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田植えと音楽と若者と-長野県辰野町川島-

5月の末、長野県もだんだん暖かいというよりは暑い季節になってきました。気を抜くと目が眩みそう。そんな時期、それはつまり田植えの時期。

新緑の綺麗な山がだんだん緑を深めていく。カエルがこれでもか、というくらい鳴いている(ゲコゲコ、ケロロ)。私はというと、急に暑くなるもんだから、体温調節が上手くできずに毎日風邪をひいた気分。

個人的な憂鬱を取り残して、農業の時間は加速する。農業は待ったなし、あれをする時期、これをする時期が決まっている。命相手の営みゆえの融通の利かなさだなと感じる(普段はむしろ融通が利く産業でもある)。

さて、序論はこのくらいにしておいて本題「田植え/音楽/若者」によって生まれたちょっぴり新しい田植えのお話をします。



田植えで生演奏するってさ。

農作業をしている時、音楽が恋しくなることはないだろうか。黙々、もくもく、モクモク、、、と作業していると、
「モウ、、、イヤッ」
と言いたくなる瞬間がないだろうか。そんなとき音楽は強い味方になってくれる。でも畑や田んぼで聞ける音楽といえばスマホとか、ラジオとかそれくらい。イヤホンで耳を防いでしまうと周りの音は聞こえなくなる。じゃあ、、楽器の奏でる音なら、、?

私たちは、普段、長野県の川島という地区で農業を軸に置いた活動をしているのだが、5月には田植えというビックイベントがあると聞いていた。手植えでやろう!ということになり、人を集めることになった。他にも別のチーム(同じ地域で自給自足コミュニティをつくっている)や地域おこし協力隊の人たちも企画に参加していて、あれよあれよという間に人が集まった。

人が人を呼び、つながり、輪が広がる。そして、つながりから新しい組み合わせができる。今回、田植えと音楽が組み合わさった。田植えをしている農業チームと演奏家のつながりで、田植え音楽会が行われることになった。

田植えと生演奏、耳から入ってきた情報をうまく飲み込めずにいた。響きはいいけど、実現できるのかな?

そんな悩みもいつしかすっかり消えていた。それはたくさんの人たちの協力や努力の上にある、感謝してもしきれない。

当日の様子

農家さんの説明を聞き終えると、みんな一斉に靴と靴下を脱いで、裸足になった。そして、ズボッ。思い切り田んぼに足を入れた。

田んぼの泥は少しひんやりとしていて、柔らかくて気持ちがいい。

苗箱から苗を取って、ビク(腰につける籠)に入れる。縦と横の線がうっすらと見える、その線と線が交わるところに苗を植えていく。


あちこちから賑やかな会話が聞こえてくる。緩やかな風が吹いて、草が擦り合う音が聞こえてくる。近くの森から鳥の声が、近くの畦道から蛙や虫の声が聞こえてくる。


“パァー”
作業をしていると、トランペットの音が谷間に広がった。みんな、顔を上げて演奏者の方を見た。トランペットとドラムが鳴り響く。体が勝手に動き出す、口ずさむ人もいる。空気も顔も明るくなる。

イベントをはじめる前は田んぼと生演奏がどんなふうに混ざり合うのか、想像できなかった。でも、谷の空気がそれを心地よく吸い取って自然に馴染ませてくれた気がする。たぶん、機械から発せられる音ではこうはいかない。楽器が響かせる音は自然によく馴染む。

田んぼの周りの風景はなかなか面白いものだった。田植えに励む人、周りの人と会話しながら進めている人、畦道を歩いている人、子守りをする大学生、疲れて日陰で休んでいる人、楽器を弾く人、それを聞く人、写真を撮る人。同じ空気を吸って、同じ場所にいるけれど、それぞれ思い思いの時間の過ごし方をする。

自分は疲れたけど、みんながまだやっているから。と言って無理をしてしまう人もいる。それが良しとされる社会もある。でも身勝手だと言わないで欲しい。みんな違うからいいじゃない。頑張れる量も、必要な休憩の量も、過ごしたい時間の流れも全然違う。だから、一見ばらばらに見えたこのイベントの風景も、見方によっては一つにまとまっている。多様なあり方が合わさって一人一人にとって「居心地のいい」空間ができる。

目印をつける
畦道ピース
トランペットとドラム
マスクがずれた、、けど手は泥だらけ笑
田んぼに線を引く道具
意気投合


誰も彼もが泥だらけ

今回の参加者は20代〜30代が多かった。でも、住んでいるところも、立場も、考え方も、それぞれ。大半は大学生だけど、役所の人もいれば、記者さん、地域おこし協力隊の人、親子も来てくれた。

普段は混ざり合わない人と、田んぼで混ざる。裸足になって、誰もが泥だらけ。見栄や建前なんて、必要ない。

裸足になることや、みんなで作業することや、同じ景色を見ることで通じ合うのを邪魔をする壁が取り払われる。

何も言わなくても、いいんだ。
ただ顔を合わせるだけで、笑い合うだけで十分なんだ。

私は堅い服装で身を覆って、自慢の靴を履いて、髪をピシッと整えて、あれこれ質問したり、説明したりしても出てくるものはとても表面的なんじゃないかと思うことがある。いい部分、かっこいい部分。見せたい部分を見せられて、わぁーすごい!がいっぱいで、もう疲れたよ。

自由に動くあなたがみたい。
誰かに説明する言葉が聞きたいのではなく、その人の振る舞いや眼差しから、その人自身が持っている姿を見てみたい。

相手を知るとき、つながり合うとき、会話は必ず必要かもしれない。けど、会話じゃない部分でも通じ合えるものはある。そういう時間を過ごせたことはとてもありがたく、またこの様な機会があればと強く思う。

 




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