世でござる。

そんなとき、大検(いまの高認のこと)の存在を5月に知り、8月の試験で11科目中9科目合格。大検ちょろすぎ。先生の勧めもあり、高一で中退。

浪人時代(ひきこもり時代)

日本だと18歳にならないと大学に入れないというおそろしい事実に気づいた。年齢差別やで。仕方ないので予備校にいく。予備校代は自分で稼いだ。自分えらい。

あるとき、電車に乗っているときに心臓発作のようなものが起きた。のちにパニック発作だと診断される。

保健師である母に相談したところ、「気にしすぎワロタw」と言われて我慢していたらチョー悪化。電車に乗れないので予備校も通えなくなり、ひきこもる。かーちゃんひどすぎ。

大学時代

社会との接点をもつために通えそうな距離の武蔵大学に入った。オシャレな大学。自分が好きな岩井俊二監督の映画「4月物語」に出てきた架空の大学に似ていたことも大きかった。

武蔵という響きが美しい。

ただ、そのとき、すでに22歳。医大や美大志望でもないのに4浪。人生つらすぎワロタ。

せっかく武蔵大学に合格したのに一年で中退。やっぱり電車に乗れないし、授業に出るのもきつい。中退しすぎて、「中退の魔術師」と呼ばれるようになる。

ひきこもり時代2

母が保健師、姉がソーシャルワーカーという有利なカードをもっているのにそれがあだになって医療にも福祉にもつながれず。やっぱり身内にそういう人がいると隠すようになるらしい。

ひきこもりすぎて、どんどん頭がおかしくなる。終わりなき限界がつづき、生き地獄。

ある日、兄が古いVAIOをくれ、ネット環境を整えてくれた。そこから世界が広がった。ひきこもり関係の情報を仕入れることができ、母をぶん殴って保健所につながることができた。平成の座敷牢から抜け出した。まさにプリズンブレイク。

保健所から保健師と精神科医が家にきて、医療につながることができた。服薬と保健所の自助グループに通うことで徐々に元気になった。

ひきこもり時代3

保健所の自助グループを起点にしながら福祉作業所(いまの就労継続支援B型という名称)に通うようになった。そこで生活のリズムを整え、バイトや派遣に挑戦したが身体症状が出てしまうのですぐに仕事を辞めてしまった。もう30歳になったら死のうと思った。

それでもなかなか人間死ねない。30歳をすぎた数年後、母がすい臓がんで死んだ。母の死んだあと、ああ終わったなと思った。社会に適応するだけの知識を得られず、歳だけ重ねて、父も姉も向き合ってくれないのだから。

障害者手帳を取得した

母が死んだあと、精神科の主治医に相談した。

「作業所の所長には『あなたに働けるはずがない』と言われるし、もうどうしたら?」と僕
「大丈夫。障害者枠で働くという方法があるから。でも、おかしいな。君のお母さんには『息子さんに手帳を取らせたらいかがですか』と言ったんだけどな」と先生。

母は死ぬまで手帳のことを伝えなかった。もし早めに障害者手帳を取得していれば、働き先で苦労しなかったのに……。

障害者枠で働く

リーマンショック直後、過去最悪の就職氷河期だった。しかも、障害者枠といっても精神障害だと身体・知的にくらべるとかなり厳しいという。

僕はパニック障害があったので比較的求人が多い都内に働きにいくのも難しい。地元だとほとんど求人がなかったが、奇跡的に一つだけあってそれが郵便局だった。

約、五年近く働いたと思う。でも、自爆営業(自社製品の買取)の強要や休日の強制ボランティア(手当なし)などで徐々に疲弊していき、ある日立てなくなった。希死念慮が過去最高になった。服薬量も働く前の二倍になった。

「君は会社にとって役立たずだな」「具合が悪いならもっと薬を飲めばいいじゃないか」と上司に言われ、もう限界だったと思い、休職してそのまま退職。

離職票や傷病手当の書類を出してくれず、この世界に絶望した。

※障害者就労支援センターの職員さんが苦労して郵便局からこれらの書類を提出させてくれた。

ひきこもり時代4

社会との折り合いをつけて障害者枠で働いたのにその実態に知り、もう死ぬつもりだった。その前に郵便局相手に訴訟を起こすつもりだったが、その元気もなかった。安全配慮義務違反であれば、時効は10年。まず、体調を整えることを優先した。戦うのはそれからだ。

リハビリのため、地域活動支援センターのほかにひきこもりの居場所に顔を出すようになった。地活とはちがって話が合う人が多い。どちらかというと、外に攻撃性を出すタイプより、内(自分)を責めるタイプが多いように感じた。

ひきこもりの居場所に出入りするようになり、ひきこもり新聞の活動に参加することになった。編集会議の場所が遠くてほとんど会議に参加できなかったが、木村編集長が僕の記事を一面に推してくれたりと大変よくしてくれた。

※ひきこもり新聞の活動は、市議選に出たときとかぶっていた時期がある。

市議会議員選挙にでる

2017年3月に地元の入間市議会議員選挙に立候補した。もともと働いていたときから選挙に出ることを考えていた。就業規則に「公職に立候補するときは、休める」とあったので落選しても保険をかけられるはずだった。もっともパワハラと自爆営業で仕事を辞めたので関係なくなってしまったが……。

ただ、進まぬひきこもり支援と自らが経験したパワハラ体験が自分の決意を確固たるものとした。体調が最悪の状態だったが、選挙に出るための煩雑な書類手続きを自分一人でやった。

選挙活動は、ひきこもり当事者・経験者とひきこもり自助グループのボランティアさんの数人。もちろん、家族は手伝ってくれないし、そうしてもらうつもりもなかった。あまりに体調が悪すぎて選挙活動をしたのは、実質2日ていど。毎朝、緊張と不安で胃液を吐いた。

主な政策として以下のものを掲げた。

■障害者雇用の支援(2018年に精神障害者雇用義務化が始まる)
■ひきこもり・ニートの支援
■政策の財源は議員報酬から捻出
■土日夜間の議会開催でサラリーマンでも議員になれるようにする

当選ラインが1,150票のところ、652票ほど投票していただいた。選挙活動をほとんどできずにここまで票を取れたのは奇跡的だと言われた。

近所の人に「選挙が終わったあとにあなたが立候補したことを知った」と言われた。ただ、「つぎまた立候補したら知名度もあがったし、当選すると思う(笑)」と言われたのは嬉しかった。

ひきこもり時代5

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