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部落「問題」って名前について

サイトを立ち上げてから随分久しぶりの投稿です。

最近思うことを書きます。

部落をテーマにした本や資料は、ほとんどが「部落問題」「同和問題」といったかたちで、「問題」として語られることが多いですよね。

なんだか、この名前をやめたらどうかと思うんです。

確かに、ずっと社会問題ではありました。でも、「●●問題を考えましょう」って言われると、なんか身構えませんか?これは部落に限ったことではないと思います。人権問題、難民問題、女性問題・・・最後のは、もはやスキャンダルです。

60年代や70年代の、部落解放運動が最も盛んだったころは「社会が問題視していますよ、見過ごしていませんよ、一緒に解決を目指しましょうよ」という、ポジティブな意味での意思表示とも思え、それで良かったかもしれません(その頃は生まれてないので、実感として違ったらすみません)。

で、今は2022年。
「部落って何?」っていう人が大多数で、自分が部落にルーツを持っているとも知らない※ 若い世代も多い中で、「問題」としてネガティブに提起し続けることは、果たして誰のためかと思うのです(※「同和問題を知ったきっかけは?」という直近の東京都の調査では「同和問題を知らない」という調査が最も多いという結果が出ています)。

例えば、「部落ルーツ」とか、多様なアイデンティティの一つとしての呼び方をしてもいいんじゃないか、あるいは全く別の言葉を作っても良いのかもって思っています。被差別部落って聞くと、差別を被ってきたというニュアンスが含まれます(こういうのを行政に任せると、「では、同和ルーツではいかがですか?」っていかにも言ってきそうな)。
なんか、それとは違う、かっこいいのがいいですよね。
例えば海外では、ロマ、ダリット、イヌイットも蔑称が存在しますが、尊厳を含んだ自称が広がっています。否定的なニュアンスを避ける目的か否か、最近は「BURAKU」とアルファベット表記する人もいます。
私は、「部落」という言葉を遠慮がちに小声で話す部落ルーツの人と話すと、胸が痛みます。「なんで小声で話すの?」って聞くと、「聞かれたら困るから」という答えでした。「部落」という言葉が、すでに否定的な意味を帯びていることの表れだと思います。
以前、「大きな声で『部落』を話そう!」というイベントに参加したことがありますが、そのイベント名に全くの同感。共感しすぎて感激。すでに使われている言葉の意味を変えていくのって難しいとは思いつつ、何かいいのないかなと、時々考えています。

余談ですが、荊冠旗(けいかんき)という水平社時代に作られた旗があります。

荊冠旗(Wikipediaから画像引用)

これをモチーフにしたピアスやマスク、うちわを作っている人がいるというのを、SNSで見ました。このトゲトゲの輪っかみたいなの、赤は血をイメージしているそうなのです。うーん。なんか、ちょっとおどろおどろしい?
これこそ大きな声じゃ言えないけど、今どきじゃない気がする。

確かに、運動団体の人たちが、すごく闘ってきたのは分かります。私自身も、差別の悔しさを実感したことや、体験談を読んだり聞いたりして心が燃え上がったり、自分のルーツを理由に、選択を迷ったこともあります。でも、24時間365日、自分のルーツについて考えているわけでもないし、部落にルーツを持つからといって、誰もが戦士である必要はないと思います。それに、戦士になれないことを悲観する必要もありません。距離をとって生きるのも生き方、知らない・教えないのも自由。
むしろそういう後者の生き方を「差別に対する能動的行動」と捉えられると主張している学者もいます。「水平社宣言は、闘う部落民像の押し付けでは」と海外の学者が論じていて、うむ、と考えたこともあります。

私自身は、自分が部落にルーツを持つと知っていることは、物の見方に影響してきました。例えば、若いころは、差別はしないこと、弱い方に味方すること、権力とか理不尽なものは拒否すること、そんなことが行動の指針でした。今は、困っている人に味方したい、助けたい、と常に思っていて、LGBT界隈でいうところのアライ(味方、Ally)、国連がいうところの人権擁護者(Human Rights Defender)でいようと思っています。道を歩いていても、「困っている人いないかなぁ〜」と探しているようなところがあります。だから、電車の優先車両に進んで乗る、ヘルプマークをつけている人がいると「何かお手伝いしましょうか」という気持ちで見守る、そんなお節介すぎる自分です(ちょっと気持ち悪いかもしれませんね)。

親しくしてくれているアイヌ研究の先生が十何年前に言っていました。
「自分のルーツを知っていることと、『もしかしたらそうかもしれない』と疑っている状態との間には、大きな隔たりがある」と。「当事者」と「当事者かもしれない人」が違うのは、確かにそうだと思います。でも、少なくとも、当事者に味方しようという態度は、「かもしれない人」の中でも作られていくものと私は考えています。だからこそ、ディアスポラ状態に散らばっている人にも、忘却のかなたにいる人にも、少しだけ、ルーツについて関心を持って欲しいと思っているのです。

というわけで、私が「部落ディアスポラ」と呼ぶのは、そんな意図もありつつ、「部落」を超ネガティブアイデンティティから救うこと、多文化共生や多様性の文脈の中での「単なる属性」として捉えることの試みでもあります。

今日はここまで。あと、大事なことを宣伝させてください。

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見えない存在である「部落ディアスポラ」の方たちからお話をお聞きし、可視化していく学術研究しています。もちろん仮名で構いません。質問内容は構想中ですが、部落に対する想い、普段の生活に影響しているかどうかなどを聞く予定です。協力しても良いよという方いたら、ぜひご連絡をお願いいたします!全国(海外の場合も応相談)出張いたします!

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