旅先で部屋に籠もるのもいい
大学生の頃から幾度となく「旅行する意味」を考えてきた。当時は、①在来線の列車に揺られながら地域を巡り、②美味しいご飯を事前に精査して実際に味わい、③名所と呼ばれる観光地を訪れることが、旅行する意味であると考えていた。鉄道と食が趣味であるから、多くの方の主目的である③に先立って①②が存在する点はユニークかもしれない。ただ、これらに共通して言えることはすべて物質的・即物的であることだ。沢山の物と向き合っては徹底的に消費し尽くし、自分の経験の輪郭を広げていく。その傾向が強くなっていくと、却って自分の経験の「濃度」が薄まっていくような感覚に陥る。時間とお金を掛けて経験を広げていくことはもちろん大切だとは思うが、同時に経験を濃くしていくことも欠かせないだろうと思うのだ。
この考え方は、妻との出会いで大きく前進する。妻は「自分が行きたい場所」を、自分なりの理由を以て提案してくれる。理性よりも感性で物事を捉え、その特性に磨きをかけていく。数多ある妻の好きなところの一つだ。妻とは何度も旅行を重ねて、そのたびに妻からは多大な刺激をもらっているが、とりわけ新婚旅行は夫婦という共同体だけでなく、私という個人にとってもかけがえのない経験になった。
現地の人々の時間感覚を肌身で感じる
九州の方々は、一つ一つの所作が非常にゆったりとしている。レジスターに立つ方でさえ、その方自身のペースで対応しているように見える。この地域では時間がゆっくり流れているのだと感じた。首都圏であんなにせかせかと時間をやりくりしている自分がちっぽけな存在に思えてくる。時間を切り詰めて対処する数を増やすことよりも、一期一会の機会をどれだけ深く心に留めるか、が肝要なのだ。
旅先には行くべき時機が存在する
「以前に訪れたけれど、いまいち楽しめなかったなあ」と思う場所も、今になって訪れてみると案外楽しめるかもしれない。私の場合は、長崎県長崎市の大浦天主堂がその好例だった。宣教師がキリスト教を日本に伝えてから約300年後、再び宣教師が来日したときに隠れキリシタンと出会うまでの軌跡が、鮮明かつドラマティックに描かれている様に舌を巻いた。その他にも、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館など、大人になったからこそ楽しめる場所はたくさんある。そのような場所をこれからも発掘していきたいと思う。
部屋に籠もるのもいい
旅先では新しい体験を得ようと、部屋に籠もる時間を極力少なくして、朝から晩まで名所巡りに奔走していた。一人で旅行するならそれもいいだろうが、二人以上となるとそうはいかない。社会人になって、一人旅よりもむしろ複数人旅をするようになり、自分と同じハイペースで旅行する人は少ないのかもしれないな、と思い始めた。今回の新婚旅行では、種子島を訪れた際に、妻が風邪を引いてしまい、夕方の早いうちから宿泊施設内で過ごすこととなった。妻が先に就寝した後、私は一人で過ごしていた。いつもとは違った空間で本を読んだり、noteを書いたりすると、普段使わない頭が働く。特に、窓越しに波の音を聴きながらnoteの文章を書くなんて、文豪になった気分。
呼び起こされるゲストハウスの記憶
「旅先で部屋に籠もる」と書いて思い出したことがある。一人旅を敢行していた頃、宿をあえてゲストハウスにしていた。2段ベッドで寝床を共にする見ず知らずの人々と、ゲストハウスのダイニングでご飯を囲みながら他愛もない話を交わすのが楽しかった。素性を殆ど知らなくても、ゲストハウスが好きな気性は合うからか、会話のテンポも弾みやすい。こういう時間ってとても大切だったなあと思い返す。ゲストハウスのオーナーも親切で、まだ発掘されていない素敵な雑貨店・飲食店の情報を教えてくれることも多く、実際よく当たる。ゲストハウスについては語りたいことがたくさんあり、また別の機会に書けたらいいなと思う。
生き急いで、どうするの?
自分はどうも数多のことを急ぐ癖があるようだ。社会的にはそれを褒められる傾向にはあるが、それで満足できるのか? 楽な方に流されやすい人間という生き物は本来怠惰なのだと思う。「怠惰」と言うとネガティブな響きを含むように聞こえるが、その中に大事なものが隠されているように思うのだ。スピード感のある日常から離れて、自分を見つめ直す1週間。怠惰な自分の存在をようやく真っ向から認められた気がした。